月の人

もぐり

月の人

 6月の風は生温く、頭上のポプラは孤独に倦むようにしずしずと揺れていた。

 住宅地の合間、周りを家々に囲まれた公園は肩身が狭そうで、実際の広さよりも小さく感じる。

 平日の昼間。子供たちが来ない間は、ここはいつもこうして息を殺しているのだろう。

 先程買ったおにぎりと野菜ジュースが入ったコンビニ袋が、ベンチの端で風を受けがさがさと音を立てる。

 すると私はその平穏を乱す闖入者か。

 頭を過ったそんな発想に自分で驚き、思考の流れを留めるため緩やかに首を振る。

 闖入者。彼が好みそうな自称だ。彼に影響されることなどないと思っていたが、脳裏の隅は既に侵されているのだろうか。俯き、寄せた眉間を指でつまむ。再び顔を上げると、ちょうど公園の入口に件の彼の姿が見えたところだった。

 こちらに向かって腰の辺りで小さく手を振ると、そのまま歩いてくる。

 彼の歩き方は不思議だ。一歩一歩の歩みはまるで酔っ払っているかのようにふらふらと頼りなく見えるのに、それが連なった全体としての歩みを見ていると、確固としたひとつの先に向かって一切の揺らぎもなく真っ直ぐに進んでいるような印象を受ける。

 今もそうだ。入口からずっと彼の姿を目に捉えていたにも関わらず、私の前で立ち止まったその姿には、いつの間にやって来たのだ、と問いたくなるような唐突さがあった。

 彼は無言のまま、私に向かって微笑みかける。季節を問わずいつも被っている青灰色のニット帽からは、薄暮の空のような薄紫の髪が覗く。その下で、彼の目は柔らかく細められている。

 何が入っているのか、中身が詰め込まれて生地が張った肩掛けかばんをベンチにどさりと置くと、私の隣に腰掛ける。

「早かったな。病院は行ってきたのか」

「うん。さっき解放されたとこ。思ったより突っ込まれなかったよ。かといって僕の話を信じてくれたわけではないんだろうけど。事務的って感じ。つまんなかったな」

 わざとらしく口元を不満げに曲げてみせるが、目は変わらない。彼の目はいつも、笑みの形に歪んでいる。

「そうか。診断は?」

「いやだな。一回の診察じゃ確定診断なんて出ないよ。気持が不安定気味とかなんとか言われただけ。薬は出たけどね。なんか気分を落ち着かせるみたいなやつ。飲みたくないから薬局は寄らなかったけど。もしだったら処方箋はきみにあげるよ。いつも気難しい顔をしてるからね。貰ってみれば?」

「馬鹿」

 がさり。コンビニ袋が揺れる。

 私はそれを手にとり、彼に向かって差し出す。

「ほら、これ。お前、前に会ったときよりさらに痩せたように見えるぞ。食事はちゃんととってるのか」

 彼は袋を受け取ると、中をごそごそと探り出す。いくらのおにぎりを取り出すと、ひっくり返して裏側の表示を眺めながらぼやく。

「いつも言ってるでしょ。地球の食べ物は栄養過多なんだ。僕の身体は月での枯れた食事に適応しているからね。こんなものまともに食べたら、むしろ病気になっちゃうよ」

「……。とにかく食え」

「ま、くれるというなら断れないや。二日に分けて食べるよ。ありがとう。ジュースは今飲もうかな」

 おにぎりを袋に戻すと、野菜ジュースの紙パックを取り出す。付属のストローを慣れた手付きで取り出すと、パックに突き立てる。

「栄養過多じゃないのか」

「市販の野菜ジュースから栄養なんてほとんどとれないってよく言うでしょ。ほんとか知らないけど。たぶん大丈夫なんじゃない?」

「それでいいのか」

 ストローの先、触れるか触れないかほどの端に小さく口をつけ、ちゅうと啜る。

 ストローの中のオレンジ色が上がったり下がったりするのを見ながら、私は尋ねた。

「次回の診察はいつだ。言っておくが、今日行ったからもういい、なんて思うんじゃないぞ。ちゃんと通うんだ」

「きみの頼みだもの。また行くよ。今日だってきみの言う通りちゃんと行ったでしょ。信用してほしいな。次は2週間後」

 先を失ったオレンジ色は、ゆっくりとパックの中に戻っていく。未練がましくこびりついた少しの残滓だけが、白の中に残っている。

「あ、そうだ。次回は採血をするって言ってたな。といっても、僕の本当の血が採られたら大変だ。実験動物にされちゃう。その前に左腕にダミー血管を通して偽血を入れとかないと。地球人の血液サンプルが必要なんだけど、きみに頼んでもいい?」

「……好きにしろ」

「ありがと。といっても別に血を出してもらう必要はないんだ。唾液でいいんだよ。唾液も元々は血液だからね。月の技術ならそこからまた血液を再現するくらい造作もないんだ」

 かばんからフィルムケースを取り出し、蓋を開けると、こちらに向かって差し出す。

「ほら、ここに」

 今時フィルムケースなんてどこで手に入れたんだ、と思いながら、私はその中に唾液を吐く。

 彼はケースの蓋を閉めると、今も一瞬とて形を崩さないその目で前方を見つめたまま、それを横に置いたかばんの中に手探りで放り込む。

「細かい数値はこちらで調整するよ。ガンマなんとかだっけ?お酒をいっぱい飲むと高くなるっていうやつ。きみ高いんでしょ。それは低くしとこう。アルコール依存症だと思われたら恥ずかしいもんね」

「……」

「きみも気を付けなよ。あいにくだけど、もし倒れても月の医療は地球人には受けさせられないからね」

「……分かってる」

「うん」

 風が湿度を孕んだ熱気を運んでくる。

 ニット帽から覗く髪は、夕闇のすすき畑のように静かに揺れている。

「帽子、暑くないのか」

「暑いね。でも外さない」

 彼の被るニット帽はいつも不自然に膨らんでいる。髪によってではないのだろう。何か、定まった形を持ったものが無理やり詰め込まれているようだ。

「なぜだ」

「見られてはいけないからね。この中身を」

 彼の目は変わらない。前方のどこか一点を見つめる。

「中身?」

「うん」

「……」

「聞かないの?」

「聞いていいのか」

「いいよ。きみだものね。特別」

 彼の変わらない目が、こちらを向く。並べて伸ばした右手の中指と人差し指が、帽子と髪でほとんど隠れた右耳を指し、その次に帽子の膨らみに向かう。

「僕にはね、もう一組耳があるんだ。ウサギみたいな長いのが。月にはウサギがいる。この伝承は、かつて僕のご先祖様を見た地球人が伝えたものなんだよ」

「……」

 ため息を吐く。

「信じてないね」

「当たり前だ。月にウサギがいるというのは、地球から見える月の模様が由来だ」

「模様か。あんな曖昧なものの見え方なんて、時代や文化、それに気象条件なんかでころころ変わるものだよ。それよりも今ここにある耳の方が確かさ」

「じゃあ見せてみればどうだ」

「嫌だよ。すぐに実験動物だ」

「今なら誰も見ていない。帽子をとってみたらどうなんだ」

「……」

 彼の目がこちらを見ている。彼と目を合わせようとするのは、いつぶりだろう。

「僕はいいよ」

 もしかしたら、今が初めてかもしれない。

「でも、きみはいいの?」

「……どういう意味だ」

「……」

 笑みの形を作った目は、その奥を覗かせない。その目はそれ自体の色を持たず、見る私の視線をそのまま反射するようだ。私はそれをじっと見つめる。

 平日昼間の公園。静けさが過ぎていく。

「やめとくよ」

 彼の目に映る私の視線が、私を外れる。彼は再び前を向く。どこなのだろうか、私には分からないひとつの先を見つめる。

「誰が見ているか分からないもの。周りは窓だらけだ」

「そうか」

「耳は僕が僕である大事な証だよ。でも、それを見られたら、僕は今のようにここにはいられなくなっちゃう。結局僕は地球では異物なんだね。でもね。かといって、こそこそしたくはないんだ。僕の方こそ地球にふさわしいんだ、と思うこともあるよ」

「お前の方こそ、か」

「だってさ、元々、はじめに地球に生まれたのは僕のご先祖様だったんだよ。ところが後から生まれた今の地球人たちがご先祖様を仲間外れにして、無理やり月に追いやっちゃった。だからさ、今はこうして隠れてるけど、ほんとは僕だって、僕のままで、地球で暮らしていいはずなんだよ」

「……」

 私の視線を映していないとき、彼の目は何を映すのだろう。

「ウルトラマンでも観たのか」

「ノンマルトの使者のこと?ウルトラセブン42話。子どもの頃にTSUTAYAのレンタルで観たなあ。うん。影響は受けたかもしれないね」

「子どもの頃は月にいたんじゃないのか」

「昔からたまに見物に来てたんだよ」

「……」

「そう。僕は昔からずっと地球の世界を見てきたんだ。色んなものを観察してきた。ねえ、そういう、今までに触れたものが集まって、人は作られるのかな。どう思う?」

「そうかもしれないな」

 彼自身の視線は、世界をどのように見ているのだろう。

「きみの言うように、創作物の影響もあるかもしれないね。感情移入ってあるでしょ。自分ではないものに自分を重ねて、同じように体験する。喜怒哀楽、幸せとされるもの、不幸とされるもの。正常とされるもの、異常とされるもの。創られたものに導かれるまま学習し、経験する。やがて記憶の中で、それはもはや元々自分自身が持っていた感情だったのか分からなくなる。もしそういうものが混ざって自分を作っているんだとしたら。でもね、その境界線なんて、それは後になっては分からないし、分かったところで変えられない。自分は自分だもの。うん。元々自分ではなかった、他の創作物。それはやがて自分になっていくんだ」

「……そうかもしれないな」

「それがもし自分で創ったものなら、なおのことね」

「……」

 唐突に彼は立ち上がる。口を開く。声を出す。

「そろそろ行こうかな。近くに迎えが来てるんだ」

「迎え?月からのか」

「まさか。友だちだよ。女の子。最近仲良いんだ。これから遊びに行くんだよ」

「……」

 風が私を揺らす。

「次の通院は2週間後と言ったな」

「うん。同じ時間だよ」

「……じゃあ、その後にまた会おう。場所はここだ。都合はつくか」

 彼の目が、はじめて形を変える。笑みを象った目が、ゆっくりと、さらに細められる。月が欠けるように。

「今日だって何も約束してないのに会えたでしょ。大丈夫。会いたいと思えば会えるよ。きみが思えば」

 私は何のために彼と会い続けるのだろう。彼のためか、それとも私自身のためか。

「またね」

 彼の被るニット帽はいつも不自然に膨らんでいる。

 彼がそれを外した姿を、私はまだ見たことがない。

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