第32話 一途に愛を囁く
黙々とオペの閉創をしていると、器械出しの浅川がぽつりと呟いた。
「今日の神野先輩、いい香りしませんでした?」
思わずぎくりと顔が強張る。
真弥は香水をつけない。ただ、今日は神楽と戦う為に堅祐の匂いを持って行ったのだろう。
せめて香水の付け方を教えておくべきだった。あんなに美味しそうな香りを振りまいて……元気な雄に差し出す極上の餌じゃないか。
いつもより指先がもたついている様子に気づいた浅川は目を細めた。
「……神野先輩に言われたんです。手術室はひとの命を救う大切な場所だ。でも最初から希望して入職する人は少ない。新人で希望して来てくれたきみがいてくれるから、手術が円滑に回るんだ。スタッフ誰一人欠けて良いことなんてない。我々はチームだから。出来れば、これからもここにいて欲しいって」
出来る人間はいい事をさらっと言う。真弥の言葉に胸が熱くなった。
手術は医者が花形のように見えるが本当は違う。医者は切って縫う。それをサポートする看護師がいて、滅菌や掃除するおばちゃん達がいて、部屋を采配する師長がいて、手術の前に必要な器械を揃える。
誰か一人でも欠けてしまえば、オペはできない。特に、長丁場のオペであればあるほど、縁の下の力持ちは必須。
「私、うまく働けなくて、精神的におかしくなっていました。あんなことをしたのに、神野先輩も、花巻先生も、何一つ文句言わないで……」
「ちょ、ちょっと! 俺が浅川さん泣かせてるみたいじゃない! ここ、監視カメラ回ってるから泣かないで。頼むよ」
麻酔科医は別の部屋との掛け持ちで不在。二人きりの状態で浅川が泣き始めてしまっては、泣かせたようにしか見えない。
「花巻先生と神野先輩、本当に格好いいですよね。私、見つめ合う二人を見て敵わないなって思いました」
「え、浅川さ──」
一瞬術野から顔を上げると浅川は吹っ切れたように微笑んでいた。
色々聞きたいことがあるのにタイミング悪く麻酔科医が戻ってきてしまい、おまけに浅川が泣いていたので、堅祐は最後まで言い訳に追われる形となる。
◇
夕方のオペを終わらせた堅祐は時間外調整の為に早退させてもらった。若頭とのケジメをつけた真弥がマンションで待っているからだ。
「マヤさん!」
急いでリビングに向かうと、彼はエプロン姿で料理をしていた。買い物にいく余裕があったと言うことは、若頭との話は早く終わったのだろうか。
「おかえり、堅祐」
「マヤさんっ……」
良かった、若頭に奪われなくて。
真弥の髪に口づけ、首筋から香る同じ匂いを鼻奥まで吸い込む。
「マヤさん、俺の匂いつけていきましたね?」
「匂いって……なんか、その言い方嫌だな。あとごめん、堅祐の香水を借りた」
「ああ、そんなんいくらでも使ってください。んーめちゃくちゃいい匂い。美味しそう」
「今日は肉じゃがにしたよ。寒くなってきたし、明日も食べ──」
キッチンのシンクに背中を預ける真弥をかき抱き、首筋から上にかけてキスを落とす。
唇を塞ぐとお互い舌を突き出して次第に深くなる。
とろんとしたところで真弥は慌てて火を止めて鍋に蓋を閉めた。
「もうお腹空いたのか?」
「先にマヤさんを食べたいです」
「お前は、いつも食欲旺盛だな……」
しょうがない奴だと笑われたけど、こんなにいい匂いで側に居られると理性が持たない。それに、ケジメをつけてきた真弥がここに居ると言うことは、もう二人の間を邪魔するものはない。
「鍋、危ないから……せめて」
「ご飯はあとでゆっくり食べましょ。マヤさん、こっち」
二人で寝室まで手を繋ぎ、恥ずかしい奴だと笑われたけど気にしない。
照れ隠しのように少し饒舌になった真弥はキスの合間に神楽とのやり取りを少し話してくれた。
「神楽さん、堅祐のこと番犬って呼んでた」
「確かに手術前の説明の時にめちゃくちゃ睨みましたからね。俺はマヤさん専属の番犬でいいですよ」
真弥のエプロンはつけたまま、服の上からお互いの身体を抱きしめて体温を感じあう。
着衣のままあちこち触れ合うのが何となくむず痒くてすぐに堅祐が根を上げた。
「マヤさんごめん……我慢出来ない」
首筋に軽く噛みつくと、まだ年末の出勤があるから痕を残すなと速攻で叱られた。
それでもあちこちに自分だけの真弥という印を残したくて服を捲ると厄介なPHSが鳴る。
「堅祐、電話……」
「あとでかけ直します。俺、当直じゃないんで」
「んっ……でも」
いつもより素直な反応を見せる真弥とせっかくいい雰囲気なのに電話は一向に鳴り止まない。渋々出ると発信者は片倉部長からだった。
『悪い花巻、嫁と子どもが肺炎で動けない。俺と年末年始の当番変わってもらえないか?』
「いいですよ、その代わり年明けの少し落ち着いたところで連休いただけますか?」
『ああ、それは俺が代わってやる。すまんな……それで今緊急オペでイレウスが入って出村とお前に頼みたい』
真弥は感じている自分の声が入らないよう涙を貯めたまま必死に両手で口元を押さえ、息を殺していた。
わざと密着した腰を軽く揺すると首をブンブンと振る。その姿がたまらなく愛おしい。
「あー、大丈夫です。丁度、神野くんと一緒に居ましたから。二人で行ってきます」
『そうか、真弥がいるなら安心だな。頼む』
一瞬電話越しで部長が嬉しそうに笑っていたような気がした。
勝手に電話を切ったところで、堅祐は真弥に後頭部を思い切り小突かれた。
「お前、勝手に俺の名前出していたけど、ベル当番って代われないんだぞ?」
「大丈夫。今から当番に電話するから」
と言いつつ、真弥は身体を起こしてエプロンを外し、ハンガーにかけている自分の上着に手を伸ばしていた。
「もしもし、花巻です。今片倉部長から連絡ありまして、俺が年明けまでベル変更なりました。上の先生いてくれたらオペ始められるから声かけお願いします。こっちに丁度神野くんがいるから器械出しは大丈夫。二十分後ね、わかった。いきまーす」
トントン拍子に話を進めた堅祐に呆れつつ、真弥はしっかり外に出る準備をしていた。
「年明けに連休つけるから、マヤさん……デートしましょ? 温泉旅行」
「あのなあ、オペ室は連休なんて難しいぞ」
「ベル当番に当たらなければ週末は必ず休み、月曜だけ有休もらってくれたら土曜出発で行けますよね?」
真弥の時間外は労働基準法に引っかかる。それを知る堅祐は間違いなく師長から休みを貰えると踏んでいた。
「俺も頑張るから、マヤさんデートしてくださいね」
「……俺の気が変わらなければな」
さっさと黒のショルダーバッグを持ち玄関で靴を履く真弥を慌てて追いかける。
大嫌いからスタートした二人の関係は、ようやく形が見えるくらい綻んできた。
これからも彼に溢れんばかりの愛を囁き続けよう。
例えあの歪な傷を忘れることは出来なくても、そっと包み込んで外からゆっくりと塞げるように──。
第一部 【完】
研修医は一途に愛を囁く 蒼龍 葵 @aoisoryu
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