完食の家――祖母の遺産と呪われた饗宴

ソコニ

1話完結  完食の家

 テーブルに料理が乗り切らない。

 三島颯真は、目の前の光景を呆然と見つめた。大皿、中皿、小鉢。煮物、焼き物、揚げ物、刺身、寿司、天ぷら。白米の大釜が三つ。味噌汁の鍋が二つ。果物の盛り合わせが四皿。

 そして、テーブルに乗り切らなかった料理が、床に並べられている。

「……これ、全部?」

 颯真の隣で、従兄弟の拓海が呟いた。二十代後半、颯真より五歳年上だ。

「食べるんですか?」

 拓海の妻・由香里が震える声で言った。

 応接間には十二人が座っている。祖母の葬儀に集まった親族だ。颯真の父、叔父、伯父、従兄弟たち。全員が同じように困惑した顔をしている。

 ただ一人を除いて。

 上座に座る伯父——祖母の長男である重蔵だけが、落ち着いていた。七十歳を超えているが、背筋が伸びている。その目が、全員を見回す。

「聞いてください」

 重蔵が低い声で言った。

「これから三日間、法事が続きます。その間、一つだけ守っていただきたいルールがあります」

 颯真は息を呑んだ。重蔵の声が、妙に響く。

「この家では、配膳された分を必ず完食すること」

 沈黙。

「一粒でも残してはいけません」

 拓海が笑った。乾いた笑いだった。

「伯父さん、冗談ですよね? この量、無理ですよ」

「冗談ではありません」

 重蔵が拓海を見た。その目に、感情がない。

「この家のルールです。母——あなた方の祖母が、生前から守ってきたルールです」

「でも——」

「残した者には、罰があります」

 重蔵が立ち上がった。奥の部屋を指差す。

「母の遺影が、見ています」

 颯真は振り返った。

 仏間。そこに飾られた祖母の遺影。

 写真の中の祖母が——笑っていた。

 いや、笑っているように見えた。口角が、わずかに上がっている。まるで、何かを期待しているかのように。

「では」

 重蔵が全員を見回した。

「いただきます」

 誰も箸を動かさない。

 颯真は目の前の料理を見た。自分の前だけで、大皿が三つ、中皿が五つ、小鉢が七つ。茶碗には米が山盛り。普段の五倍はある。

「食べないんですか?」

 重蔵が言った。

「それとも——残しますか?」

 颯真は箸を握った。

 震える手で、煮物を口に運ぶ。

 美味しい。いや、美味しすぎる。味付けが完璧だ。だが、量が——

 颯真は食べ続けた。周りも同じように、黙々と箸を動かしている。

 三十分後、颯真の胃が限界を訴えた。だが、まだ料理は半分以上残っている。

 一時間後、拓海が箸を置いた。

「無理です」

 拓海が呟いた。

「もう、入りません」

 重蔵が拓海を見た。

「残すんですか?」

「だって——」

「では、後で部屋に運びます。夜中に食べてください」

 拓海が黙った。

 颯真は必死に食べ続けた。吐き気を堪えながら、口に押し込む。

 二時間後、全員が箸を置いた。完食した者は——一人もいない。

 重蔵だけが、すべての料理を平らげていた。

「では」

 重蔵が立ち上がった。

「残した分は、各自の部屋に運びます。明日の朝食前までに、必ず完食してください」

 颯真は自分の皿を見た。まだ三分の一残っている。

「無理です」

 由香里が泣きそうな声で言った。

「こんなの、絶対無理——」

「無理ではありません」

 重蔵が由香里を見た。

「母は毎日、これだけの量を完食していました」

 颯真は呼吸が止まった。

 祖母——身長百五十センチもない、小柄な老婆。生前、颯真が見た限り、祖母は小食だった。茶碗半分の米で「お腹いっぱい」と言っていた。

 なのに——

「嘘、ですよね」

 颯真が呟いた。

「おばあちゃん、そんなに食べる人じゃ——」

「それは」

 重蔵が颯真を見た。

「あなた方の前では、ね」

 その言葉の意味が、颯真には分からなかった。

 夜、十時。

 颯真は自分の部屋で、残った料理と向き合っていた。

 冷めた天ぷら。固まった煮物。生臭くなった刺身。

 吐き気が込み上げる。だが、食べなければ——

 颯真は箸を握った。

 口に押し込む。喉を通らない。無理やり飲み込む。

 一時間かけて、なんとか半分まで減らした。だが、もう限界だ。

 その時、隣の部屋から音がした。

 ドアを開ける音。廊下を歩く足音。

 そして——悲鳴。

 颯真は飛び起きた。廊下に出る。

 拓海の部屋のドアが開いている。中から、うめき声。

「拓海さん!」

 颯真は部屋に飛び込んだ。

 拓海が床に倒れていた。喉を押さえている。口から、何かが溢れている。

 米粒だった。

 無数の米粒が、拓海の口から逆流している。

「うあ、ああああ——」

 拓海が苦しそうに声を出す。だが、米粒は止まらない。どんどん溢れてくる。

 颯真は拓海の背中を叩いた。だが、何も変わらない。

 五分後、米粒が止まった。

 拓海は床に倒れたまま、荒い呼吸をしている。

「大丈夫、ですか?」

 颯真が声をかける。拓海が顔を上げた。

 その顔——喉に、無数の赤い痕がある。まるで、内側から何かが突き上げてきたかのような。

「……米を、残した」

 拓海が掠れた声で言った。

「茶碗に、一粒だけ——」

 颯真は息を呑んだ。

 拓海の部屋を見る。テーブルの上に、料理の皿が並んでいる。

 ほとんど完食されている。

 だが、茶碗——その底に、米粒が一粒だけ残っていた。

 翌朝、七時。

 応接間に全員が集められた。

 拓海の喉には、昨夜の痕がまだ残っている。由香里が心配そうに夫を見ている。

 そして、テーブル。

 昨日と同じ、膨大な量の料理。

 いや——違う。

 拓海の前だけ、量が倍になっていた。

「なんで——」

 由香里が震える声で言った。

「なんで、拓海さんだけ——」

「残したからです」

 重蔵が答えた。

「残した分は、次の食事で追加されます」

 拓海の顔が青白くなった。

「無理です」

 拓海が首を振った。

「こんなの、絶対——」

「では、残しますか?」

 重蔵が言った。

「その場合、さらに追加されます」

 沈黙。

 颯真は拓海の皿を見た。昨日の倍。いや、それ以上かもしれない。とても一人では食べきれない量だ。

「手伝って、いいですか?」

 颯真が言った。

「俺が、拓海さんの分を——」

「いけません」

 重蔵が遮った。

「配膳された者が、完食しなければなりません」

「でも——」

「ルールです」

 重蔵の声が、冷たい。

 颯真は黙った。

 拓海が箸を握る。震える手で、料理を口に運ぶ。

 一口、二口、三口——

 十分後、拓海が箸を置いた。

「吐きそうです」

 拓海が顔を押さえた。

「無理、もう——」

「トイレに行きますか?」

 重蔵が言った。

 拓海が立ち上がり、よろよろと部屋を出る。

 五分後、拓海が戻ってきた。顔色が少しマシになっている。

 テーブルを見て——拓海が固まった。

 拓海の皿に、料理が追加されていた。

「今、吐いた分です」

 重蔵が言った。

「吐いても、次の食事で追加されます」

 由香里が叫んだ。

「おかしいでしょ! こんなの、人間に食べられる量じゃない!」

「母は食べていました」

 重蔵が由香里を見た。

「毎日、これだけの量を」

「嘘です」

 颯真の父が初めて口を開いた。

「おふくろは小食だった。俺が子供の頃から、ずっと——」

「それは」

 重蔵が父を見た。

「あなたの前では、ね」

 またその言葉。

 颯真は仏間を見た。

 祖母の遺影。

 笑っている。昨日より、口角が上がっている気がする。

 昼食。

 拓海はほとんど食べられなかった。吐き気で箸を持つこともできない。

 そして、拓海の皿——さらに料理が追加された。

 夕食。

 拓海の前には、もはや山のような料理が積まれていた。テーブルに乗り切らず、床にも皿が並べられている。

 拓海は泣いていた。

「無理です、無理です、無理——」

 由香里も泣いていた。

「お願いします、誰か、助けて——」

 だが、誰も助けられない。

 重蔵が言った。

「配膳された者が、完食しなければなりません」

 颯真は自分の料理を見た。

 自分も、完食できていない。昨夜から、少しずつ残している。

 だから、自分の皿も——少しずつ増えている。

 このままでは、拓海と同じになる。

 颯真は必死に食べた。吐き気を堪え、胃の痛みを無視して、口に押し込む。

 二日目の夜、十時。

 颯真は部屋で、残った料理を食べていた。

 もう味が分からない。ただ、機械的に口に運ぶ。

 その時、廊下から声がした。

「やめて、やめて——」

 由香里の声だ。

 颯真は部屋を飛び出した。

 拓海の部屋のドアが開いている。中から、異様な光景。

 拓海が床に座り込んでいる。その周りに、無数の料理皿。

 そして、拓海の口に——誰かが料理を押し込んでいる。

 いや、誰もいない。

 だが、拓海の口は勝手に開き、料理が流れ込んでいく。

 拓海は涙を流しながら、飲み込んでいる。

「やめろ、やめてくれ——」

 拓海が叫ぶ。だが、料理は止まらない。

 颯真は部屋に入ろうとした。だが——

 ドアが閉まった。

 内側から、鍵がかかる音。

「拓海さん!」

 颯真はドアを叩いた。だが、開かない。

 中から、拓海の呻き声。

 そして——咀嚼音。

 誰かが、何かを食べている音。

 いや——何かが、誰かを食べている音。

 三日目の朝。

 拓海は、いなかった。

 由香里が泣き崩れていた。

「拓海さん、拓海さん——」

 重蔵が静かに言った。

「脱落しました」

「脱落?」

 颯真が叫んだ。

「拓海さんはどこに——」

「食べられました」

 重蔵が答えた。

 颯真の背筋が凍った。

「この家では、完食できなかった者は——食べられます」

 重蔵が全員を見回した。

「それが、母のルールです」

 颯真は仏間を見た。

 祖母の遺影。

 笑っている。満足そうに、笑っている。

 そして——遺影の前に、新しい料理が供えられていた。

 赤い、肉のようなもの。

 颯真は吐き気を堪えた。

 テーブルを見る。

 今日の料理——昨日より、さらに増えている。

 そして、拓海の皿がなくなった代わりに——

 全員の皿が、少しずつ増えていた。

「脱落した者の分は」

 重蔵が言った。

「残った者で分担します」

 由香里が悲鳴を上げた。

「いやあああああ!」

 由香里が立ち上がり、ドアに向かって走る。

 だが——

 ドアが開かない。

 由香里が必死にノブを回す。叩く。蹴る。

 だが、ビクともしない。

「出られません」

 重蔵が言った。

「三日間の法事が終わるまで、誰も出られません」

 颯真は理解した。

 これは——試練なんだ。

 生き残るための。

 だが、何のために?

「なんで」

 颯真が重蔵を見た。

「なんで、こんなことを——」

「母の遺言です」

 重蔵が答えた。

「『私が死んだら、三日間の法事を行うこと。そして、完食できた者だけに、遺産を渡すこと』」

 遺産。

 颯真は思い出した。祖母は資産家だった。土地、家、預金。全部で数億円はある。

 それを——

「母は言いました」

 重蔵が続けた。

「『私の人生は、飢えとの戦いだった。戦時中、私は何度も餓死しかけた。だから、食べられる者だけに、私の財産を渡したい』」

 颯真は祖母の過去を思い出した。

 戦争。飢餓。祖母が時折語っていた、地獄のような日々。

「でも——」

 颯真の父が言った。

「おふくろは、俺たちにそんなこと——」

「望んでいました」

 重蔵が父を見た。

「あなたたちが知らなかっただけです。母は毎日、この家で一人、膨大な量の食事を完食していました」

 重蔵が仏間を指差した。

「そして、その姿を——」

 遺影の後ろ、壁に無数の写真が貼られていた。

 祖母が、一人で食事をしている写真。

 テーブルいっぱいの料理。それを、黙々と食べる祖母。

 写真は何百枚もある。毎日、撮影されていたのだろう。

 そして、すべての写真で——

 祖母が笑っていた。

 満足そうに、幸せそうに、笑っていた。

「母は、食べることが幸せだったんです」

 重蔵が呟いた。

「だから——」

 颯真は理解した。

 祖母は、自分の幸せを共有したかったのだ。

 いや、違う。

 強制したかったのだ。

 自分が味わった飢餓の恐怖を、子孫にも味わわせ——

 そして、食べることの「幸福」を、理解させたかったのだ。

 昼食。

 由香里が、完食できなかった。

 泣きながら、箸を置いた。

「ごめんなさい、ごめんなさい——」

 夜、由香里の部屋から——

 悲鳴と、咀嚼音。

 翌朝、由香里は、いなかった。

 そして、遺影の前の供物が——増えていた。

 最終日。

 残っているのは、五人。

 颯真、父、叔父、従弟の健太、そして重蔵。

 テーブルの料理は、もはや異常な量になっていた。

 一人あたり、普段の十倍以上。

 颯真の胃は限界を超えていた。吐血しながら、食べ続けた。

 父も、叔父も、健太も——全員が死にそうな顔をしている。

 だが、重蔵だけは——

 平然と、完食していた。

 まるで、何でもないかのように。

「重蔵さん」

 颯真が掠れた声で言った。

「あなた、なんで——」

「慣れているからです」

 重蔵が答えた。

「母と一緒に、毎日食べていましたから」

 颯真は理解した。

 重蔵は、最初から知っていたのだ。

 このルールを。

 この地獄を。

 そして——生き残る方法を。

 夕食。

 健太が脱落した。

 咀嚼音が、夜中ずっと続いた。

 最終日の夜。

 残っているのは、四人。

 颯真、父、叔父、重蔵。

 テーブルに、最後の料理が並ぶ。

 重蔵が言った。

「これを完食した者が、母の遺産を相続します」

 颯真は料理を見た。

 もう、何が盛られているのか分からない。

 ただ——赤い、肉のようなもの。

 それが、大量に盛られている。

 颯真は箸を握った。

 震える手で、肉を口に運ぶ。

 味がしない。いや、味を感じる余裕がない。

 ただ、飲み込む。

 一時間後——

 父が脱落した。

 二時間後——

 叔父が脱落した。

 残ったのは、颯真と重蔵。

 颯真は限界だった。もう、何も入らない。

 だが——

 重蔵は、まだ食べ続けている。

 颯真は思った。

 もういい。

 遺産なんて、いらない。

 ただ——

 颯真は箸を置こうとした。

 その時——

 祖母の遺影が、動いた。

 いや、動いたように見えた。

 遺影の中の祖母が——颯真を見ている。

 そして、囁く。

『食べなさい』

 颯真の手が、勝手に動いた。

 箸を握り、料理を口に運ぶ。

 意思に反して、体が動く。

『食べなさい、食べなさい、食べなさい』

 祖母の声が、頭の中で響く。

 颯真は食べ続けた。

 吐血しても、食べた。

 胃が破れても、食べた。

 そして——

 完食した。

 颯真は床に倒れた。

 視界が、ぼやける。

 重蔵の声が聞こえる。

「おめでとうございます」

 重蔵が颯真の前に立った。

「あなたが、母の遺産を相続します」

 颯真は呼吸が止まりそうだった。

「でも——」

 重蔵が微笑んだ。

「これからも、毎日この量を食べ続けてください」

 颯真の目が見開かれた。

「母と同じように」

 重蔵が仏間を指差した。

 祖母の遺影——

 笑っている。

 そして、その隣に——

 新しい遺影が飾られていた。

 父、叔父、健太、由香里、拓海——

 脱落した全員の遺影。

 全員が、満足そうに笑っている。

「あなたは、母の後継者です」

 重蔵が囁いた。

「これから毎日、この家で、一人で食事をしてください」

 颯真は叫ぼうとした。

 だが、声が出ない。

 喉に、何かが詰まっている。

 米粒だった。

 無数の米粒が、颯真の喉から溢れてくる。

 そして——

 颯真の体が、勝手に立ち上がった。

 テーブルに向かう。

 座る。

 箸を握る。

 新しい料理が、配膳される。

 颯真は——食べ始めた。

 意思に反して、体が動く。

『美味しいでしょう?』

 祖母の声が、頭の中で響く。

『これが、幸せなのよ』

 颯真の口が、勝手に笑った。

 満足そうに。

 幸せそうに。

 そして、颯真は気づいた。

 自分は、もう——

 止まれない。

エピローグ

 一年後。

 三島家の旧家。

 応接間に、一人の男が座っている。

 颯真だった。

 いや——颯真だったもの。

 体重は二倍以上に膨れ上がっている。だが、顔は痩せ細っている。

 テーブルには、膨大な量の料理。

 颯真は、黙々と食べ続けている。

 表情はない。

 ただ、機械的に箸を動かす。

 仏間には、新しい遺影が増えていた。

 重蔵の遺影。

 重蔵も——完食できなくなったのだ。

 そして今、颯真だけが残っている。

 ドアが開いた。

 若い男女が入ってくる。颯真の従妹夫婦だ。

「颯真さん、お久しぶり——」

 従妹が颯真を見て、絶句した。

 颯真は振り返った。

 その顔——笑っていた。

 祖母と同じ、満足そうな笑顔。

「いらっしゃい」

 颯真が言った。

 その声は、颯真だけのものではなかった。

 祖母、父、叔父、拓海、由香里、健太、重蔵——

 すべての声が重なっていた。

「一緒に、食事をしましょう」

 テーブルに、新しい皿が追加される。

 従妹夫婦の前に、膨大な量の料理。

「この家では、配膳された分を必ず完食すること」

 颯真が——いや、颯真たちが囁いた。

「一粒でも残してはいけません」

 従妹が悲鳴を上げた。

 だが、ドアは開かない。

 颯真の口が、さらに大きく笑った。

 そして、祖母の遺影も——

 満足そうに、笑っていた。

(了)

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