ステージ18:『音』を受け入れる

【ステージ17の結末より】

(……そうよ……渉……)

目の前の、血まみれの「幻影」に、彼女は、心の中で、初めて、語りかけた。

(……私は、あなたを、助けられなかった)

(……私が、弱かったから。……あなたを、失った)

(……それが、私……)

彼女が、自らの「弱さ」と「喪失」を、ありのまま「受け入れた」、その瞬間。

目の前の、血まみれの「渉の幻影」が、ふっと、その苦痛に満ちた表情を、和らげた。

そして、あの懐かしい、悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべた。

『――やっと、聴いてくれたね、玲』

その声は、もはや玲を責める「ノイズ」ではなく、玲の記憶の中にある、最も愛おしい「調和」の音色(ねいろ)そのものだった。

幻影が、滝の水飛沫(みずしぶき)の中へと、光の粒子のように、静かに溶けていく。

「……あ……」

渉の「ノイズ」が消えた。

だが、滝の轟音は、休むことなく、次の「ノイズ」を玲の精神(クオリア)へと叩きつける。

『……実に醜悪な『ノイズ』だ……』(フェイ)

『……お前の『音』は、乱れすぎている……』(黒龍)

『……なぜだ……! なぜ、俺の完璧な『剣』が……!』(ステュクス)

敵たちの声が、再び、彼女の憎悪を煽(あお)ろうとする。

(……うるさい……!)

玲は、反射的に、再び「不協和音」の力で、その「声」をねじ伏せようとした。

だが、彼女は、寸前で、その力を押しとどめた。

(……違う)

(……空摩様は、言った)

(……ただ、『聴け』、と)

玲は、震える手を握りしめ、今度は、敵たちの「声」から、逃げなかった。

拒絶も、しない。

ただ、その「音」の、さらに奥。

その「音」を発している、彼らの「魂」そのものに、耳を澄ませた。

滝の轟音が、全ての雑音を洗い流し、彼らの「本質」の音だけを、浮かび上がらせていく。

フェイの嘲笑の奥にある、「音」を。

(……聴こえる……。これは……『歓喜』? ……戦うこと、そのものへの、純粋な……)

黒龍の冷徹な宣告の奥にある、「音」を。

(……これは……『渇望』……。たった一人、妹を救いたいという、氷のような、静かな……)

ステュクスの屈辱の絶叫の奥にある、「音」を。

(……これは……『誇り』……。自らの技を、完璧なまでに高めた、武人としての、孤高の……)

彼らは、ただの「敵」ではなかった。

玲と同じように、それぞれの「信念」を、「正義」を、ただ、奏でていただけだったのだ。

その「音」が、玲の「音」と、相容(あいい)れなかっただけで。

「…………」

玲は、ゆっくりと、息を吐いた。

彼女は、彼らの「音」を、ねじ伏せるのでも、同調するのでもない。

ただ、滝の轟音(ごうおん)――この「世界」そのものの「音」と共に、そこにある「事実」として、静かに、「受け入れた」。

その瞬間。

**フッ、**と。

玲の身体から立ち上っていた、青白い火花のような、「不協和音」のオーラが、まるで、ろうそくの火が吹き消されたかのように、消え失せた。

滝の轟音が、止んだ。

いや、滝は、変わらず、凄まじい勢いで流れ落ちている。

だが、玲の耳には、もはや、それは「ノイズ」ではなく、ただの「水の音」として、心地よく響いていた。

敵たちの「声」も、消えた。

渉の「幻影」も、消えた。

玲の精神(クオリア)は、地獄の連戦(バトル・ラッシュ)が始まって以来、初めて、完全な「静寂(ゼロ)」と「調和」を取り戻していた。

(……これが……『調律』……)

彼女は、自らの「内」にある、全ての「不協和音」と、和解したのだ。

安堵(あんど)と共に、極限まで張り詰めていた緊張の糸が切れる。

『月の芋』の力も、憎悪を燃やし続けた代償として、完全に尽きていた。

玲の意識は、その、滝壺の「静寂」の中で、今度こそ、本当の「休息」へと、深く、深く、沈んでいった。

【門前の停滞】

その、異変は、那智の村の「外」で、同時に起きていた。

「――なんだと!?」

カラスが、解析モニターを睨みつけ、驚愕の声を上げた。

「……『ノイズ』が……消えた!? 馬鹿な、あれほどの『不協和音』が、一瞬で……!」

玲の「苦痛のノイズ」と共鳴させることで、結界に「穴」を開けようとしていた「対クオリア・ジャマー」が、その「共鳴対象」を失い、効果を停止したのだ。

侵食されかけていた「結界」が、瞬時に、元の「調和」を取り戻し、カラスの部隊を、再び、外側へと弾き返した。

「……消えた……?」

黒龍もまた、その鋭敏な「気」の感覚で、玲の「音」が、完全に「消失」したことを感じ取っていた。

(……死んだ、のか? いや……違う。この感覚は……)

そして、エコー。

天井に張り付いていた彼女の、激しい痙攣(けいれん)が、ピタリと止まった。

あれほど彼女を苦しめていた、「玲の不協和音」が、消えた。

だが、それと同時に、彼女の「オリジナル」の意識が、初めて、あの「滝壺」の奥で感じた、清浄で、不可思議な「調和」の「音」を、確かに、捉えた。

「……あたらしい、『おと』……。きれい……」

エコーは、混乱していた。

「影」の命令は、『きたないノイズ(玲)』の「排除」。

だが、今、その「ノイズ」は消え、代わりに、彼女が本能で「美しい」と感じる「音」が、そこから、生まれようとしている。

三つの勢力は、その「聖域」の、あまりにも不可解な「変化」を前に、動けずにいた。

「獲物」の「音」が、消えた。

彼らは、一時的に、その「牙」を収め、この静寂の「意味」を、探らざるを得なかった。

【修行の『成果』】

「……『音』が……消えた……」

滝の轟音(ごうおん)が響き渡る中、聖華が、信じられない、という表情で呟いた。

尊もまた、長巻の柄を握りしめたまま、その「ありえない静寂」に、眉をひそめていた。

あの、聖域の「結界」さえも揺るがした、荒々しい「獣の音」が、嘘のように、消え失せていた。

「……まさか、滝に飲み込まれたか……?」

尊が、呟いた、その時。

二人は、滝壺から、ふらつきながらも、自らの足で歩いて出てくる、玲の姿を見た。

「……!」

尊が、息を呑む。

玲の身体は、聖華が癒したはずの傷口が、再び開き、血にまみれている。

だが、彼女の「佇まい」は、滝に入る前とは、まるで、別人のように、変わっていた。

荒々しく燃え盛っていた、「不協和音」のオーラは、完全に、消えている。

今の彼女から発せられる「音」は、滝の轟音(ごうおん)にも、この地下空洞を満たす「魂石」の光にも、逆らわない。

まるで、最初から、そこに「在った」かのように、静かで、澄み切った「調和」の「音」を、奏でていた。

「……これが……『調律』……」

玲は、二人の前まで歩いてくると、住職の空摩が、まだ、そこに座して、自分を待っていたかのように、その前に、静かに、膝をついた。

「……ただいま、戻りました」

空摩は、何も言わず、ただ、その深淵(しんえん)のような瞳で、玲を見つめ、そして、初めて、その口元に、わずかな「笑み」を浮かべた。

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