第6話 美学 / 時 / 原稿

永遠の二秒と未完の原稿



アキは築八十年の古びた喫茶店「クロノス」の二階に居候している。彼女の仕事は、閉店後の深夜、誰もいない店内でひたすら小説を書き続けることだ。


彼女の創作の傍らには戦時中に使われた巨大な振り子時計と、七年間書き続けている手書きの原稿用紙の束が鎮座している。


アキの美学は「未完の美」。彼女の小説は完璧な始まりを持つが、最高のクライマックスを迎える直前必ず筆が止まる。その原稿はすべて未完のまま積み重ねられている。


「完成したら、物語は死ぬ」。それがアキの信念だった。


その夜、アキは最新作の執筆に取り掛かっていた。主人公が、時間旅行の美学を説く老賢者と出会うシーン。老賢者は言う。


「最も美しい時間とは、時の流れから切り離された永遠に続く二秒だ」


アキはその一文をタイプライターで打ち終えると、疲れて顔を上げた。


ふと、店の隅にある古時計に目をやった。重々しく時を刻むその時計が、今、午前二時十二分、秒針が「十」の目盛りを指したまま、完全に止まっていた。


「故障かな?」


アキが時計に近づくと、時計のガラスに誰もいないはずの店内の様子が映り込んでいた。離れたテーブル席にまるで青いインクで描かれたような、淡い人影がぼんやりと見えた。




アキは息を飲んだ。その影は、彼女の原稿から抜け出てきたかのように、細く、頼りない輪郭をしていた。


「あなたは……」


影は動かない。時計が止まり、時間から取り残されたように静止していた。


アキは恐る恐る尋ねた。

「あなたは、この時計が止まった時に現れたの?」


すると、青い影は一瞬だけ微かに頷いたように見えた。


「私は、この時計が止まったことで時間の流れから『消えた』存在です」


影は紙を擦るような微かな音で、心に直接響く声を発した。


影はかつてこの店「クロノス」の店主だった。彼は完璧な美学を追い求め、自らが作った時計で人生最高の二秒を永遠に封印しようとしたが、失敗。肉体は消え魂だけが時計に囚われたのだ。


「あなたの原稿を読みましたよ、アキさん」と影は言った。「あなたの美学も私と同じ。完成を恐れ、最高の瞬間を永遠に留めようとする」


アキはドキリとした。彼女の未完の原稿は誰にも見せていない、最も秘密の領域だった。


「私の美学が、何だっていうんですか?」


「あなたの原稿にある『永遠に続く二秒』は、私が探し求めた究極の時間だ。ですが、永遠に時間を止めることは、永遠に時間を消すことと同じ。それでは美学ではなく、ただの自己満足に過ぎません」




影の言葉はアキの胸に鋭く突き刺さった。彼女は原稿を完成させないことで、最高の物語が失われる恐怖から逃げていただけだと気づいた。


「どうすれば、あなたは消えずに済むの?」


「時計の針を進めることです。そしてあなたの原稿を完成させること。時計は未完の物語のエネルギーで止まっている。あなたが結末を迎えたとき、時計の針は進み出す」


影はアキが原稿の結末を書くことを、自らの救済の条件とした。それは、アキの美学に反対する行為だった。


アキは震える手でタイプライターの前に座った。原稿はまさにクライマックス、時間旅行者が老賢者の美学を否定するシーンだ。


主人公は老賢者の言葉に強く反対した。「永遠に続く二秒は確かに美しい。しかし、その二秒が、一秒前の過去と、一秒後の未来と繋がっているからこそ、その二秒には意味がある。時間は、流れ続けることに美学があるのだ!」


アキは迷いなく最後の文章を打ち込んだ。


「永遠の二秒はただの幻想だ。真の美学とは、流れ、そして消えていく時間を受け入れることなのだ」


カシャン、とタイプライターの音が鳴り、原稿の最後のページが完成した。その瞬間、古時計から重厚な金属音が鳴り響いた。


ガチャン、ガチャン。止まっていた秒針が激しい勢いで動き出した。午前二時十二分十秒から、時間が戻ってきた。


青い影は時計の光の中で、穏やかな表情を浮かべた。

「ありがとうアキさん。あなたの原稿は、未完のままの私を救ってくれました。時間は流れるべきものだ」


影は時計の音と共に、青いインクが水に溶けるように、静かに消えていった。




時間は再び動き出した。アキは、七年越しに迎えた原稿の最終ページを見つめた。


彼女の美学は破られた。だが、彼女の胸には、未完の美学とは反対の、満たされた充足感が広がっていた。


その朝、窓からは柔らかな光が差し込みコーヒーの匂いが時計の音と共に店内に広がる。


アキは店主として戻ってきた老店主に挨拶をした。


「時計直ったんですね」

「ええ少し時間が狂っていただけです。流れ続ける時間こそが、最も美しい時間だと、誰かに教えられましたよ」


アキは微笑んだ。彼女は未完の原稿を胸に抱き、新しい美学を胸に喫茶店を出た。


彼女の新しい美学。それは、時間が流れて消えていくからこそ、物語を完成させる価値があるという信念だった。次の原稿はきっと最高の結末を迎えるだろう。

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三つの扉の向こう 大庭佳世 @KayoOba

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