第5話 月 / 鍵 / 約束

月光と失われた約束の鍵


序章:欠けた月と古い箱


高校二年の夏、日向アサギは夜空を見上げる癖が直らなかった。彼女の視線は、いつも冷たい光を放つ月に吸い寄せられる。それは、七年前に交わした一つの約束と、それを象徴する鍵を、彼女が失ってしまったからだ。


アサギの故郷は、霧が多く、月の光が地上に届きにくい土地だった。そんな場所で、彼女の親友であり初恋の相手でもあったタチバナ・リュウは、いつも月の光を求めていた。


「アサギ。僕が作った鍵だよ」

十歳のある夜、リュウは古びた真鍮の鍵をアサギの手のひらに乗せた。

「何に使う鍵なの?」

「月の秘密の扉を開ける鍵。僕たちは、将来、二人でこの鍵を使って、世界で一番綺麗な満月を見に行くんだ。どこまでも、どこまでも遠い場所へ」

それは、リュきゅうウの夢であり、二人だけの約束だった。リュウは、喘息の発作がひどく、外の世界を自由に旅することが叶わない子どもだったからこそ、月に憧れ、その光が届く場所へ行くことを切望していた。


しかし、その年の冬、リュウは病状が悪化し、遠い病院へ転院することになった。別れの朝、リュウはアサギに言った。

「この鍵を、絶対に失くさないで。僕が戻るための道標だから」

アサギはその鍵を、小さな星の模様がついた木製の箱にしまい、肌身離さず持っていた。


だが、二人が離れて一年後。アサギは引越しのドタバタで、その木箱ごと鍵を失くしてしまう。それはアサギにとって、リュウとの約束を破ってしまった、最も重い罪の記憶となった。以来、彼女はリュウと連絡を取ろうとせず、リュウもまた音信不通となった。アサギの心の中で、リュウとの約束は、触れることのできない、冷たい月の光のように遠ざかっていった。



第一章:リュウの帰還と『月影の庭』


七年後、アサギが通う高校に、転校生がやってきた。タチバナ・リュウ。


彼は、以前の病弱な面影は消え、痩せているものの、どこか達観したような静かな瞳を持っていた。


再会したリュウは、アサギを見て微笑んだが、あの鍵や約束について触れることはなかった。アサギは罪悪感から、彼との距離を測りかねた。


ある日の放課後、リュウはアサギを古い校舎の裏手に連れて行った。そこは、手入れされていない庭園で、夏草が茂り、古びた石像が点在している。


「ここは『月影の庭』と呼ばれていたらしい」リュウが言った。「光と影が交錯して、時間が歪むように感じる場所だ」

リュウはポケットから、小さな真鍮の鍵を取り出した。

「これを見て、アサギ」


それは、アサギが失くしたはずの、あの鍵と瓜二つだった。

「どうして……それを?」アサギは動揺した。

「僕が作ったんだから、予備くらいあるさ。でも、これはただの鍵じゃない。月の引力と、その土地の磁場を感知して、特定の場所の『時空の扉』を開くための鍵なんだ」


リュウは真鍮の鍵を、庭の中心にある、壊れた円形の噴水台の側面に空いた小さな穴に差し込んだ。カチリ、と小さな金属音が響く。


その瞬間、夜空の月の光が、奇妙なほどに庭全体に集中し始めた。普通の月の光ではない。それは、淡く青みがかった、まるで液体のような光で、地面の影を長く歪ませた。リュウの体が、その光の中で、わずかに透けて見える。


「アサギ。僕、七年間、時間を超える旅をしていたんだ」

リュウは静かに告白した。彼の病気を治すために、祖父が残した研究を辿り、月の光の力を借りて「時間の境界」を越える術を身につけたのだと。


「僕はね、約束を果たすために戻ってきたんだ。アサギが鍵を失くしても、僕が道を見つけ出す。でも、約束を果たすには、君の協力が必要だ」


リュウは、鍵を噴水台から引き抜いた。月の光が弱まり、庭は元の静寂に戻った。


アサギは、混乱と感動、そして罪悪感がない交ぜになった感情で言葉を失った。リュウは彼女が鍵を失くしたことを知っていたのだ。



第二章:鍵を探す旅と追憶


リュウの帰還後、二人の関係は「親友」ではなく、「秘密の共犯者」へと変わった。彼らの目的は、アサギが失くしたもう一本の鍵を探し出すことだった。リュウ曰く、その鍵こそが、彼らが最後に目指す「世界で一番綺麗な満月」がある場所への本当の『マスターキー』だという。


「僕が作った鍵は、時空の扉を開けるための起動キーに過ぎない。君が持っていた鍵は、その扉の先に進むための、認証キーなんだ」


アサギは、必死に鍵を失くした時のことを思い出した。引越しの荷物、祖母の形見の整理、そして古いアパートのゴミ捨て場。彼女は、記憶を辿るために、祖母の形見として受け継いだ、古びた日記帳を開いた。


その日記帳には、祖母と、祖母の若き日の友人との交流が記されていた。祖母の友人は、天文物理学者であり、月の研究に没頭していた。日記には、こんな記述があった。


「夜想曲を弾くと、月が囁く。私たちは月の重力だけではなく、月の記憶にさえも引かれている。アサギが持つという鍵は、単なる金属ではなく、記憶の約束を具現化したものだ。この鍵が揃えば、月が完全に満ちる夜に、時間の流れから外れた『約束の月』を見ることができるだろう」


日記を読み進めるうちに、アサギはある事実に気づいた。リュウが病を患っていたのは、祖母の友人が行った過去の月の実験の副作用かもしれないこと。そして、その実験を止めるための「対の鍵」を、リュウがアサギに託していたこと。つまり、リュウの鍵は希望の鍵ではなく、約束を守るための抑止力としての鍵だったのだ。


「リュウは、自分を治すためじゃなく、僕を、そして世界を守るために月の旅を続けていたんだ……」


罪悪感に苛まれながらも、アサギは最後の希望である古いアパートのゴミ処理場跡地へと向かった。そこは今、寂れた公園になっていた。


深夜、アサギとリュウは公園の片隅で、土を掘り始めた。スコップが、何かに当たる音。


リュウが土の中から引き上げたのは、星の模様がついた、あの木製の箱だった。七年間の土の匂いを纏い、蓋は歪んでいる。アサギが震える手で蓋を開けると、中には、変色した真鍮の鍵が横たわっていた。


「見つけた……」


アサギは涙を流した。リュウは静かに、彼の鍵と、アサギの鍵を並べた。二つの鍵は、形は同じだが、一つは光を帯びたように輝き、もう一つは過去の時間の重みで鈍く曇っていた。


「この二つが揃った。これで、最後の約束を果たしに行ける」



第三章:月光の試練と影の侵入者


次の満月の夜。リュウはアサギを、町外れの古いダムへと連れ出した。ダムの壁面には、祖母の日記にもあった『夜想曲』の譜面のような、特殊なマークが刻まれていた。


リュウは二つの鍵を、ダムの特定の穴に差し込んだ。


「アサギ。このダムは、祖父の友人が作った、月の光を集める巨大なアンテナだった。そして、ダムの貯水池は、集めた月の光を増幅させるレンズの役割を果たす」


二つの鍵が差し込まれた瞬間、ダムの水面に映った月の光が、激しく振動し始めた。水面が鏡面となり、空の月と地上の月が完全に重なったとき、二人の間に、青白く輝く円形の扉が形成された。


「これが、時間の境界線、クロノ・ゲートだ。行こう、アサギ。約束の場所へ」


アサギは意を決し、リュウと共に扉を潜った。


二人が辿り着いたのは、時間と空間から切り離された、奇妙な場所だった。そこは、常に満月の光に満たされ、空気は冷たいが澄み切っている。眼下には、無数の小さな星々が輝いていた。


「ここが、『約束の月』。世界で一番綺麗な満月が見える場所だよ」リュウが囁いた。


だが、感動も束の間、背後から冷たい声が響いた。

「まさか、君たちがここまで来るとはね」


現れたのは、リュウの主治医であり、祖父の友人の共同研究者だった、コウノ医師だった。


「コウノ先生……」


「この鍵は、時間の境界を不安定にし、月の力を利用して永遠の命を得るためのものだった。君たちの祖父母は、この技術を危険だと判断し、二つの鍵にその力を分散させた。リュウ君の鍵は、僕が持っていた複製だ。そして、アサギ君、君が持っていた鍵こそが、このゲートを安定させる『核』だった」


コウノ医師は、リュウを治療するふりをして、彼の時空移動の知識を利用し、二つの鍵が揃うのを待っていたのだ。


「リュウ君は、未来へ飛び込み、自分の病気の真の原因を知った。彼が求めたのは、月の力を暴走させる鍵を、この約束の場所で破壊することだった」


コウノ医師は、アサギが持つ鍵を奪おうと手を伸ばす。


「やめて!リュウは、月に触れ、自分の存在そのものを鍵に変えて、この世界を守ろうとしている!」アサギは叫んだ。


リュウは静かにアサギを守るように前に立った。

「アサギ、君の鍵は、僕らの約束そのものだ。それは、僕が作った技術を壊す、月の光とは反対の力を秘めている」


コウノ医師はリュウを突き飛ばし、アサギに迫った。アサギは逃げ場を失い、恐怖で目を閉じた。


その瞬間、アサギが失くし、取り戻した古い鍵が、彼女の掌の中で激しく発光し始めた。



第四章:約束の具現化と鍵の解放


アサギの鍵から放たれた光は、コウノ医師の全身を包み込んだ。それは、単なるエネルギーではなく、アサギとリュウが幼少期に交わした、純粋で強い「約束」の記憶の具現化だった。


「約束は、時間を超える力だ!」


光に飲み込まれながら、コウノ医師は叫んだ。彼は、月の力を利用して時間を支配しようとしたが、人間が時間の中で育む感情の力には抗えなかった。コウノ医師の姿は、月の光の中に溶け込むように消えていった。


コウノ医師が消えた後、周囲の空間は激しく揺らぎ、クロノ・ゲートが崩壊を始めた。


リュウは、アサギに背を向け、崩壊する満月の光に向かって歩き出した。

「僕の鍵は、このゲートの安定装置だ。僕がここに残って、月の力を封印しないと、世界は時間と空間の歪みに飲み込まれてしまう」


「駄目よ!一緒に帰るって、約束したじゃない!」アサギは叫び、リュウに駆け寄ろうとした。


リュウは振り返り、優しく微笑んだ。

「約束は、もう果たされたよ、アサギ。君が鍵を見つけ、ここに辿り着いた。そして、君は僕の代わりに、月の光とは反対の、人間の時間を進める力を手に入れた」


リュウは、アサギの持つ古い鍵に触れた。彼の指先から、最後の光が鍵へと流れ込み、鍵は銀色に輝き、月の光を反射するペンダントへと姿を変えた。


「これは、君の未来の鍵だ。二度と失くすなよ」


リュウの身体は、完全に月の光と融合し、彼の鍵であった真鍮の輝きも、月の裏側に消えていった。


アサギは、リュウの消えた場所に立ち尽くした。彼女の手には、銀色の月のペンダントだけが残されている。


終章:月と約束の光


気が付くと、アサギはダムのほとりに倒れていた。夜空の月は、いつもと変わらない、静かな光を放っている。


リュウが消えてから、一年が過ぎた。


アサギは、相変わらず夜空の月を見上げる癖が直らない。しかし、今はもう、悲しみや罪悪感からではない。


彼女は、リュウの最後の言葉を胸に、新しい人生を歩み始めていた。

「約束は、時間を超える力だ」


アサギの首元には、銀色の鍵のペンダントが輝いている。それは、リュウの命と、二人の約束の光が封じ込められた、未来への鍵だった。


ある夜、アサギがふと夜空を見上げると、満月がいつもより大きく、明るく見えた。その光は、彼女が幼い頃にリュウと夢見た、世界で一番綺麗な満月の光に、よく似ていた。


彼女は、ペンダントに触れ、心の中でリュウに語りかける。

(リュウ。私、ちゃんと時間を進めてるよ。この鍵は、もうどこにも行かせない)


アサギにとって、月はもう、失われた約束の象徴ではない。それは、遠い場所にいるリュウと、彼女の未来を繋ぐ、確かな希望の光となったのだ。彼女は、鍵の光と共に、力強く前を向いて歩き出した。

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