潮返しの砂時計

天使猫茶/もぐてぃあす

岬と十一度の反転

 岬の灯台の台座には、代々伝わる砂時計が据えられている。

 背の高い木枠に守られ、二つのガラス球の中で、白い砂が静かに落ちる。落ちきるのに、ちょうど十五分。これを裏返すと、その間だけ岬沿いの潮が“数歩ぶん”だけ巻き戻る。雲も風も人の心も戻らない。ただ潮だけが、ほんの少しだけ。


 灯台守の家に生まれた少年は、砂時計の扱いを先代の灯台守である祖父から習った。


「一度で足りぬこともある。だが三度を越えてはならん。潮は戻っても、誰かの時間が削れる」


 祖父は冗談のように笑って、皺だらけの手の甲を見せた。薄い皮膚の下で、砂のような光がちらりと転がった。少年は半信半疑で、けれど目をそむけなかった。


 その夏、嵐が去った翌朝、海は嘘のように青かった。

 沖の線がかすむほど澄んだ空の下で、浜にひとつ、暗い影が取り残されていた。子どものクジラだ。波打ち際から三つぶんも内側、ぬかるんだ砂に身体を沈め、重たい尾をばたつかせるたび、湿った砂が鈍く光った。沖では親らしい大きな影が、低い声で鳴いた。


 人を呼びに走るには距離がある。潮は今、引きに向かっている。

 少年は迷わなかった。灯台の台座から砂時計を抱え上げ、慎重に両手で裏返した。ガラスの喉がくぐもって鳴り、白い粒が落ちていく。すると、足もとで水の縁がじわ、と戻った。濡れた砂がやわらぎ、クジラの腹がわずかに浮く。

 少年は胸を撫でおろし、すぐ二度目を返した。潮はまた、指幅ほど戻る。子クジラの脇腹に、光る筋が一本走った。


 三度目を迷う手が、勝手に動いた。

 砂はさらさらと落ち、潮はまた少し戻った。子クジラは喉の奥で鳴き、重たい体を半身だけ転がす。少年は息を吐く。祖父の声が背中の骨に触れる――三度を越えてはならん。


 四度目を返したとき、右の袖口からなにかがこぼれた気がした。

 見下ろすと、袖の影の奥で微かな白がきらめく。指先を払うと、砂粒のようなものが皮膚の上を滑り、すっと消えた。冷たいでも熱いでもない、手首の内側から時間が抜けるような奇妙な感じ。

 目を上げると、潮は確かに戻っている。子クジラが胸びれで水を掴み、体の下に薄い層を広げた。


 五度目。六度目。

 ガラスの中の白は目に見えて減り、少年の呼吸は浅くなる。袖口の白いきらめきは増え、手の甲は乾いた紙みたいに軽くなった。灯台の壁にかかった時計の針が、いつの間にか十五分の輪から外れてじっとしている。

 七度目を返すと、沖の大きな影が近づいた。海面が盛り上がり、黒光りする背が斜めに切り上がる。潮がふっと湿った匂いを濃くした。


 八度目。九度目。

 少年の足は砂に吸われ、膝が笑う。耳の奥で波の音が遠のき、代わりにガラスの喉の細い唸りが大きくなる。砂は落ち、潮は戻る。子クジラは砂を離れ、腹の下にちゃんと水を持った。

 十度目を返したとき、少年の視界は白く薄くなった。灯台の壁も空も、紙に水を垂らしたみたいに輪郭がほどけていく。袖からこぼれる白は、もう隠しきれないほど増えて、指の隙間をするりと抜けた。


 十一度目。

 子クジラの体が、ふいに軽くなった。水の握力が戻り、砂の拘束が解ける。ばしゃ、と尾が一度大きく振られ、飛沫が朝日に砕けた。波の肩に乗った体が、沖へ向かって滑っていく。親の影が寄り添い、二つの影が一つの動きになる。海はそれを受け入れ、水平線の向こうへ、音もなく引き取った。


 少年は砂時計を抱き直そうとした。腕の中の重みは、羽根のように軽い。

 袖からこぼれ続ける白いきらめきは、もう砂ではなかった。指を通り抜け、胸元をすり抜け、息に混じって外へ出る。白は霧になり、霧は光になり、光は海の上に薄くかかる。

 見上げると、灯台の影が滲んでいた。自分の足首の境目が曖昧になり、砂地に立つという感覚がふっとほどけた。


 「戻りなさい」


 祖父の声か、風の声か。少年は頷いたつもりだった。砂時計の白はまだ落ちている。落ちるたびに潮は戻る。だがもう、少年の時間は指でつまめない。

 霧が岬を包み、灯台の光を薄くする。霧の中に、人の形が一瞬だけ浮かんで、すぐ海にほどけた。誰かが呼んだ名は、霧の向こうでやさしく折り返した。


「私が払うから」


 気が付けば少年は白い光の中、波打ち際で一人立ち尽くしていた。波が足を洗うだけで、クジラはもうその姿を見せない。

 少年は誰もいない灯台へと戻っていった。


 灯台の階段には、乾いた砂が少しだけたまっていた。少年はそれを箒で集め、掌にのせて海へ返した。海は何も言わなかったが、低く深い音を一度だけ鳴らしたように思えた。


 翌年、同じ嵐の翌朝、海はまた嘘のように青かった。

 岬の下でひとつ、白い柱が立ちのぼった。潮が空に向かって噴き上がり、音は遅れて胸に響いた。二度、三度ではない。たった一度。灯台の真下、砂時計の置かれた場所をまっすぐ見上げるように。

 そのときだけ、海霧が細く伸び、欄干の外に淡い人影が立った。風も波も動きを止め、白い柱はすぐにほどけた。


 砂時計は今も台座にある。

 誰もむやみに裏返さない。落ちる白は正確に時を刻み、満ち引きは、空の月と地の引力のほうへ戻っていった。

 ただ、夜更け、灯台の窓を薄い霧が撫でると、白い粒がガラスの内側でひとつだけ跳ね上がることがある。

 かつて少年であった老人はその様子を眺めて静かに微笑むと、孫に向かって優しく教える。


「三度を超えてはならないよ。代わりに時間が削れてしまうから」


 孫は目を背けることなくまっすぐに砂時計を見ていた。

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