一分間だけ過去へ
灯野 しずく
第1話 返却口に残る指先
第1話 返却口に残る指先
夜の駐輪場は、缶の底みたいに冷たかった。駅裏の路地にぽつんと置かれた古い自販機は、塗装が剥げ、メニューの写真が夏の色を忘れたまま冬に残されている。誰が決めたのか知らないが、ここはこの町で一番時間が静かに立ち上がる場所だと噂されていた。
返却レバーに触れると、金属の冷たさが骨にまで染みる。僕は左手でスマホのストップウォッチを開いて、右手の指先をゆっくりレバーにかけた。深呼吸の音が白い湯気になって宙でほどける。
一分だけ。たったそれだけ。
カチ、と小さな歯車が噛み合う音。視界の端で赤い自転車のリフレクターが逆回転し、遠くの踏切の残響が巻き戻され、僕の胸の鼓動だけが前へ進む。液晶の数字が同じ場所に戻る瞬間、僕は世界の背中をそっと撫でて、進む方向を変えさせたみたいな罪悪感を覚える。
一分前の夜の空気が、まるでやり直しのテイク用に冷蔵庫から出されたばかりのような顔で僕の頬を撫でた。自販機の前に立つ自分は同じ姿勢で、同じ息をしている。ただひとつ違うのは、僕の記憶だけが一歩先を見ていることだ。
試しに、足元に転がっていた空き缶を靴で少し蹴ってみる。缶は鈍い音を立てて転がり、いつかの誰かの足跡の上で止まった。もう一度レバーを引く。缶は元いた場所に戻り、僕だけがその音の行き先を知っている。
機能は単純だ。返却レバーを引く。それで一分前に戻る。誰にも気づかれないまま、僕だけが戻る前の出来事を覚えている。世界は勝手に整合性を取り、僕の嘘のような正しさを現実に紛れ込ませてくれる。
最初にこの自販機の話を聞いたのは、一週間前の夜勤帰り、弁当箱を洗っていた社員食堂でだった。パートの主婦が水道の蛇口を締めながら言ったのだ。駅裏の古い自販機、あれは返却レバーが壊れていて、引くと時間が戻るんだって。冗談でしょ、という顔をこちらに向けて、それから真面目に皿を拭いた。
冗談のはずだった。確かめずにいられなくなったのは、僕の中に、たった一秒の穴が空いているせいだ。
謝り損ねた一秒。あのとき、横断歩道の白い斑の上で、喉の奥に引っかかった言葉を、ただ一秒だけ早く出せたら。出せなかったせいで空いた穴は、時間の底に通じている。夜になるとそこから冷たい風が吹き上げてきて、僕の胸の中に霜をつくる。暖房を強くしても溶けない霜だ。
僕はポケットから百五十円を取り出し、缶コーヒーのボタンを押した。ガタンと落ちる音。取り出し口から缶を掴み、プルタブを開ける。苦味が舌の上に広がる。この味を覚えておく。次の一分で消える味だ。
スマホの画面に、今日のメッセージの履歴が並んでいる。未送信のテキストがひとつ。そこには「ごめん」の二文字が白い箱の中で静止している。送信ボタンの位置は親指が知っている。けれど押すたびに、何かが一秒だけ足りない。電波の悪さ、信号待ちのタイミング、通り過ぎる車のヘッドライト、誰かの咳払い。どれもが、一秒分だけ僕の言葉を遅らせる。
レバーにかけた指に、ゆっくり力を入れる。戻る。缶コーヒーは再び冷たく密閉されたまま僕を待つ。未送信のテキストは、まだ呼吸を始めていない。僕は親指を送信の位置に置き、レバーから手を離した状態で、深く息を吸った。
送信。画面が小さく震え、青い吹き出しが右に滑る。成功だ。胸のどこかで硬い輪が一枚、音を立てて外れる。
でも、その相手はもうこの街にいない。送ったところで届かない場所にいる。僕はそれを知っているのに、送ってしまう。本当はその人に向けた言葉じゃなかったのだということを、僕自身が一番知っている。あの時、目の前にいた相手は別の人間だった。僕が謝れなかったのは、あの人に対してだった。
冷えた風が駅の階段をかけ下りてきて、僕の頬を叩く。どこかで若者の笑い声が弾ける。笑いはいつでも現在で鳴る音で、過去には遅れて届く。
その時、駐輪場の向こうから声がした。
「小銭、落としましたよ」
振り返ると、黒いコートの女性が、僕の足元から少し離れたところにしゃがみ、十円玉を摘まんで立ち上がった。年は僕と同じくらいか、少し上かもしれない。髪は耳の後ろで留められ、指先が白い。彼女は十円玉を僕に差し出した。
「ありがとうございます」
受け取ろうとして、僕は気づいた。これは、僕がこれから落とす十円だ。さっき一分戻ったときには、まだ落としていない。つまり、今この一分のどこかで、僕は十円を落とすはずなのだ。
「落としてませんでしたか」
彼女は少し首を傾げる。僕は曖昧に笑い、受け取った十円をポケットに戻した。その瞬間、ポケットの縁に引っかかった財布がわずかに傾き、口が開いた。次の瞬間、十円玉が滑り、つるりと指先から逃げる。床に当たる前に、僕はレバーに右手を伸ばした。
戻る。十円はまだポケットの奥だ。女性はまだ駐輪場の入り口からこちらを見ている最中。彼女の口角が上がりきる前。僕はポケットの中の小銭をしっかりと握り直し、財布の口を閉じた。
「すみません。ありがとうございます」
予定より早く言葉を出して、頭を下げた。彼女は少し驚いた顔をし、それから笑った。
「いいえ。寒いのに、こんなところで何してるんですか」
「缶コーヒーと、練習です」
口から出た言葉は、自分でも意外だった。彼女は眉を上げる。
「練習」
「謝る練習です。タイミングを外さないように」
沈黙。彼女は自販機を見て、僕を見て、それからもう一度自販機を見た。返却レバーに僕の指の跡が薄く白く残っている。
「この自販機、変ですよね」
「知ってるんですか」
「さっき、あの子たちが話してました。戻るとか戻らないとか」
遠くで笑っている若者たちの中の一人だろう。噂は夜風に乗って膨らむ。彼女はコートのポケットから手を出して、自販機のアクリル板の傷を指先でなぞった。
「私は、戻らなくていい派ですけど」
「どうして」
「戻ることより、進むことの方が怖いからです。怖い方に進んだ方が、たぶん生きた感じがする。戻るのは、死んだところを撫で直してるみたいで」
言葉は静かに落ちて、足元の白線に吸われていく。僕は返却レバーから手を離し、取り出し口に残っていた冷たい空気を一口だけ飲んだ。
「僕は、戻りたい派です」
「理由は聞きません。練習、がんばってください」
彼女はそう言って、手を振って立ち去ろうとした。思わず呼び止めた。
「名前だけ、聞いてもいいですか」
振り向いた顔に、街灯の明かりが柔らかく当たる。
「冴絵です」
「僕は湊です」
「湊さん」
丁寧に、名前を口に乗せる人だった。彼女が去っていく音を背中で聞きながら、僕はもう一度缶コーヒーのボタンを押した。温かいのと冷たいのの差は、小さな勇気の差みたいだ。今度は温かい方を選ぶ。
プルタブを開け、湯気の向こうに一分先の自分を思い浮かべる。僕はどの一分をやり直したいのか。返却レバーは親切だが、親切なものに頼るほど、人は鈍る。冴絵の言葉が胸の中で新しい輪郭を作り、そこに僕の古い輪郭がぶつかる音がした。
未送信のテキストのリストを閉じ、別のフォルダを開く。録音。三年前の冬の日付。数秒の無音の後、呼吸の音、それから途切れた「ご」で終わる声。画面上の再生バーは、最後までたどり着く前に勝手に止まる。そこから先は、録れていない。謝罪の最初の音だけが、いつまでも現在に留められている。
その音を聞くためだけに、僕は一日に何度も戻っているのかもしれない。音は一秒に満たない。それでも、その一秒がなければ、僕の時間はどうやっても本当のところに触れられない。
レバーに指をかけ、目を閉じる。戻る。戻っては、早めに言う。遅れる前に言う。相手が驚く前に言う。冗談が空気を支配する前に言う。ごめんと、ありがとうと、大丈夫と。練習は滑稽だ。けれど滑稽であるほど、体に染みる。
何度目かの往復で、踏切のベルの回数に違和感があった。戻るたびに同じはずの音が、微妙に一回だけ少ない。駅のホームに入ってくる電車のモーター音も、尾を引く長さが変わっている。世界は正確に同じ場所へ戻るはずだ。なのに、何かが一秒分だけ削れている。
レバーをそっと撫でる。金属の縁に、細い傷が走っている。ひび割れのようでもあり、裂け目の縁のようでもある。あらためて見れば、返却レバーの根元には小さな注意書きが貼られていた。薄れて読めないけれど、かろうじて拾える文字がある。返却、異常、使用者、責任。
削れているのは世界ではない。僕の側だ。戻るたびに、どこかから一秒ずつ、体温が持っていかれている感じがする。言葉を出すために必要な隙間、一拍置くためのゆとり、喉の中の柔らかい余白。その一秒が減っていく。
それでも僕はレバーを引く。引かずに済む人間には、たぶんわからない。引いた後にしか届かないものがあるのだ。
駅の時計が日付をまたぐ少し前、冴絵が再び駐輪場の角から現れた。帰ってきた、というより、忘れ物を取りに戻ってきた、という足取りだ。彼女は僕を見ると、小さく笑って、手袋を外した。
「言えましたか」
「少しずつ」
「少しずつ、でいいと思います」
彼女は自販機に十円を一枚入れ、何も買わずに返却レバーに手を伸ばした。僕は思わず息を止めた。レバーは動かない。冴絵は首を傾げ、軽く押すように撫でた。
「私には、効かないみたい」
「たぶん、ここのは、僕専用です」
「専用という言葉は、便利で危険ですね」
冴絵は笑って、ポケットから小さな紙片を取り出した。万年筆のインクの匂い。そこには住所と、時刻だけが書かれていた。明日の夕方五時。交差点の名前は、僕の胸の中の霜が育った場所だった。
「明日、ここに行きます。もしよかったら一緒に来てください」
「どうして」
「練習の成果を、見たいから。私、戻らない派ですけど、誰かの一秒が足りないのなら、足すために立ち会うことくらいはできます」
紙を受け取る手が、ほんの少し震えた。冴絵は気づかないふりをした。
「湊さん、今何か言うべきことはありますか」
僕はレバーから手を離し、言葉の棚の中から、一番軽いものを選んだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は手袋をはめ直し、今度こそ去っていった。僕は紙を胸ポケットにしまい、しつこく残るコーヒーの苦味を唇で探した。返却レバーは静かにそこにあり、引けば戻る、と誘っている。けれど今は引かない。僕に残っている一秒を、明日のために使う。
駅の時計は、日付をまたいだ。霜は胸の中で小さく、形を変えた。硬い塊ではなく、輪郭の柔らかい小さな氷片に。それはたぶん、光に当てれば消える類いの、優しい冷たさだ。
明日の五時。僕はあの交差点で、足りない一秒を拾う。もし拾えなかったら、またここに戻ってくる。それでも、今日は進む。
返却レバーに触れずに、僕は自販機から離れた。背中のポケットで、十円玉が小さく鳴った。時間の底で、音がこちらに手を振った気がした。
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