第4話:翌朝、月影の官舎にて
翌朝、まだ外が暗く日も昇っていないような時間帯にエミリアは目覚めた。見慣れぬ天井を前に、現状を理解しきれず一瞬頭が混乱する。部屋着のまま硬いベッドから半身を起こすと、薄暗がりの中に、壁際のデスク上に置かれたIDカードと自分の携帯型端末が目に入る。
浅い呼吸を何度か繰り返し、やっとのことで落ち着いた頭の中で、自分は今月影の官舎にいるのだと思い出した。窓の外からは薄ぼんやりとした光が入り込んでおり、一人暮らしに耐えうる程度の、少し狭苦しい室内をうっすらと照らし出している。それからエミリアはゆっくりと壁の時計を確認し、今がまだ早朝の5:30であることを認識した。
まだ早い。そう思ったエミリアは、再び硬いばね付きマットレスの敷かれたベッドに横たわる。はぁ、とため息を一つつけば、少しだけ鮮明に昨日のことが思い出されるような気がした。
「ここがE305です。カギをどうぞ。」それは局長オフィスでの面会を終えた後でのことだった。
アインと呼ばれた青年は、官舎まで案内する途中で管理人からカギを受け取る。たいていの場合そこで別れてしまっても構わないと思うのだが、アインはわざわざ、エミリアを今いるこの部屋の前まで送り届けてくれていた。
「ありがとう、ございます。」エミリアはおずおずと頭を下げる。
アイン自身は、エミリアのことに関心があるようなそぶりを全く見せない。しかしながら二人で月影内部を歩いている時、通りすがりの局員たちから異様に視線を集めていたのを思い返すと、アインがエミリアに全く興味を示さないということが、それはそれで異質であるかのように思えて仕方がない。
「荷物は、別の局員が届けてくれます。……館内のマップを送りましょうか。」アインは低くかすれた声でゆっくりと発語した。
「あ、……はい。お願いします。」
エミリアは自身の端末を取り出し、アインの端末に近づけた。画面がひとりでに明滅し端末がデータを受信する。
―Ain・Zard
端末が受け取ったデータの送信元には、律儀にも彼自身の名前がフルネームで表示されている。
「ありがとうございます。」エミリアはアインに対し、微笑みながら感謝を述べた。
「いえ、仕事ですから。」アインはそう言うとエミリアに対し、丁寧に頭を下げて戻っていった。
「はぁ……。不思議な人。」エミリアは深くため息を吐きながら、ベッドに手足を投げ出した。
相変わらず彼の瞳が何色だったのかまでは覚えていないが、赤っぽい光沢をもった短い黒髪だったことだけが頭をよぎる。どうやら警戒はされていないようだと思いつつ、本当にただ関心がなかっただけなのではと、エミリアはふと思い直した。
「それにしたってどうなってるの。」
アイン・ザードのことはさておきとして、連合の杜撰な対応、月影という組織の妙な居心地の悪さを思い返すと、エミリアの頭がひどく痛むのを感じてしまう。しかしながら、考えていたって拉致は開かない。
「よし。」エミリアは体にふっと力を入れてベッドから起き上がるとデスクの上から自分の端末を手に取り、手早くその画面を操作した。
「カフェ&バー・マスカレイド、だよね。」局長レオンからもらったメモは、端的に言うとある店の住所が書かれてあった。
「なんでここに行けって言うんだろう。」エミリアは素直に疑問を口にする。
もちろん、カフェ&バーがわからないというわけではない。むしろそれが何なのかがわかっているからこそ、一組織のトップであるような人間が、わざわざ勧めた理由が分からなかった。
「まぁでも、行ってみるしかないよねぇ。」エミリアは大きく伸びをして、ひとまず脳内の予定リストにマスカレイドへの訪問を書き足した。
次第に部屋の中にも朝の光が差し込んできて、どこか遠くの方から掛け声のようなものが聞こえ始めた。
「ん、もうこんな時間か。」壁の時計はあともう少しで7:00を回ろうとしているところ。
「もうそろそろ出て行かないと。」エミリアはよいしょと重たい体を起こして、街へ向かうための支度を始める。
月影の官舎から出て行く期限は聞いていない。しかしエミリアは、無用な長居は避けるべきだと考えていた。そうでなくとも、他の局員に鉢合わせる前に出て行きたい。エミリアは少ない荷物をまとめ、今回はスーツではなくきれい目の私服に着替えて部屋を出た。
官舎の室内には小さめのキッチン設備が整っていたけれど、掃除の手間などを考えるとどうにも利用する気にはなれないものだ。しかし、使用したベッド周りだけは丁寧に整えてきた。まぁ最低限の礼儀は果たした方だろう、とエミリアは自分に言い聞かせている。
管理人にカギを渡して礼を伝えると、相手は大して言葉発さずうなずくだけの反応を返した。まぁそういうものだろう。結局一過性の関係ではあるのだし、と小さめの旅行鞄を肩に引っ掛けながらエミリアは思う。ピロンと端末から音がしたので見てみると、なぜかアイン・ザードからのメッセージが画面に表示されている。
―入口までのルートです。
素っ気ないメッセージとともに送られてきたのは、官舎から正門入口までのルートを示すメモ書きだった。
「あっはは。」思わず笑いだしたエミリアを、通りすがりの局員たちが横目で見ている。
「はぁ。それじゃあ行きますか。」エミリアは気後れしそうな心を奮い立たせながら、薄灰色に陰る空の下を街へと向かって歩き始めた。
ふとエミリアが後ろの方を振り返ってみると、空を背負っているかのように治安管理局・月影の20階建てのビルがそびえたっているのがよく見える。エミリアは、もう後には引けないのだと己に言い聞かせ、再び背中を向けるのだった。
※サイドストーリーが解放されました
「路地裏の亡霊たち
ーDialogues in the Lost Cityー」
・Gloss & Scarlet
・Sigh of the Rose
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