第7話 仏の御石の鉢(前編)
旅立ってから、早くも半年が過ぎた。世間知らずだった私も、随分旅人が板に付いてきていた。細く、筋肉もない軟弱な体躯だったが、余分だった脂肪は筋肉に変わり、体力もかなりついたと思う。
「やっと着いたな――」
『仏の御石の鉢』がある霊山の麓まで来ていた。麓の手前で足を止め、3人で山を仰視する。竹ちゃんは霊気に中てられ飛ぶ事が出来なくなっていた。故に、私にかけている幻術も解かれてしまっているらしい。けれど、はるあきは容姿が変わった私に対して何も言ってこない。
「ねぇ……、私の見た目ってさっきと違って見えてる?」
あまりに何も言ってこないので、居たたまれず私からはるあきに訊ねた。
「いや。ずっと同じに見えるけど」
そこまで口にすると、おかしな事を言う奴だなと目で語る。
「え? そうなの? おかしいな……」
竹ちゃんの幻術が効いていなかったのか。そうだとすると、旅の途中にもっと騒ぎになっていそうなものだが。
「あぁ。竹之丞の幻術ならちゃんとかかってたぞ。だから他の人には違って見えてただろう。ただ、俺は一応陰陽師だからな。幻術を見破る技くらい持ってる。出会ってすぐに幻術を使ってるのは分かった。だから、警戒はしていたんだが、徒労に終わった」
まさか、最初からバレていたとは思わなかった。早く言ってくれれば、竹ちゃんも無駄な力を使わずに済んだのに。肝心な事はいつも言ってはくれない。
「そんな事より、先進むぞ」
そう言って、はるあきは途端に険しい顔付になり、霊山に向かい歩き始めた。
「待ってよ。いつもそうやって先に行っちゃうんだから――」
歩を進めた瞬間、空気がガラリと変わった。
ごくり、と生唾が喉を通る。以前、血だらけの山小屋で感じた空気と同じ、腐りかけた血のように重く澱んでいた。
霧は形を持ち、まるで無数の手が道を塞ぐかのように蠢いている。ひとたび風が吹けば、木々の影がざわりと揺れ、その中に人の顔が浮かんでは消える。この山で命を落とした者の魂が、今も尚山に囚われている。
鳥も虫も沈黙し、ただ遠くで鈴の音とも哭き声ともつかぬ音が、絶え間なく響いていた。
はるあきは目を閉じ、呪文を唱えている。以前にも聞いたあの呪文だ。私もはるあきの横に並び、同じように唱える。
最後に、一拍手すると「さぁ、行くか――」はるあきも緊張しているのか、顔が強張り、眉間に力が入って深い皺を刻んでいた。
歩を進める度、湿った土が蠢き私達の足を絡め取ろうとしているかの様だった。昼日中だと云うのに、山は闇を纏い百の眼がこちらを覗いている。獣の眼ではない。この世とあの世の境を見張る者の視線だ。
竹ちゃんは元気を失い、私の懐に入って苦しそうにしている。
「竹ちゃん、大丈夫? 辛いなら山の外で待ってくれててもいいよ?」
心配になり、竹ちゃんを見下ろしながら声を掛けた。
「ううん。大丈夫……。かぐや達がいつ戻って来るか分からないから、一緒に行く」
竹ちゃんの言う通り、下山するのに何日掛かるか分からない。知らない土地で1人で待っていても不安なのだろう。
「分かった。もし、辛くて我慢出来なさそうだったら言って? 治癒してあげるからね」
竹ちゃんは力なく頷くと、懐に潜ってしまった。顔を上げると、はるあきは少し先を歩いている。彼の背中から張り詰めた空気が伝わってくる。
入山してから以降、鳥の囀りも虫の鳴き声も一切聞こえてこない。聞こえてくるのは、足元から聞こえる、低く地に響く唸り声だけだ。
「さすが霊山だな――。他の山とは違う。人間を拒んでいる。呪符がなければ生気を吸い取られてたな」
山に入る前、はるあきに1枚の呪符を渡された。必ず肌身離さず持っておけと言われ、落とさぬように帯の内側に仕舞った。その呪符が効いているのか、嫌な気配はするが竹ちゃんのようにぐったりとする事はない。
「これってさー、1日で山登れる感じなの?」
前世でも、遠目で富士山を見ただけで実際には登った事がない。ましたや、前世では登山ルートが出来ていて、初心者でも登山可能だがこの時代……登山ルートは恐らくない。獣道をいくしかなさそうだ。
「1日じゃ無理だろ。藍の体力がまず持たないな」
それは言えている。入山してから2時間程歩いて既に息が上がってしまい、息苦しい。
それから何時間歩いたのだろう。気温が一気に下がり、奥歯がガチガチと上下の歯がぶつかり合っている。着物1枚では凍えてしまいそうだ。
「これを羽織っていたほうがいい」
はるあきは担いでいた大きな袋から黒い物を取り出して、手渡してきた。
「何? これ」
手渡された瞬間、風と共に鼻腔を直撃する酷い臭いがした。
恐る恐るはるあきからそれを受け取ると、広げて見る。どうやら獣の皮らしい。この黒い毛は熊だろうか。それにしても、とにかく獣臭い。
「待って……コレを着ろって事? 無理だよ。これ凄い臭いなんだけど」
前世では動物の皮で出来たジャケットや小物は人気で店頭でもよく目にする。バッグなども、丈夫で長持ちするので街中でも肩から提げている人をよく目にした。革製品は独特の臭いはしたが、顔を
「臭いは酷いけど、そうも言ってられないだろ。凍え死ぬのと獣臭いけど温いのどっちがいいか考える間もないだろ。贅沢言うな」
ど正論――。確かに我が儘を言っている場合ではない。しかも、はるあきは私の為にこんな場所まで来てくれて、これも用意してくれていたのだ。それなのに、私は何も準備せずはるあきに付いて行くだけ……。
はるあきからしてみれば、感謝されこそすれ文句を言われる筋合いはないのだ。
「ごめん。そうだよね。準備してくれでありがとう」
私は、意を決してその獣臭い、恐らく熊であろう毛皮を羽織る。
「後、これで腰に縛っておけ」
はるあきに渡された紐で毛皮が落ちないよう羽織った上から縛る。確かに温かい。着物1枚とでは段違いだった。
「今日はそろそろ寝る場所を確保しないとな」
季節は秋だと云うのに、ここは冬だった。さすがに吹雪いてはいないが雪が残っている。こんな場所に寝る所があるとは思えない。
「寝る場所ってどこで寝るつもりなの? こんな山に小屋なんかなさそうだけど」
薄っすらと雪が残っている山肌を眺めながらはるあきに訊ねた。
「洞窟だったら火を起こしてれば、凍死することはないだろう」
残雪に足を取られながら歩く事数刻、白い景色の奥、岩肌がぽっかりと口を開けている。
その洞穴は雪に沈む山が一息つく為に開けた呼吸孔の様で、暗黒の縁だけが不自然に浮かび上がっていた。
「洞穴……やっとあったね」
先に行くはるあきも、言葉を交さずとも示し合わせたようにその洞穴の入り口まで来ると足を止めた。
「あぁ。ここなら風を凌げそうだな――」
奥行がどの程度あるのかと目を凝らすが、岩壁は見えず闇が広がっているだけだった。
その洞穴は、はるあきがぎりぎり直立出来る程の高さだった。横は私とはるあきが両手いっぱい広げて横に並んだ位の広さで、寝るには丁度いい。
ある程度奥に入ると、担いでいた荷物を降ろし、歩きながら拾っていた枯れ枝を地面に並べる。枝を器用に組み上げると、はるあきは手際よく火を起こした。
火は闇の中で静かに息づきはじめ、はるあきの端正な顔を照らす。
乾いた枝がぱちりと弾ける度、橙の火花が小さな星のように舞い上がり、すぐに闇に溶けていく。
周囲の空気がほんのりと温まる。焦げた枝の匂いが闇に交じり、静寂の中にだけ聞こえるぱち……ぱち……という音が、張っていた気をゆるやかにほぐしていく。
「はー生き返る。火を見てると癒されるよね」
はるあきが起こしてくれた火に手をかざして、真っ先にかじかんだ指先を温めている私に、はるあきは無情にも「外に行って雪を取って来い」と言ってきた。
「えー。折角指に血が通ってきたのにー」
指先が温まり、じんじんと解凍されてきていた実感を味わっていたところだった。しかし、はるあきにばかり頼っていてはダメだと反省したばかり……。私はぶつくさといいながら、また外に行き、温まった手を雪の中に突っ込み両手で掬えるだけの雪を持ってはるあきの許に戻った。
「これ、どこに置いたらいいの? マジ手が死ぬ! もう無理! 手が凍るって」
雪を両手に乗せたまま、私ははるあきの周りをうろうろとしながら叫んでいた。
「この中に入れてくれ」
はるあきは2本の竹筒を取り出すと、その中に雪を入れるように指示した。
「これで何するの?」
竹筒に雪を入れて、すぐに焚火に手をかざす。霜焼けになるのではないかという程の冷たさだ。
「これで米を炊くんだよ。持ってきた水は飲料水として取っておきたいからな」
竹筒は
はるあきは一体どこでこんな知識を得たのか、いつも感心させられる。お腹が空けばすぐに食べる物が手に入る生活をしてきた私には考えもつかない。
「ある程度師匠の許で修行したら、旅に出るつもりで準備してたんだ。考え無しに旅に出ても飢え死にするだけだ」
とても胸が痛い……。今ならあの時の自分だどれだけ無謀だったかが分かる。はるあきに出会ってなければ、折角貰った第二の人生も早くも終了させてしまう所だった。
話していると、はるあきの眼が鋭くなった。どこを見ているのかと視線を辿ると、洞穴の入り口に近づいて来る2つの影が見えた。外はもう陽が落ちかけているのか、山はさらに闇を濃くしその影を呑み込んでしまいそうだ。
私も、洞穴の入り口を凝視した。その影が熊ではない事を祈りながら、ゆっくりと近づいてくるその影を観察する。
「おーい!」
その影から声がした。人の声だ。熊ではなかったと胸を撫でおろす。私とはるあきは洞穴の入り口まで寄って行く。1人の男の肩にもう1人が腕を回す格好でぐったりとしていた。
「すみません。遭難しちまって。助けて下さい」
どこかで転んだのだろうか、男2人は頭や肩に雪を乗せ、着ている物は酷く傷んでいた。2人が洞穴まで来ると、はるあきがぐったりとしている男の腕を肩に回した。
「大丈夫ですか? とりあえず火の側に」
私は、焚火の近くに莚を敷くとその上にぐったりとしている1人を寝かせた。
「ありがてぇ。儂は孫次郎という。こっちの連れは友蔵だ。温ったけぇ。何と礼を言ったらいいか」
男はそう名乗った。孫次郎は20代後半であろうという歳で、ぐったりとして動かない友蔵は孫次郎より少し若い様に見えた。
「構いませんよ。困った時はお互い様ですから」
低頭で礼を口にする孫次郎にはるあきは、「頭を上げてください」と肩を叩く。
よく見ると、友蔵の指先から手首の辺りまでが黒ずんでいる。手が汚れているのかと思い拭こうとすると、はるあきが大きな声を出した。
「触るな!」
肩がビクリとして、持っていた手拭を落としてしまった。
「汚れてるのかと思って……。そんな大きな声を出さなくても」
はるあきのあまりの剣幕にしどろもどろになりながら、危害を加えるつもりではなかったと主張する。
「いや、危害を加えるつもりじゃないのは分かってる。ただ、その黒くなってるのは凍傷によるもので、下手に触らないほうがいい」
凍傷といえば、霜焼けの酷い状態の事で水泡が出来たり白くなったりするのは知っていた。けれど、黒くなる? 首を傾いではるあきを見つめる。
「連れの手は重度の凍傷で壊死しちまってるんだわ。重度の凍傷はこんな風に黒うなって、酷ければ折れるんだわ。ほれ、こっちの手はもう指がねぇ」
孫次郎は、意識がなくぐったりとしている友蔵の、反対の腕を上げて私に見せてくれた。
見せてくれた手には指が1本も残っていなかった。私は思わず手で口を覆った。人間の指が生きているまま折れるなんて事があるのか。ショックが強すぎて言葉にならなかった。莚に寝かせた男の胸は上下に動いている。彼は確かに生きているのだ。それなのに……。
「知らなかったとはいえ、ごめんなさい――」
私はその言葉を絞り出すのがやっとだった。
「あなたも、火に当たって温まってください」
はるあきが男にそう言うと、「すまねぇ」と言って火に手をかざす。その男の手も黒くなるまでとはいかないが、水泡ができていた。はるあきは何も言わず、火に当たって温まる男をジッと見ている。
静寂の中、焚火のぱちぱちと云う音と米が炊けるくつくつという音だけが響いている。甘い匂いが洞穴を満たしていく。はるあきは、竹で作ったコップに少しだけ重湯を取ると、また竹筒を火に戻した。
「ご飯のいい匂い! もう炊けたかな?」
くつくつという音がしなくなり、私は不必要な程の明るい声音ではるあきに訊いた。
「そうだな。もう大丈夫だろう」
竹筒を火から降し、すぐに食べたい所だがぐっと我慢をして米を蒸らす。ご飯の甘い匂いに誘われて、口の中では待ちわびるように唾液が分泌されている。
「もういいぞ」
はるあきの合図で、私は竹筒の蓋を開けた。むわっと白い蒸気が立ち込める。それと同時に甘い匂いが一層強くなった。
焚火に照らされ、米粒がきらきらと輝いて見える。
「これ、よければ食べて下さい。それと、こっちの重湯はお連れの方に」
恐らく、ぐったりしてしまっている男性の方は咀嚼する気力がないと判断して、はるあきは予め重湯を取り分け冷ましていたのだ。いつでも冷静で、よく周りを見ている。
「こんな上等なもんを私らなんかにくれるんか? もう、いつ死んでも悔いはねぇなぁ」
孫次郎はそう言うと、あっという間にご飯を平らげた。そして、ぐったりとしている友蔵に声を掛けたが、反応がない。けれど、何かを口にさせないと弱っていく一方だ。
仕方なく、孫次郎は友蔵の口を少し開けて重湯を流し込んだ。けれど、嚥下する気力も無いのかそのまま半開きになった口から重湯が流れ出てしまった。
「すまねぇ。折角用意してくれたのに、無駄になっちまった」
孫次郎は、友蔵の口から流れ出た重湯を着物の袖で拭ってやった。水分も取れないとなると脱水症になってしまうが、点滴なんてないので自力で飲んで貰う他ない。
「お連れの方はいつからこの状態なんですか?」
はるあきは孫次郎にそう訊ねると、孫次郎はそれまでの出来事をぽつりぽつりと語り始めた。
男が住む村は、私達が入山した反対側に位置するらしい。今年に入ってから雨があまり降らず、作物も育たなかった。しかし、年貢を払わなければならず村中の米や雑穀をかき集めたが、足りなかった。
来年に今年の足りなかった分を払うという条件で許して貰ったものの、自分達の食料分も全て渡してしまった為に村人は飢えに苦しむ結果となった。
村ではこの山を『祈りが腐る場所』として忌み地だと伝えられていた。けれど、背に腹は変えられず、獣を狩りに孫次郎と友蔵の2人で山を訪れた。
「入ってすぐの森で、惑わされて方向が分からなくなった。森をやっとの思いで抜けたが、獣の気配が一切ない。それでも、頂きに向かい歩いていると今度は吹雪に見舞われてしまって……。視界が遮られ、儂と友蔵は崖から落ちちまって。その拍子に友蔵は足を痛め、まともに歩けなくなってこの有様だ」
孫次郎は嘆息した。全てを諦めてしまっているような目をしていた。光は一点もなく、井戸の底を連想させる双眸だった。
何処を見ているのか、よく見ると孫次郎の焦点が合っていない事に今更ながら気が付く。何となく、それ以上見てはいけない気がして私は孫次郎から視線を逸らした。
しかし、獣を狩りに来ただけなら、何故2人はわざわざ頂まで登ったのだろう。獣がいるとすると、山頂より麓付近のほうがいそうだ。この辺りまでくると、木も生えておらず獣の餌になる植物はないのではないかと、この時の私は不思議だった。
「それは大変でしたね。今日はゆっくり寝て下さい」
はるあきは、莚をもう1枚敷くと孫次郎に「どうぞ」と勧めた。孫次郎ははるあきに勧められるまま、莚の上に体を横たえると、余程疲れていたのか直ぐに寝息を立て始めた。
「友蔵さん……大丈夫なのかな? 息はしてるみたいだけど、すごく痩せてるし足も痛めてて、腕も――壊死してるって事は動かせないんでしょ?」
私は、はるあきの横に座り寝息を立てている2人をちらりと横目で盗み見る。
「食事らしい食事はずっと摂ってなかったみたいだな。2人共、かなり痩せているし友蔵さんのほうは骨も脆くなってたんだろうな。さっき、少し患部を見てみたけど――あの感じじゃ、骨が折れてる。あの足でこの山を下るのはちょっと厳しい……かもしれないな」
はるあきは珍しく言葉を濁した。2人に気を遣って言っている風でもなく、何か――引っ掛かりがあるようなそんな話し方だった。
「山を下りられないって、それって……もう友蔵さんは助からないって事?」
私は2人に聞こえないように、更にはるあきに寄り耳打ちする。
「友蔵さんが助からないというより……いや、何でもない。忘れてくれ。藍も早く寝ないと、明日は更に登るから雪がここよりも残ってるぞ。今日の疲れをしっかり取っておかないと歩けない」
はるあきにそう言われ、私も寝る事にした。出来る限り焚火の近くに莚を敷く。莚を敷いただけでは地面から伝わってくる冷気を遮れず、ひんやりとしていた。
「これを上から掛けとけ」
そう言ってはるあきは自分が使う分の莚まで私に渡してきた。
「え? はるあきは寝ないの? これないとかなり冷たいよ?」
私は、はるあきが寄越してきた莚を突き返す。
「俺は、座ったまま寝る。火の番しとかないと、火が絶えたら全員凍死しそうだしな」
確かにそうかもしれないが、それだとはるあきが寝れない。
「そんなの、私と交替ですればいいじゃん。はるあきもずっと歩いてきたし、私よりも重い荷物担いでくれてたのに……」
普段は憎まれ口を叩いてくるくせに、こういう時にその顔で漢気出すをやめて欲しい――。不覚にもドキリと胸が弾んでしまう。
「俺は慣れてるから大丈夫だ。藍こそ、人の心配より自分の心配したらどうだ? 体力ないくせに、寝ないで火の番なんて出来ないだろ。いつの間にか寝て火が消えてましたってなりそうだから信用ならないし」
さっきの私のときめきを返せと叫びたかった。こんなやつに一瞬でもときめいた自分は愚か者だ。
「そうですか! 分かりました! はるあきこそ、ちゃんと火の番しててよね」
私は鼻息を荒くしながら、頭から莚を被るとはるあきに背を向けて横になった。あまり眠たくないと思っていたが、横になってから数分後には寝入ってしまっていた。
――パチッ……パチッ……――
焚火の音が聞こえる。いつの間にか寝てしまっていた私は、目を覚ました。薄っすらと目を開けて洞穴の外に視線を遣ると、外はまだ暗く寝た時と同じ闇が広がっているだけだった。
(まだ、夜中とかかな……)
火はまだ消えていないようだ。はるあきは本当に一晩中起きているのかと思い、はるあきが居る方へ寝返りを打った。すると、枝の爆ぜる音とは別の音が聞こえてくるのに気が付いた。
「クチャ……グチュ、クチャ……ペチャ……」
何処かで聞いた事がある音。あれはどこだったか――。あぁ、そうか前世で母方の祖父母がまだ生きていた頃に、祖母とハンバーグを一緒に作った。
その時、私は祖母から「ミンチ肉と玉ねぎ、パン粉と卵がしっかり混ざる様に捏ねてね」と仕事を貰った。
祖母の手伝いが出来るのが嬉しかった私は、これでもかと手に力を込めて懸命に捏ねたのだ。その時の音によく似ている。
はるあきの方を見ると、はるあきは座ったまま寝息を立てているようだった。少し仮眠を取っているのだろうか。
はるあきではないとしたら、この音は誰が出しているのだろう。私は、孫次郎と友蔵が寝ている方へと視線を転じた。
孫次郎が起き上がって、友蔵の傍らに座っていた。音はそこから聞こえてきている。孫次郎の背で細かい部分は見えないが、あの時友蔵は重湯を飲まなかったので、重湯を飲ませているらしい。
「孫次郎さん……。友蔵さんの体調どうですか? 重湯ちゃんと飲めてますか?」
私は横になったまま、孫次郎の背に向かって友蔵の体の具合を訊ねた。すると、孫次郎はゆっくりと、顔を私の方へと向けた。
向けられた孫次郎の顔……特に口元が真っ赤に染まっていて、ロープのような長いものが垂れ下がっている。予想もしなかった孫次郎の有様に、言葉を失った。
何が起こっているのか、目の前の現象に思考が追い付いていない。
「え?」
私は、孫次郎の口から手、そして友蔵の腹の辺りと赤く染まっている箇所を上から順に目で追った。
「なんでそんなに赤くなって……」
私はやっと、体を起こして孫次郎と友蔵の姿に目を凝らす。よく見ると孫次郎は手にも何か持っている――。そして、出会ってからずっと体調が悪く目を瞑ったままだった友蔵の眼は、命が尽きたその最後の景色を魂に焼き付けるかのようにカッと見開かれていた。
私は、何が起きているのか理解した途端、叫び声を上げる間もなく意識を失いその場に倒れた。
「――おい、藍! 大丈夫か! 藍!」
はるあきが私の名前を呼ぶ声が聞こえた。とても必死に私の名前を呼んでくれている。
「――はる……あき?」
私が薄っすらと目を開けると、はるあきの心配そうな顔がすぐ目の前にあった。
「どうしてそんな……に……」
言いかけて、先程見た光景を思い出し飛び起きた。
「はるあき! どうしよう! 友蔵さんが……孫次郎さんが! 私たちも早く逃げなきゃ」
立ち上がり、はるあきを急いで立たせる。
「藍、いいから落ち着け大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよ! はるあきは寝てたから見てないかもしれないけど――」
よく見ると、2人の姿がない。姿だけではない。あれだけ血だらけだった地面には一滴の血さえ残っていなかった。
「え? どういう事? 夢? 待って――何これ。どういう事?」
訳が分からずパニックに陥る。昨夜の光景は夢だったのだと、安堵しかけたが、地面には2人が居たのを物語るかのように2枚敷かれたままになっている筵が残されていた。はるあきが竹筒に入れた重湯もそこに置かれたままだ。
「いいから、一旦座って落ち着け。とりあえず、水温めといたからこれ飲め」
はるあきから、白湯が入った竹筒のコップを手渡され一気に飲み干した。私は、晩に見た光景をはるあきに思い出せる限り詳細に語った。
「――はーそっか。やっぱりそうだったか」
私を置いて1人納得しているはるあきに、「ちゃんと説明して」と食って掛かった。けれど、はるあきは火が点いた枝を手に洞穴の奥へと歩いて行く。
「ちょっと、急にどうしたの?」
はるあきの後を追いながら、何も説明してくれないはるあきに苛立ちを覚えた。
「これ。見ろ」
洞穴の際奥は意外とすぐだったらしく、すぐに行き止まりになっていた。そして、その岩壁の下に火を当てながらはるあきが言った。
火が当てられた所には、人の物らしい骨と着物が落ちていた。そして、その周りにはバラバラに置かれた別の人の物らしい骨があった。
はるあきはそれを見ながら、やっと説明してくれた。
孫次郎と友蔵は恐らく何年も前にここで遭難した人だったらしい。山に入ったのは昨晩、孫次郎が語った通り。
孫次郎は寒さと飢えと、助からないかもしれないという状況の中で、弱っていつ死ぬとも分からない友蔵を食べたのだ。しかし、仲間を食べてまで生き残ろうとした孫次郎も怪我をしていたのか、感染症に罹ったのかは分からないが生きて山を下りる事は出来なかった。
昨晩私が見た光景は実際にこの場で起きた事象だった。けれど、孫次郎とは普通に会話をしていたし、はるあきが勧めた白米も美味しそうに食べていた。
幽霊なはずがないし、仮にそうだとしてもはるあきの式神や竹ちゃんが警戒しそうなものだ。
「それは……ここが霊山だからだろう。竹之丞は霊気に中てられて、それどころではなかったし、俺の式神も似たような物だ。この山で死んだ者は成仏できず山によって取り込まれているのかもしれないな。『祈りが腐る場所』とはよく言ったものだな。生者よりも死者が力を持つ地なのか――何にしても、この先は心して臨まないとだめだな」
一応私も、それなりに覚悟をして宝物を探す旅に出たつもりだったが、それは私が思っていた以上に過酷だった。
(こんな大変なのに、私みたいな小娘と結婚する為に本気で取りに来る人なんている訳ないよね。そりゃぁ……)
私たちの祈りが届かないにしても、遺骨をそのままにしておくのも偲びなかったので洞穴を出てすぐの地面に2人の遺骨を埋葬した。
成仏出来なくても、少しでも2人の魂が今よりも安らかになるよう願って手を合わせた。
「さぁ、俺たちも頂きに向けて出発するか」
気持ちを切り替え、はるあきと私は山の頂きを目指す。
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