感性と感受性と理性と~狐男のつくり方~
橘夏影
よくある疑問
私は過去に何度か、感性をテーマにしたエッセイのようなものを書いてきた。
するとしばしば、「感性とはそもそも何か、よく分からない」というお声を耳にする。
さて、では私は理解しているのかと言われたら、怪しいものだと思ったのが本エッセイもどきの執筆動機であることを最初に記していく。
また、そもそも「理解するべきものなのか」ということもあるかもしれない、それも語っていこうと思う。
さあ、胡散くさいお話のはじまりだ。
ブラウザバックは、どうぞご遠慮なく。
どうでもいいが、私はショパンを聴きながら優雅にこれを書いている。
良かったらぜひご一緒に。
笑うところですYO。
⌘ 感性と感受性
感性と似たものに、感受性というものがある。
このふたつはどう違うのだろうか。
私のごとき泡沫がいきなり何か言うより、まずはオーソライズされた定義を当たってみよう。
ひとつの基準となるように。
試みに小学館『デジタル大辞泉』を見てみる。
◇感性
・ 物事を心に深く感じ取る働き。感受性。「—が鋭い」「豊かな—」
・外界からの刺激を受け止める感覚的能力。カント哲学では、理性・悟性から区別され、外界から触発されるものを受け止めて悟性に認識の材料を与える能力。
◇感受性
・外界の刺激や印象を感じ取ることができる働き。「—の強い人」「—が豊かだ」
・ 病気にかかりやすいこと。例えば、麻疹(はしか)や風疹などの感染症に対する免疫ができていないため、感染した場合に発症する可能性が高いことをいう。
こうしてみると、感性の方が能動的なニュアンスはあれど、区別としては曖昧に見える。
というか、感性の説明では感受性と同一視されてすらいる。
もう少し手を広げてネットの海を漂ってみると、感性という言葉の能動性に着目して、感性は感じ取ったものを創造的に昇華する力であるとする言説もあるが、そちらの方が納得感はある。概ね賛成だ。
身も蓋もない話だが、言葉というのは結局生き物だ。
オリジナルの用法や意味から外れて行っても、人の生活の中で馴染んだものが慣用表現として受け容れられる例は枚挙にいとまがない。
そういうわけで、私なりのイメージを深掘っていこうと思う。
ギアをあげよう。
⌘ 感性と私
そもそも私が感性というものを意識したのはいつからだろうと考えてみる。
曖昧だが、たぶん大学か大学院からだろう。
個人的な話になるので、適宜読み飛ばしていただきたい。
私は教育学系の、面接で言ったらだいたい聞き返される名前の院に進学して教育社会学やらを学んだ。
面接受けは最悪の部類だと思う。文系で院進学している時点でお察しだが。
たぶんその捉え方は普通だ。キャリアをきちんと考えてないやつだと。
専攻名を聞き返してくれる面接官はたぶん優しい方だ。
夢見がちだったのは認めよう。
反面教師にしていただきたい。(教育系なのにね)
ひとつ客観的な言い訳をするなら、物心ついたときに母は専業主婦で父も定年退職済という環境では、職業人のイメージは育ちにくいのかもしれない。
それは私にとっては言い訳だが、ひとつの可能性として若い人は意識してもいいかもしれない。
そんな環境にある若い人がどれだけいるかは、知らないが。
さて話を戻そう。
私が大学院に進学するにあたり、私は教育という文脈で何がしたいのだろうと思ったとき、それは感性へのアプローチではないか、と思った。
ちなみに私の父は教育学の教授であり、モンテッソーリなどもよく扱ったと後から聞いた。
じゃあなにか私が直接的に教育学についての薫陶を父から受けたかと言えば、記憶の限りでは一切ない。
ただ日常の中で自然と滲むようなものはあったのかもしれない。ハビトゥスというやつだ。
結論としては私は学べば学ぶほどに教育の文脈でのアプローチに絶望し、紆余曲折あり、アメリカンフットボール的IT海賊として感性も感受性もソテーする日々に落ちたのは過去のエッセイで語った通りだ。
だがいまや思う。
感受性や感性というものは、うつくしいものから遠ざかることで育たないことはあれど、元あったものを殺しきるのはそう簡単ではないのではないかと。
むしろそれはある段階までは傷つければ傷つける程に鋭敏になる。
そして限界を超えて傷つき、感じなくなったとしても、その喪失の記憶が新しい豊かさをもたらしもする。
神がいるとすれば、「いい声で啼くじゃないか」と愉悦するかのように。
そういう地獄のような構造になっているのではないか、と。
つまり、死に至る病の病巣だ。
だからこそ、感受性はギフトだというと捉え方もある。
それは他者への共感や想像力の源泉でもあると。
私もそう思う。賛成であるというような思想の問題ではない。いまやそれは、実感だ。
感受性によって身に刻まれた痛みや孤独は、同じような痛みでなければ癒えない。
もちろん、もう何も感じたくないと思う夜はある。
感受性や感性を殴殺した末の存在、それが拙作における『狐男』だ。
⌘ 狐男のつくり方
狼男や鹿男、羊男は知ってるが狐男は知らない、と言われるかもしれない。
それはそうだろう。オリジナルのつもりだ。
狐男というのは、感受性や感性を殺して社会の歯車になった存在として、物語に登場する。
彼は主人公の少年に取引を申し出る。
君の想像力や感性と引き換えに、望むものをあげようと。
そして少年は、少女へのプレゼントのための材料を得るために取引をする。つまり愛のために。
そんな愚にもつかない物語だ。
狐男は私が創作を始めなかった可能性の存在であり、今後もいつそうなるともしれない。
彼はいつだって、部屋の隅に立っている。
あなたの部屋には、いるだろうか。
『そんなんおらんわ!』
『想像力が豊かですね』
というお声が聴こえてくる。
それでいい。
⌘ 感受性、あるいは 感性への礼節
ここまでで、おや?と思った方もいるかもしれない。
理性について触れてないぞと。
そこに触れて終わろうと思う。
理性というのは論理の要であり、言語化する能力と言えるかもしれない。
会社でよく言われる人も多いかも知れない。
定量化しろ、言語化しろと。
それは秩序やビジネスには必要なことだ。
評価するためには、誰もに分かる言葉でなければならない。
だがそれは本来暴力としての側面もあるように思う。
特に、芸術や、芸術としての文学においては。
誰かが感じ取ったことというのは、本質的に他者には感じ得ない。
自分の中の感覚や経験と照らして、共鳴することがあるだけだ。
問題はそこからだ。
感じたものをよりハードや概念や言葉に翻訳しようとするとき、それは慎重であるべきだと、私は思う。
――あなたが感じたのはこういうことですね、こういう意義がある、うつくしい、評価されるべきだ。
何が悪いのかと思うかもしれない。
私だって無意識にやっていることは多かろうと自戒する。
それでもときに、それは翼を
捕まえて、毛を
意味を与えて
それは支配のまなざしかもしれない。
多くの場合、無意識の。
抗うためにできることは、自戒し、怖れることだけだ。
でもそんなのは疲れてしまう。
勝手にさせろと思うだろう。
私に言い返せることはない。
これは、ごくごく個人的な倫理に過ぎないのだから。
倫理、あるいは礼節や誠実のようなもの。
その人が感じている痛みは、その人だけのもの。
誰にも奪えない。
だから、できることがあるとしれば、わからないまま、わからなさを眼差し、感じ取ること。
響き合うこと。感応すること。
自分の言葉にするとしても、そこにはわからなさへの敬意を添えたい。
私は、そのようにありたいと思っている。
そんな、ただの独り言。
⌘ and……?
「で?」という話ではある。
もやもやするかもしれない。
申し訳ない。
でも、それは私の意図するところだ。
それを呪いと取るか、共犯者になるかは、あなた次第。
ただ一点心残りがあるとすれば、このエッセイには笑いがないことだ。
ユーモアがない。
それは私が最近、大切にしていることだ。
ただこういう胡散くさくて堅苦しくて溜息が出るような成分を、久々にちょっと出してみたくなってしまった。
いい迷惑ですねぇ。
さて、最後にみっつを喩えるならどうなるだろうか。
感受性はセンサーで、理性はCPU?
じゃあ感性は?メモリ?モニタ?GPU?
いっそバグのようなものかもしれないと思ったりもする。
つまり静的な何かではなく、感受したものを理性で扱おうとした結果生まれる揺らぎそのものではないか、と。
なおバグというものはあることしか証明できない。
ないことは証明不可というのは、品質管理の常識だ。
偉い人はみんな知らない常識だ。
どんな挙動だって、仕様が変わればバグ扱い。
メテオフォール開発は、ほどほどにして欲しいもの。
それでも、世の中にバグがあるから、私たちは想像し、創造するのかもしれない。
お後がよろしいようで。
感性と感受性と理性と~狐男のつくり方~ 橘夏影 @KAEi_Tachibana
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