エピローグ ―目覚めの先に―

――朝の光が、ゆっくりと世界を染めていく。


勇人は、目を開けた。

窓から差し込む陽光がまぶしくて、思わず手で顔を覆う。

風がカーテンを揺らし、鳥の鳴き声が遠くで聞こえる。

いつも通りの朝。

けれど、その“いつも通り”という言葉の中に、

どこか言いようのない“喪失”が滲んでいた。


時計の針は淡々と時を刻む。

机の上には昨日のノート、半分飲みかけの水。

それらを眺めながら、勇人は深く息をついた。


(何かを、忘れている気がする……)


思考の奥に、誰かの声が響くような気がする。

呼びかけようとしても、名前が出てこない。

それなのに、胸の奥だけが温かい。

まるで“夢”の中で泣いていた誰かの涙が、

まだ自分の心に触れているような――そんな感覚。


勇人は制服の上着を羽織り、学校へ向かった。

朝の通学路は、淡い光の粒子で満ちている。

舗道の影がやわらかく揺れ、

その中に、一瞬だけ白い傘の残像が見えた気がした。


(……誰だろう)


足を止めて振り返る。

けれど、そこには誰もいなかった。

ただ、桜の花びらがひとひら、風に乗って舞い落ちる。


学校に着くと、教室はいつも通りの喧騒に満ちていた。

陽斗が手を振ってきて、勇人は曖昧に笑い返す。

席に着いても、心の奥の違和感は消えない。


「なあ、今日転校生来るって聞いたか?」

陽斗の言葉に、勇人は顔を上げた。

「転校生?」

「そう。なんか最近引っ越してきたらしい。今日からクラスに入るって」


ホームルームのチャイムが鳴り、

担任がドアを開けて教壇に立つ。

「えー、今日は転校生を紹介します。みんな仲良くしてあげてくださいね」


その言葉に、勇人の胸がざわついた。

ドアが開く音。

足音が一歩ずつ近づく。

教室の空気が、微かに震えた。


「神原 澪(かんばら みお)です。……よろしくお願いします」


その瞬間、時間が止まった。


勇人の視界が、白く染まる。

耳鳴りがした。

胸の奥で、何かが弾けた。

“澪”という名前が響いた瞬間、

心の奥で眠っていた“夢”の断片が、

音を立てて蘇る。


――黒い霧。

――白い光。

――泣きながら笑っていた少女の声。


「あなたの“夢”が、私の最後の記憶になる――」


勇人の呼吸が止まる。

けれど、涙は出なかった。

代わりに、微笑みが浮かんだ。

そう、どこかで確かに約束していた気がする。

“この世界で、もう一度会おう”と。


勇人は立ち上がり、言った。

「……よろしく、澪さん」


澪は少し驚いたように目を見開き、

けれどすぐに柔らかく微笑んだ。

「はい。よろしくお願いします、勇人くん」


その笑顔に、勇人の心臓が静かに跳ねた。

胸の奥の空白が、すこしだけ満たされた気がした。


放課後。

空は淡い橙色に染まり、校庭の風が頬を撫でた。

勇人は屋上に立っていた。

柵越しに見える夕陽の中で、

どこからか風に乗って誰かの声が聞こえた。


――「ありがとう。もう、大丈夫だから。」


振り返っても誰もいない。

けれど、その声は確かに聞こえた。

あたたかくて、懐かしくて、胸が締めつけられる。

勇人は目を閉じ、静かに呟いた。


「……夢の終わりに、また会えたんだな。」


空に浮かぶ雲の切れ間から、

一筋の光が差し込む。

その光の中で、

勇人は“誰かの笑顔”を見た気がした。


夜、ベッドの中。

夢を見た。

あの“記憶の湖”が、静かに波を立てている。

そこに少女が立っていた。

白い光に包まれたその姿は、もう輪郭を持たない。

けれど、声ははっきりと聞こえた。


『――勇人。私の世界に、光をくれてありがとう。』


勇人は微笑み、そっと目を閉じた。

夢と現実の境界が、今度はやさしく溶けていく。

もう恐怖も、痛みもない。

あるのはただ、静かな“祈り”のような温もりだけ。


⸻朝が来る。

窓の外の空は、どこまでも澄んでいた。

新しい一日が始まる。

勇人は制服のボタンを留めながら、ふと笑った。


(夢喰いの残響――それは、失われた記憶じゃない。生きることの証として、俺たちの中に残ってる)


そして、扉を開けて歩き出した。

光の中へ。

現実という名の、次の夢へと――。

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夢喰いの残響 無咲 油圧 @sora112233

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