亡霊街道のバスガール

イズラ

[第1話]そしてバスガール。

 今日、青いバラを買った。


 普段は入ることのない路地。ふと、足を踏み入れてみたくなった。いつからか失っていた冒険心だろうか。それとも、新しい何かを求めていたのだろうか。心の穴を、何かで埋めたかったのか……?

 とにかく、俺はその時、大通りを外れた。


「──お兄さーん、寄ってきますー?」

 無駄に張り上げられた女性の声が、心臓を震わせる。

「安いですよー? ねぇお兄さーん?」

 一瞬、繁華街にでも迷い込んだのかと思った。閑散とした路地に響く、なんだか誘惑的な声。

「そこの、イケメンのお兄さーん!」

 足を止めた。

「寄ってってくださいよー! よ、男前ー!」

 自分のことではないと思った。リュックサックを背負いなおし、少し急ぎ目に歩き出す。

「おにぃーさぁーん」

 いよいよ語気を強める女性。

 ここまで呼ばれてなお、なぜ返事の一つも返さないのだろうか。そいつは一体、どんなやつなのだろうか。

 どんな顔をしている。どんな髪型だ。身長は。体つきは。そして、名前はなんだ。

 そうして腕を組んで、振り返った。

 目が合った。

「あ、やーっとこっち向いてくれたー!」

 すぐに顔を逸らそうとした。

「待ってー! 久々のお客さーん!」

 確かに、人気ひとけは感じない。

 長考に長考の末、ついに俺はその”本屋”へと立ち寄った。


 古びた看板を見上げた。ほぼ真っ白な看板に、かすかに見える赤い文字を読むと、『アオノバラ書店』。

「……あの、ここって……」

 初めて声をかけると、店の奥で本を掃除していた女性が「はい?」と見た。

「……ここって、けっこう古い本屋さんなんですか……?」

 少しでも女性と仲良くなりたい。その一心で絞り出した言葉だった。

 女性は「うーん……」と上の方を見た。考えながら、棒の先に紙の束のような物が付いた道具を、パタパタとしていた。

「……そうですねー、祖父から受け継いだお店なのでー、開業がだいたい明治末期くらいですかねー」

 もちろん、聞き間違いかと思った。

 だが、何度聞き返しても、彼女は「明治末期です」と真面目な顔で言い張った。

 すっかり感心して、何度もうなずきながら、ふと店の中を見回してみる。

 木でできた本棚はどれも傾いていて、今にも崩れそうだった。そこにギッシリと収められた数多の本も、背表紙の色がすっかり抜けていた。

「……あ、けっこう新しいのも置いてるんですね……」

 見れば、先週発売されたばかりの大人気漫画の最新刊もある。こちらは変色もなく、ぴかぴかだった。

「欲しかったら、そこの箱に1円入れて、持って行っていいですよー」

 女性は相変わらずパタパタと本を掃除しながら、カウンターの方を指さした。

 よく見てみると、カウンターの上に、両手でかつげる程度の段ボール箱が置かれていた。近づいてみると、油性マジックで「一冊1円 こちらにどうぞ」と書かれていた。

「……ここに、1円入れればいいんですか……?」

「そうですよー」

 その瞬間から、俺は強烈な寒気に襲われた。

 一刻も早く、ここから出なくてはならない。そう叫ぶ鼓動。俺は、一歩、また一歩と後ずさり、やがて体の向きを変えて走り出した。

「走らないで」

 気づいた頃には、もう遅かった。

 女性は俺の腕をしっかりと掴んでいた。

「走らないでください」

「……すみません!」

 俺はその手を強く振りほどき、早足で本屋から出た。


 走って、走って、また走って、とにかく走り続けた。

 女性の顔が何度も浮かんだ。風に紛れて、声が聞こえる気がした。

 それでも、足は絶対に止めず、限界まで走り続けた。


 数分ほど走ったところで、ついに足が崩れた。

 俺は膝を曲げてしゃがみ込み、浅い呼吸を何度も繰り返した。視界に血管が浮かび上がる。頭も痛い。

 いつぶりだっただろうか。あれほどまでに恐怖したのは。思い返すだけで、さらに呼吸が荒くなる。

 とはいえ、ここまで走れば、さすがに追っては来れないだろう。

 そう思って背後を見ると──

「え……?」

 どういうわけか、正面に自分の家が建っていた。

 玄関の前に、さっき女性が立っている。

「本がダメならー、花でも買いますか?」

 右手に青いバラ。

 左脇に、段ボール箱。油性ペンでバツがつけられ、「一本1円 こちらにどうぞ」と書き直されていた。

 俺はしばらくボーっと、女性を見つめていた。

 目はラインの整った二重。鼻筋が通っていて、唇は少し血色が悪い。よく見れば、目の下には濃いクマがあった。髪型は、黒髪を後ろで一つに結び、横に流したもの。身長は、恐らく俺と同じくらい。どちらかといえば肉付きが良かった。

「本屋はやめて、花屋にしたんです」

 ニコッと笑う女性の顔。細めた目から、どこか切ない瞳が覗いていた。

 最後に、俺は口を開いた。

 長い夢から覚めたように、門の向こうに立つ女性に尋ねた。

「……あなたの名前は?」

 女性は一度笑顔を消すと、ゆっくり姿勢を正した。

「私、ユキコです」

 前で手を組み、愛想の良い顔を浮かべる。

「隠す必要もないようですね……」

 もう、目を逸らせなかった。

「亡霊街道から、お迎えに参りました。このバラを買って、バスにご乗車ください」

 背後から、エンジンの音が聞こえた。

「このバラを買って、バスにご乗車ください」

 笑顔は、ふちのようだった。

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亡霊街道のバスガール イズラ @izura

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