夢喰
マリアンナイト
第1話 夢喰
雪がしんしんと降り、村は白いローブをまとった無垢な世界のように見えた。
神社の石段にはうっすらと雪が積もり、冷たい風が境内を吹き抜ける。
初詣客はもう帰り、残されたのは凍てつく参道と、寂しげな風鈴の音だけだった。
この村には、昔から語り継がれる話がある。
一月一日の夜にだけ、「
正月には門松を飾る風習があるように、この村では一月一日の夜に風鈴を吊るす。
音で悪しきものを追い払い、聖域を作る。
精霊を迎えるための儀式みたいなものだ。
人々は風鈴の音を「夢へ誘う音」と呼び、その年最初の音を待ってる。
良い夢を願う、おまじないのように。
そして、この村には初夢の言い伝えも普通と違う。
「一富士二鷹三茄子」ではなく、「一ゆめ二まほろ三むくい」と言うそうだ。
それが縁起の良いことなのか、災いを呼ぶものなのか……。
誰もはっきりとは知らなかった。
ただ、風鈴の音に誘われて夢喰が現れ、人の思いを天秤にかけるのだという。
甘い夢を見せることもあれば、命を奪うこともあるらしい。
それが夢喰という精霊の姿だった。
***
白い息を吐きながら、僕は神社の石段を登った。
手に持ってるのは小さな風鈴。
去年の冬に、
「
あのとき、彼女はそう言って微笑んだ。
「優しい夢を見せてくれる精霊。
でも、欲のある人は夢の中に閉じ込められちゃうんだって」
僕はただの作り話だと思って、聞き流してた。
けれど春、霞美は事故で、あっけなく死んでしまった。
社会人になり、結婚を誓い合った、ほんのすぐ後のことだった。
あまりにも突然で、あまりにも理不尽なことだと思った。
人ってこんなにも簡単に死ぬんだと思った。
霞美を奪ったやつが憎くて仕方ない。
殺してやりたいと思うほどに。
でも、どれだけ憎んでも霞美は帰ってこない。
会いたい。ただそれだけだった。
胸にポッカリ穴が開いて、そこを冷たい風が絶え間なく吹き抜けていく。
霞美がいなくなっただけで、何もかも失ったように感じる。
感情も、食欲も、生きる理由さえも。
ひとりでいたかった。
霞美のことだけ考えていたかった。
同情なんていらない。
慰めの言葉をかけられるのも耐えられなかった。
涙さえ枯れてしまったのか。
悲しいはずなのに、涙すら出てこない。
ひとりになりたいのに、ひとりになると世界から取り残されたように寂しくなる。
***
霞美が昔、微笑ながら話していた村の言い伝え……。
僕はあの時、それをただの作り話だと決めつけ、聞き流してしまった。
でも、今は村の人に聞いてまわるうちに、夢喰の言い伝えは本当だと思っている。
実際に、夢を見た人もいたのだから……。
そして今、それを試すときだ。
鬼門とされる丑三つ時を前に、僕は風鈴を鳴らす準備を始める。
雪が降り続く中、灯籠の光を頼りに拝殿の前に立つ。
誰もいない境内は、時間が止まったように静かだった。
一月一日の、一時一分。
僕は風鈴に願いを込め、そっと鳴らした。
――ちりん。
その澄んだ音が静寂を破ると、雪の中で淡い光が揺れた。
光はゆらゆらと、少しずつ形になっていく。
輪郭、髪、瞳……そして、女性の姿が浮かび上がった。
霞美だった。
白い着物に朱色の帯。
あの日と変わらない微笑を浮かべ、目の前に立っている。
雪は柔らかくひかり、その雪明かりが彼女を照らす。
風鈴の音が光の波のようになって、彼女をおぼろげに映し出している。
「……かすみ?」
震える声で名前を呼ぶと、彼女は静かにうなずいた。
「覚えてたんだね、約束」
「当たり前だろ。この風鈴を鳴らせば、きっと会えるって……」
「ふふふ、聞き流してたくせに……」
霞美は微笑み、僕の頬にそっと手を添えた。
その手は冷たく、それでいてどこか温かかった。
「夢喰が、あなたの願いを叶えたの。
強く願えば、夢と現実の境目がなくなるのよ」
風が吹くたび、空を舞う雪がまるで光る花びらのように舞い落ちた。
***
僕らは黙って、真っ白な雪の上を歩いた。
二人の足跡が、白いじゅうたんを黒く染めていく。
灯籠の光が二人を導き、赤い鳥居が並ぶ参道へといざなう。
鳥居をくぐるたびに、景色が変わっていく。
最初は見慣れた神社の境内。
桜の花が舞う、その木の下での告白。
デートで歩いた川沿いの道。
結婚を誓い、未来を語り合った思い出の丘。
霞美が事故に遭う前に「また来ようね」って言った場所だった。
木々の枝には、雪のような白い花びらが積もっていた。
風が吹くと、花が雪のように舞い、僕らに降りかかる。
「ねえ、覚えてる?」
霞美が、ささやくように言う。
「春になったら、またお弁当を作ってここで食べようって」
僕はうなずき、目を閉じた。
あの頃の笑い声が、まだ聞こえる気がした。
「でも……もう、春は来ないかもね。
この夢の外には、冬しかないの」
霞美が寂しそうに微笑んでいる。
「それでもいいよ」
僕は迷わず答えた。
「たとえ夢でも、君と一緒なら、それでいい」
霞美の目に涙が浮かぶ。
それが落ちると雪に溶け、光に変わっていく。
彼女が僕の手を取り、指を絡めた。
そして僕は風鈴を鳴らした。
――ちりん。
***
世界がゆっくりと歪み始める。
鳥居の先は、夢と現実があいまいになった幻想的な景色。
夜なのに空は朝焼けみたいに染まり、地面には真っ赤な彼岸花が咲いている。
赤い花びらの間を白い蝶が舞い、雪と花と光が幻のように混ざり合っていた。
「ここが夢喰の場所。『まほろ』とか『まほろば』って呼ばれるところ」
霞美の声が遠くから聞こえるみたいだ。
「人の願いと、精霊の眠りが交わる場所。
夢喰が、みんなの願う場所、理想郷を見せてくれる」
霞美は、一度目を閉じ、うっすらと目を開けて僕を見つめる。
「でも……、これ以上、先へ行ったら、もう戻れなくなるわ」
「それでいい」
僕は笑顔で答えた。
「僕の願いは、君といることだけだから」
霞美はしばらく目を伏せ、長い沈黙のあと、ゆっくりと顔を上げた。
決意を宿した瞳で僕をまっすぐと見つめ、風鈴のひもに指を絡める。
「じゃあ……三度目の風鈴で、永遠に閉じましょう」
その言葉の重さを理解した。
もう迷う理由など、なにもなかった。
僕は霞美と向き合い、風鈴のひもを絡めた彼女の手を強く握り返す。
雪が止み、草木も眠るように時が止まる。
世界が、音を待っている。
――ちりん。
最後の音が、闇をゆっくりと光へと変えていく。
まばゆい光があふれ、彼女の顔が薄れていった。
それでも僕の手は、しっかりと彼女の手を離さなかった。
指先に残る彼女の手の感触だけが、僕らの繋がりを保っている感じがして……。
もう二度と離れない。
その願いだけが、どうにか意識を繋ぎ止めていた。
何もかもが光に包まれ、視界がぼんやりと曖昧になっていく。
まるで眠りに落ちるように。
最後に彼女の声が、かすかに聞こえた。
「ありがとう、夢希」
***
朝、神主が神社を掃除していた。
雪が境内を覆い、風鈴がひとつ、雪に埋もれていたのを見つける。
雪を払うと、そこには寄り添うように二つの足跡が残っていた。
そして不思議なことに、村の誰も「夢希」という青年を覚えていなかった。
彼の姿を見た者は誰もいない。
ただ、時々吹く風に乗って、風鈴の音が聞こえる。
――ちりん。
その音は、遠い夢の記憶みたいに、白い世界に消えていった。
***
雪は今日も、静かに村を覆っている。
一月一日の夜、風鈴が鳴るたびに、誰かが大切な人を想う。
それが夢なのか
けれど確かに、どこかで誰かが笑っている。
夢喰の精霊が、人の願いをそっと誘って連れてゆく。
それが願いを叶えたのか、それとも報いを受けさせたのか……。
そして、今夜もまた――
風鈴が小さく、澄んだ音を奏でた。
――ちりん。
夢喰 マリアンナイト @Maksymilian
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