ノイズの向こう、君はアリバイになった

nii2

ソウル・ライブラリのゴースト・ハッカー

2025年、東京。死は、もはや終着点ではなかった。それはソウル・ライブラリへの、厳粛な移管手続きに過ぎない。人の一生はデジタル化され、光の粒子で編まれた一冊の「魂の本」として、地球の遥か上空、軌道エレベーターの先に浮かぶ巨大な書架に永久保存される。人々は故人の「本」にアクセスし、その人物が生きた軌跡を何度でも追体験できた。愛した者の温かい記憶の調べは、人々を癒やし、未来へと導いた。


僕、相葉ユウキは、その神聖な書庫の片隅で、魂のデータを修復する技師として働いていた。僕の仕事は、経年劣化した魂のデータを補強し、永遠性を担保すること。しかし、僕自身の時間は、一年前にこの世を去った恋人、ミサキの「本」の前で、永遠に停止したままだった。


毎晩、閉館後の静寂の中、僕はミサキのページをめくる。彼女の笑い声、指先の温度、陽だまりの匂い。データは完璧に再現されるはずだった。だが、ただ一箇所、どうしても開けないページがあった。僕たちが永遠を誓った、あの雨の夜の記憶。そこだけが激しいノイズに覆われ、砂嵐の向こうで彼女の笑顔が歪んで消える。システム上の記録は「原因不明のデータ破損」。だが、僕にはそれが、何者かの悪意に満ちた介入のように、拭いがたい疑念としてまとわりついていた。


そんな日常に、不穏な異変の兆候がニュース速報として現れた。


『著名な遺伝子工学研究者、高遠博士が自宅で殺害されました』


高遠は、他ならぬミサキが生前勤めていた、あの遺伝子工学研究所の所長だった。背筋に、冷たい予感が走った。僕はすぐに高遠の「魂の本」に職権を濫用してアクセスした。彼の最期の記憶を再生する。暗い部屋、恐怖に歪む顔、そして、目の前に立つ影。犯人の顔は意図的に破壊されたデータノイズで塗りつぶされていたが、その一際鮮烈なシルエットに、僕は凍り付いた。ミサキだ。あり得ない。彼女は、一年前にこの世を去ったはずだ。


数日後、第二の犠牲者が出た。研究所の元主任、矢部。彼の「本」にも、同じミサキの影が記録されていた。警察は、故人のデジタルゴーストが殺人を犯すなどという奇想天外な可能性を検討するはずもなく、捜査は難航を極めていた。


僕の中で、点と点が繋がり始める。ミサキの破損した記憶。彼女の関係者ばかりを狙う連続殺人。そして、裏社会で囁かれる不気味な「アリバイ工作サービス」の噂。高額な料金で、死者の「魂の本」から特定の時間帯の記憶を借り受け、完璧なアリバイを作り出すという非合法ビジネス。


まさか。ミサキの「本」は、破損などしていないのではないか。僕がどうしてもアクセスできなかったあの時間は、犯人が自らのアリバイとして「レンタル」し、巧妙に隠蔽しているのではないのか? 死んだはずの恋人の影が、今この瞬間も、どこかで誰かの命を奪っているというのか? その疑念は、僕の魂を深く抉った。


僕は警察に話すこともできず、独りで広大なデジタルアーカイブの海に潜った。被害者たちの記憶の断片を繋ぎ合わせ、犯人が残したわずかな痕跡を追う。犯人は狡猾だった。常にミサキのゴーストを纏い、自身の情報は一切残さない。だが、僕は見つけてしまった。第二の被害者、矢部の記憶の片隅に、犯人がミサキの姿で口にした、聞き覚えのない名前を。


「アカリ…」かすれた、だがはっきりと響くその名を、僕は確かに聞き取った。


その名前を手がかりに、僕はミサキの生い立ちを深く掘り下げた。公的記録には存在しない、抹消された出生記録。そこに記されていたのは、ミサキの双子の妹の名だった。「アカリ」。幼い頃に引き離され、別の施設で育ったという、公には抹消されたはずの片割れ。


全てのピースが、戦慄と共にカチリとはまった。アカリは、姉の死の真相を追い、復讐しているのだ。ミサキは、高遠たちが主導した違法な研究の犠牲者だった。そしてアカリは、姉の記憶データを借りることで「犯行時刻、私はソウル・ライブラリにいた」という鉄壁のアリバイを構築していたのだ。僕が毎晩、縋るようにアクセスしていたノイズまみれのページこそ、彼女がリアルタイムで作り上げていた、冷酷な偽りの不在証明だったのだ。


僕は、アリバイ工作を仲介するデータ・ブローカーを突き止め、アカリの次のターゲットが、研究の最後の生き残りである元理事長・黒川だと知る。決行は今夜。僕は黒川の屋敷へ、猛然と駆けた。


屋敷の書斎で、アカリは黒川に銃口を向けていた。ミサキと瓜二つの顔。だが、その瞳に宿る光は、氷のように冷たい復讐の炎で燃え盛っていた。


「あなたが姉を殺した」

「人違いだ!」


僕が踏み込むと、アカリは驚愕に目を見開いた。

「ユウキさん…どうしてここに…」

「やめるんだ、アカリさん。ミサキはそんなこと、決して望んでいない」

「姉の無念を晴らすだけよ! この男たちが姉の未来を奪ったんだ!」


彼女の叫びは、あまりにも悲痛だった。だが、この復讐の連鎖は、ミサキの記憶を、その魂を汚すだけだ。

「君がしていることは、ミサキの魂を傷つけるだけだ。彼女の美しい記憶を、殺人犯のアリバイに使うな!」


僕の言葉に、アカリの銃を持つ手が震える。その一瞬の隙に、僕は彼女に飛びかかり、銃を奪い取った。駆けつけた警察官たちが、床に崩れ落ちて泣きじゃくるアカリを拘束していく。僕は、法に委ねることを選んだ。それが、ミサキの記憶を守り、未来へと繋ぐ唯一の方法だと信じて。


事件が終わり、僕は再びライブラリの静寂の中にいた。アカリから返還されたミサキの「魂の本」は、もうどこにもノイズはない。僕は祈るような震える指で、あの開けなかったページにアクセスした。


雨に濡れた公園のベンチ。僕が差し出した指輪。はにかむミサキの笑顔。記憶は鮮やかに蘇り、胸が締め付けられる。そして、僕が知らなかった続きが再生された。僕が帰った後、一人ベンチに残ったミサキの独白が、静かに響く。


『ユウキ、ありがとう。本当に幸せだった。もし、私がこの世からいなくなっても、どうか、あなたは前を向いて歩んでほしい。そして……万が一、私の影を追う者が、私の知らない妹…アカリが、あなたを訪ねてきたなら……どうか、あの子を救ってあげて。あの子は、きっと孤独だから……』


ミサキは、すべてを知っていた。自らの死と、妹が復讐に走る可能性を、深く予期していたのだ。ノイズの奥に隠されていたのは、僕への尽きせぬ愛と、妹を案じる、あまりにも優しく、そして力強い最後の願いだった。


涙が頬を伝い、デジタルの光の粒子に溶けていく。僕はミサキの本当の想いを胸に抱き、ゆっくりと彼女の「本」を閉じた。もう、過去に囚われるのは終わりだ。彼女が託した未来を、僕は生きていかなければならない。夜明けの光が、静かなソウル・ライブラリに差し込み始めていた。

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