第18話 吐露
望まれた生を持たなかった。
誰からも認知されず、認識もされず、人の空気の中をひっそりと生きてきた。わたしという存在さえ残らないこの生に、いったいどんな価値を見出せばいいのか。何年考えてもわからなかった。
そして、ふとしたことをきっかけに見つけた。ほんの少し世界を彩って描けば、視界のなかには鮮やかな笑顔があった。こどもの顔だった。もう、名も顔も思いだせない子の価値を信じて、世界の造りを解明し、社会を生かそうとした。
この両手で守れるものには限りがある。制度で守れるものにはそれがない。
感謝されずとも、認識されずとも、たしかに“起こらなかった”ことで価値を持つものはある。わたしはその価値を、自分の手でさえ守れなかった。
木造りの病室で、シーツがかけられた音無先生を見下ろす。ミンミンゼミのわめく窓を見やり、ぼうっとしてやまない先生を、ただ見つめることしかできない。
ノックが鳴る。とっくに開いているというのに、わざわざ存在を知らせてくるところに、一抹の承認欲求を感じる。
「音無先生は大丈夫なんですか?」
あいもかわらず透き通った声音だった。
背を向けたままうつむく。
「はあ。一時的なショック反応による麻痺を期待してたんですけどね。過剰な恐怖と生理的嫌悪による自閉です。回復の見込みは末期がんと同じ程度でしょうか」
「元浦くん、心理学なんて知ってたの? まだ発展途上でしょう? あの分野」
「そんなの状況とこの結果を分析すれば容易にわかりますよ、会長。で、なんのようですか。夏休みですよ、いま」
「そうそう、元浦さんにも説明したんですけどね。最近、長崎の西側近海で頻繁に中国漁船が目撃されてるですよ」
そんなのいつものことだろう。国境を曖昧化させて人を流し込み、朱に染め上げる。そういう国だ。会長が足を向けてくる理由には不足していた。
「中国産の漁船なんていまどき外国ではよく流通した型番でしょう。第三国の可能性を検討は? 中国との外交関係に摩擦を発生しようとしている可能性は?」
「もちろん、そこらへん拿捕して調べてるみたいなんですけど。どうもグレーなんですよねえ」
「判断不可能なら直接大使でも送って問い合わせればいいじゃないですか。反応と返答のほど次第で、白黒はっきりできるのが外務庁ですよ。わたしのところにくる話じゃありません」
「あの元浦さんまで落ち込んだ顔してましたから、もしやとも思ってたんですけど、案の定ですね。顔見せに来た程度だったんですけど」
「会長が人の顔色をうかがうようなこと……成長ですね。心中、容易に知れずともその意思なくしては見えないものですから」
今日は雪じゃなく雨が降りそうだな。
外では鷹が木々の上を飛んでいる。低い。やはり雨が降るかもしれない。
「……いつまでここにいるつもりですか? 入院費だって馬鹿にならないでしょう」
「知ってますか会長。初物はいつだって高値が付くそうです。特に、見向きもしていなかったやつの気まぐれは、それはそれは高いものとなりました」
「待って、人口管理庁に通した話ですよね」
「当たり前です。お相手さんは、耳の早い相良先輩でしたよ。まったくやになります」
使い物にならない先生は休職扱いとなったが、診療所のベットを占有するだけでも金はかかる。親類がもたないというのであれば、おのずとお鉢が回ってくるのは当然だった。点滴から看護師さんによる世話。それらは確実にわたしの懐を削っていく。
ちまちま貯めていた貯金も初月で尽きた。
肩をつかまれて振り向かされる。
「なんだってそんなこと……!」
「会長、人口爆破のトラウマをもとにした現行制度の特徴をご存じですか? 社会活動を負えなくなった人材を、支援しないことで間接的に間引くことです。わたしはまだ、先生をあきらめてない。それだけです」
「残念ですが、音無先生にそこまでの潜在的な価値はありません。きみが貞操を散らしたことで、守ってきたものを放棄するだけの価値が、あったんですか」
揺られて、茫然とする先生の方を確認した。
元に戻る保証はない。むしろそれが起これば奇跡だ。割に合わないと言うのだろう。けれど、これはわたしが起こした失敗。その責任からは逃れられない。
会長の手をほどく。
「法は、最後の一線を越えさせた時点で正当性がなくなるんです。わたしが信じるものはもろくて、機能を果たしませんでした。その害を被った先生を引き受けることの、なにがおかしいんですか」
「っきみは、セーフティネットのつもりですか。国家の安寧を試みるきみが」
「その安寧の一員たる先生個人を、制度どころか直近にいたわたしでも守れなかった」
「報告書は読みました。未遂にできただけ被害は最小だったと、なぜ納得できないんですか」
自分の欲望と合理性だけで世界を見る人には、一生わからないだろうよ。
皮肉さえ吐いてしまいそうになり、飲み込んだ。栓のないことだ。言ったところで、この人は自分を客観的に捉えられない。通じないのだ。
「未遂どころか、先生へのこの結果が危害として発生しなかった。それが可能でしたから」
「あの報告書の記載通りなら、きみにそれ以上の速さを求めるのは拙速。かえって君の身も危険にしていたでしょう。安全マージンを最大化したうえでの対処としては、むしろ警官より適切と言っていいのでは。結果的に、音無先生への肉体的な危害はなく、外部反応への防衛による心神喪失。時間さえあれば勝手に解かれる氷のようなものであるなら、総合的な損失は回復までの期間、お荷物になることくらいですよ」
死んでないのだからそれで十分だろ。暗にそういわれている。
わかってない子供をなだめるように、会長は嘆息して先生の額を撫でた。
「あなたは自責が過ぎるんです。私に相談もせず、相良さんに初夜を渡すなど……」
「もとより誘い自体はありました。等外くんとの軋轢も、相良家経由で解消されるなら、藍にもとばっちりがいく可能性も低くなりますし、よかったんです」
「それくらいなら鳥羽家でもできました」
「わたしが先生につきっきりになると、藍の身の回りも用心が必要になります。めぼしい脅威を無力化しておきたいのは当然です。それに、わたしは敵対したいわけではないので。相良家は等外の家との親和性が高かったですからね。中央のお偉方である会長のご実家では不適合だっただけです」
藍は心配ない。言葉が通じる相手なら、その心ごと丸裸にして断罪でも、必然のみじめな末路でも突き付けられる。一人生きていくなら、十分な強みだ。
揺り椅子を傾けてゆられる。
「本日はどのようなご用向きですか、会長」
「はあ、きみの書いた論考を以前、もらい受けたのは覚えていますか?」
「ええ、わたしが起こりうる国家の破綻の、いくつかの可能性を予測したやつですね」
「そのひとつに中国を主とするものがあったの。だから聞きたくて」
「いまの国勢は知りません。どのみち、朝貢時代に逆戻り、なんてことはありえないでしょうから。中華思想だってそんな簡単じゃないんです。膨れ上がった国のたどる末路なんて目に見えてるんです」
こちらの首都でも吹き飛ばすような愚行をやったのなら、もはやあちらは国の体をなしていないだろう。ないと願うしかないのは歯がゆいけど、たしかあのノートに書いたのって。
「……思想汚染でしたっけ。ということはその兆候があるんですか?」
「まあ、国際情勢は一般には不透明になりつつありますから。中途半端に中国の軍事的恐怖が強くなってるようで。従属したほうが安全なのでは、と」
憂いたっぷりによりかかってくる会長は、ブラウスの胸元をあおいだ。
金木犀の香りがただよい始める。こちらも変わっていないらしい。
「思わぬ流れでしょうね。あちらの国にとっても。まさしく情報過多の時代からの転落によってのみ確認される風潮ですね。信教復興の制度化はつつがなく行われていたはずですが、そっちはどうなんですか?」
「現実を受け入れきれない人々がはびこるから、その受け皿として宗教団体はにぎわってるそうですよ」
「なにを信じるかは自由ですけど、それが政治的なかじ取りに介入する規模になったら終わりですよ。宗教はあくまでも生存に関わる未来への恐怖や不条理を耐え抜くための鎮痛薬ですから」
とはいえ二分しそうだなあ。
さいわい、議会制なんて責任分散の過ぎた装置は、もう二十年前に廃止されて相互監査型世襲のかたちをとることになった。世論が割れようが、しっかり手綱をにぎれるなら、この偶発的な思想感染はなんの危険もないんだから。
それでも会長は安心できないらしく、憂いは晴れない。
「そもそもとして、他国への従属を促す思想的感染源を放置してもいいのか、疑問です」
「書籍なんかの廃版にふみきるつもりですか? 中央は」
「ええ、まあ。思想の自由も生存の保障も、国体あってのものだと」
「果断ですね。国に贅肉はいらんってことでしょう。そんなものを維持するだけの余力なぞ、ないって」
いや、贅肉じゃなくてがんのもとか。
あくびして先生をみやる。枝毛が、吹き込む風に揺られていた。
「問題は中国がこの趨勢を知った時のリスクです。世論という盤面をあおって革命に転じさせる。あるいは領土侵犯を強行。どちらも素地を形成するのに時間がかかります」
「会長はその可能性のほどを知りたいと」
「……さっき話した漁船の話。もし工作員が日本国内部に密入国でもしていたらと考えると」
「監視の目をかいくぐって侵入した形跡があるなら、国内から見つけ出すより、九州の漁業団体に不審船や不審な通信電波の情報もトムと言って、警戒でもうながせばいいんです。海保だって広域の防衛はきついですから」
これでもまだ安心とは言えない。確実にと要求されたなら、それはもう別の意味で割に合わない。どのみち出入国には高いハードルがある。そこさえ押さえれば捜索のコストも抑えられる。
会長がこんなにも不安そうなのは、きっと道しるべとなるなにかが存在しないからだろう。現実なんてそんなもんだ。国家ともなれば、前例なんてくその役にも立たない。
「提案してみます」
「じゃ、もういいでしょう。話が終わったなら出てってください。わたしも少し寝ます」
「昼寝とはのんきですね」
「わたしは本来のんきに生きる側なんです。あなたたちと一緒にしないでください」
「平時であれ、きみみたいな危機予測から対処、国家運営に際する批判から考案まで提供出来る人材がいると思いますか?」
「いようがいまいが関係ありません。代価なき授与は所詮搾取でしかないんです。今回のは、そうですね。貸しにしときます。諸外国の情勢ならなおさら良しです」
水瓶からコップに注ぎ、縁台に置く。
会長は先生に向かったまま、わたしに声をかけてくる。どうせなにも思ってないのに、ふりだけはできる。そういう人だと思えてならない。
「それもいいですが……個室なんですね」
「そろそろ先生も退院させるつもりです。わたしの住まいの近くにアパートの一室を借りまして、そこへ」
「やはり理解できません。私を頼ればいいのに」
「駄目です。わたしひとりならそうしてましたが、わたしは藍にとっての弱点なんです。だからこそ、下手な恩義も与えません」
わたしがなにを言っても、藍は自分の価値観を変えようとはしない。困ったものだ。
小さくため息をつくと、会長が二つ結びを解いた。なんの真似と思う間もなく、壁に押しやられた。
「それがなんです。あなたは生きるだけで途方もない価値を生成してるじゃないですか。それは本来、自儘にふるまっても許されるだけの余地が与えられてしかるべきことなんですよ?」
口答えさえさせてもらえず、だきすくめられた。熱を帯びた香りも、首元に流れる汗も、近くでよく見えた。心底不快であるものの、話を聞いてしまう。
「なのに、口を開けば妹や先生のことばかり。あなたはもっと、自分のために迷惑をかけてもいいんです。でなければ、崩れますよ」
「……もともと長生きする予定はない」
押しのけて服をはらう。
「くだんという妖怪を知ってますか?」
「未来を予知する人頭牛体のあやかし。しかし短命で予言すれば死ぬ。きみは違うでしょう」
「そうですね。わたしはいつなんて具体的なことを特定するための数遊びなんぞできません。わかるのは必然の連鎖だけです。でも、それが際限なく続くとしたら、いったいどれだけ救いのない未来を予知すれば終われるんでしょうね」
なにも知らなければ、やせ細る大衆と生き屍の大地を予見せずに済んだ。けがれた大地に倒れていく民衆を想像だにもしなかった。いまの地続きに確約されたものがなにか、知るというのは決して幸せなことじゃない。
惨々たる末をまえに、なにができるか。惨敗者でしかないのだから。
会長はついぞ閉口した。
そうだ。答えられるとしたら、それは神だ。会長にそこまでの傲慢さがないと知れて、ほっとするところがあった。
「いずれ耐えられなくなる。わたしが見てるのは、生の意味すら無化していくような必然ですから。だから放っておいてください。国の末まで見通してあげましたから、もうわたしの助けはいらないんですよ、会長」
「……わからずや」
ポシェットから取り出したのはリボルバーだった。こめかみに突き付けられる。
「残念だけどね。きみみたいな人は情報の爆弾庫みたいなものだから、放っておけないの」
「情報統制の一環ですか?」
「再三検討された結果よ。きみに恭順の意思がなければ、銃殺しろという」
「たしかに、社会なんてだれも全体像を把握していないものの、骨格を握ってるようなものですからね。体制側からすれば、さぞ都合の悪いことでしょう」
「……ごめんなさい。でもわかってたんでしょ? こうなることくらい」
予想しようと思えばできただろう。けれど、わたしはしなかった。疲れたんだ。
先生の髪をてぐしで整える。すると、焦点の合わない双眸にとらえられる。ここにないわたしを、形として捉えて離さない。思えば、もうずっと抜け殻のように生きてきたのだから新鮮なものだ。
「会長が、なぜわたしに執着するのか。簡単な話でしたから。純粋に知りすぎていること、脆すぎること。この二つがそろえばきっと、とは思ってました。先生もですか?」
「リスクヘッジが難しくてね。正気に戻らなければいずれの垂れ死ぬし、ついでにかな」
「そうですか。もういいですよ、さっさと終わらせてください」
音もなく、確かな衝撃を残してなにもかも消えた。
腐海に芽生えを ホノスズメ @rurunome
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