月が見えたわ
蓬葉 yomoginoha
月が見えたわ
ノスタルジーを感じるのは、過去を知る人間だけなんだ。
東京で暮らす双妹柚花はしたり顔で言う。
「ノスタルジーって何?」
「郷愁って意味だよ」
「……」
意味を聞いてもわからないなら、もう私の方が悪いんだろうか。
「ふるさとを思うって意味だけれど、当然ふるさとから隔たらないと分からない心情だよね」
それなら私にも理解できる。
「そうだね」
「だからみんなには、分からないね。この気持ちは」
電話が切れた。
「柚花……?」
それからしばらく柚花と連絡が取れなくなった。母がかけても父がかけても、妹の萌和がかけても、出てくれなくなった。
最寄り駅の駅メロが変わった。
柚花と学校に行くとき、ずっと聞いていた曲。何気ないメロディーだけれど、柚花は何故かこのメロディーが好きで、家でもよく口ずさんでいた。水の跳ねるようなこのメロディーに着想して、絵を描いたこともあった。青一色の、しずくの跳ぶ印象絵画に、彼女は「月」というタイトルをつけた。
「月なんてどこにもないじゃん。ルネ・マグリットみたいな言葉遊び?」
「タイトルも絵画の一部にしたいの」
「どういうこと?」
「月は心の中にあるでしょ?」
「うん。心の中どころか、見上げればそこにあるけど」
「この絵は、水を描いているけれど、タイトルが月だったら月を思い浮かべるでしょ。その月は多分綺麗でしょ?」
「うーん、まあそうだね」
丸い雫がはねている。あましずくなのだろうか、それとも、何かが水面に飛び入ってあらわれたひとしずくなのだろうか。あるいは……。
「……何?」
「月がきれいでしょ」
ニヤニヤしながら私を見る柚花。不快ではないけれど、腹が立つ。私と同じ顔でそんなやらしい笑みをうかべないでほしい。
「はっきり言って」
そういうと、柚花は突然私を抱きしめた。
「何?」
「柚麻ちゃんは引っかかりやすいなあ」
「何に」
「私の魔法に」
柚花は少し照れたような笑みになった。珍しい表情だ。柚花は普段こんな顔はしない。
「はずかしー」
手で顔をあおぎながら、柚花はどっかへ行ってしまった。
「なんなのよ」
私は絵を凝視しながら、呟いた。この絵は何を表しているんだろう。柚花はどんな心理でこれを描いたのだろう。考えても考えても、納得のいく解釈は出来なかった。
その絵は、いま私の部屋に飾ってある。
新しい駅メロはJ-POPのアレンジだった。明るいメロディなのに、どこか寂しく感じてしまう。思い出がひとつ消えた気がした。
「あっ」
私は思わず立ち止まる。柚花と連絡が取れなくなってから、ずっと痛む胸を抑えた。
「これが、ノスタルジー……?」
雑踏行き交う街。人々はこんなこと、気にもとめない。けれど、他愛もないことになにか意味を見いだした途端、それは大切な記憶になり、思い出になり、帰ってこない過去になる。その過去への追想こそ、ノスタルジーというのだろう。
夜の道を歩く。街灯まばらな道。クラゲのように光れたらどんなによかっただろう。
柚花の気持ちに思いを馳せる。
柚花は今年の春から一人、東京で暮らしている。自由奔放を地で行くような子だから、特に変とも思わなかった。少し前に、私の大切なおともだちについて話したときも特に変わった感じはなかった。
ノスタルジーとは無縁と、勝手に決めつけていた。
「さみしいならさみしいって、はっきりいえばいいのに」
柚花。あなた、強情だよ。弱い自分を見せたっていいじゃない。私がどれだけ弱いところを見せても受け止めてくれたように、私だってあなたを包み込める。
私が柚花に向ける気持ちも、ようやく少しわかった気がした。
空を見上げた。紺碧の空に秋の月が輝いている。なにか、はっと目覚めた感覚になる。スマホをとる。コール音。予感があったのかもしれない。柚花は、出てくれた。
「なに、柚麻ちゃん」
私は、自然と微笑んでいた。
「柚花」
「機嫌、よさそうだね。いいことあった?」
柚花はたぶん唇を小さく動かした。
「ううん」
「じゃあ、なんで」
「月が見えたわ」
「……え?」
「月が見えた。きれいな月」
「……」
「とてもきれい。輝いて見える」
「も、もういいよ。わかったから」
「きれい。きれい。とってもきれいな月」
「切るよもう」
「さみしいなら、言って。いつでも、お話するし、たまになら、会いに行ける」
電話の向こう、柚花は、沈黙している。
月がおぼろに雲に隠れる。
「柚麻ちゃんには、わかんないでしょ。柚麻ちゃんは、ひとりじゃないもん」
あれだけ輝いていた月光が、とたんに届かなくなる。私は、不安になる。電話を持つ手を、きゅっと握る。
「言いたいこと、はっきり言って」
こんなときにまで、自分を隠さないで。
「いやだ」
「……」
「気づいてよ。察してよ。考えてよ。見捨てないでよ。私とおんなじ、ひとりぼっちになってよ」
「柚花」
「私のことを……いや、いやだ。こんな、こんなこと言いたいんじゃない。ちがうの。柚麻、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。わたしが、選んだ道なのに。一人でって、あ、ああ、だめ、だめだ。ごめんなさい……おねがい、もう放っておいて」
電話の向こうで、救急車の音がした。不吉なその音が、瞬間、スマホの中から飛び出たかと錯覚するほど響く。私は辺りを見回す。
「柚花」
「ごめんね。私らしくないね」
声が震えている。
きっと、吐き出したくて、吐き出せない気持ち。それは、彼女のプライドだっただろうか。それとも、それを引き出すことを怠った私たちのせいなのだろうか。
いや違う。それは両方だ。お互い、歩み寄ったつもりでいて、足りなかったのだ。だから、彼女は自分でも困惑するくらい、摩耗した。私は一度深く瞬きをした。
「柚花」
柚花はうなだれたまま顔をあげない。
「曇った月も、きれいだなって思わない?」
隠れているからこそ、全部が見えないからこそ、そこに満月を私たちは見ることができる。――月は隈なきものをのみ見るかは。
不完全な月も美しい。いや、不完全だからこそ、美しい。完全なものなど、あとは衰えていくだけなのだから。
「曇ったり、欠けたりしたっていいじゃん。それでも柚花は柚花。私の大切な妹」
「……」
「曇った月は、また晴れるのを待ってるよ。欠けた月は、また満ちるのを待ってるよ」
「でも、満ちた月はまた欠ける。欠けて、誰からも見えなくなる」
「そういう月を新月と言うんでしょ。新しい月。新しい自分になれる」
「新しい、自分」
「柚花はひとりじゃないでしょ」
「でも」
「うん」
「……」
家の前に着いた。私は足を止める。もう電話のさなかに気づいていた。柚花は亡霊のようにうなだれて、ボサボサの髪をそのままに、門前に立ち尽くしていた。
「柚花」
「柚麻ちゃん」
月の瞳だ。
よかった。彼女の月はふたつとも、まだ濁らずそこにある。
「柚麻ちゃん……」
妹は、自信なさげに困惑した笑みを貼り付けた。しかしそれもすぐに震えて原形を保てなくなり、あたかも雪が融けるようにうずくまる。
私は駆け寄った。カバンをアスファルトにおいて、くたびれた妹を抱きしめ背を撫でる。
「もう、東京に、いたくないよ……」
「……ここにいればいい」
柚花はしばらく泣いた。彼女の孤独を、私はどう足掻いても分かってやれない。もどかしくて、吐き気がする。いつも己の道を走って、でも優しかった彼女は、私が目を離したばっかりに、こんなに萎れてしまった。
「月、これでも、まだ見える?」
柚花は潤んだ視線を私に向けた。彼女は見目麗しいお世辞など今は求めていない。本音だけを求めている。
ぎゅっと、固く柚花を抱きしめる。彼女の身体にしみついた絵の具の香りが久々に鼻腔をつついた。おしろいをほどこした、冬の気配がした。その先に、桜が見えた。
柚花は不安に薄桃色の唇を震わせている。
――いいよ。言葉はいらないよ。
私はそっと彼女の唇に人差し指を当てて頷いた。見捨てかけていた彼女に、一抹の申し訳なさを抱きつつ。
「綺麗に見えるわ」
柚花の双眸に、雪解け水が生温かく浮かんだ。
「月より綺麗よ」
月が見えたわ 蓬葉 yomoginoha @houtamiyasina
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