リコイル・アンド・ウィッチクラフト
安曇みなみ
*
1928年、春。
音、匂い、色彩、手触り──戦争はそんな感覚の全てをヤヌシュから奪い去っていった。
第一次世界大戦という名の巨大な挽肉機から辛うじて生還した彼は、ポーランド東部の片隅、ヴィスワ川東岸の深い森で、狙撃兵だった過去を静かに埋葬しようとしていた。彼は32歳にして、人生の残りの季節を、ただ静かにやり過ごすと決めていた。
そんな彼に色彩を取り戻させたのは、4年前の春に森で拾った少女、アーニャだった。泣きもせず、ただ空を見ていた銀髪の幼児。傍らには、まるで人間の子どもを守るかのように寄り添う狼の亡骸があった。そこは昔から「魔女の集会場」と恐れられ誰も寄りつかない場所だった。
彼はその出会いに一つの天啓を感じ取った。それはまるで、戦場で奪ってきた命、救えなかった命への贖罪の機会のように思えたのだ。ヤヌシュは産着に刺繍された「アーニャ」という名だけを頼りに、その子を育てることした。
彼女は、驚くほど健やかに育ち、ヤヌシュの無骨な小屋に陽光のような笑い声と、尽きることのない問いかけをもたらした。
「ヤヌウ! どうして木の葉っぱは落ちるの?」
ある秋の日、アーニャが庭の樫の木を見上げながら尋ねた。ヤヌウというのはいつの間にか決まっていた彼の愛称だ。7歳ほどになった彼女の銀髪が、黄金色の落ち葉と太陽を反射してきらきらと光る。
「冬が来るからね。木も眠るんだよ」
ライフルの手入れをしながら、ヤヌシュはやさしく答える。
「ううん、そうじゃなくて。葉っぱの付け根に『さよなら』の線ができて、くっつく力が弱くなるような気がするよ? お日さまの光が短くなって、葉っぱを元気にするチカラが足りなくなるーって葉っぱがいってるの」
ヤヌシュは顔を上げ、きょとんとした。どこで覚えたのだろう? 薪の焚き付けにと市場でただ同然に引き取った束の中には、植物の本もあったかもしれないが。
不思議なことは度々あった。例えばヤヌシュが狩りの手ほどきをしようとした時のことだ。
「いいかアーニャ。風を読むんだ。頬で風を感じ、草のそよぎを見る。弾道は風に流される」
彼はそう言って、200メートル先の的を指差す。
アーニャは小首を傾げながら、答えた。
「地球がぐるぐる回るせいで、ちょっとだけ横にずれちゃう力と、空気が『どいて』って押してくる力を考えるの? 空気のしめり気と温度だと、たまの速さから計算して……だいたい、このくらい曲がっちゃうはずってみんながいってる」
彼女が示したポイントは、ヤヌシュが何千発もの弾丸を撃ち込むことで血肉に刻み込んだ狙点と、恐ろしいほどに一致していた。観測手も風速計もなしに。ヤヌシュは唖然として言葉を失った。
「どうしたのヤヌウ? あ、そうか。ここの緯度だとコリオリ偏差はこれくらいだし、弾体の回転モーメントから生じるスピンドリフトもあるから、もうちょっとずらした方がいいかなあ」
ヤヌシュはため息をつき、教えることは何もない、と悟った。彼は彼女の非凡な知性と直観について、あまり考えないようにしていた。そうでなければ、この静かな生活がどこか別の場所へ流されていってしまうような、漠然とした不安があったのだ。
月日は流れ、アーニャは森の木々のようにしなやかに、そして美しく成長した。その銀髪は輝きを増し、瞳は夜の湖のように深い知性をたたえていた。そして、村の知識人である老神父を通じてワルシャワ大学の教授と手紙を交わすようになると、とうとうその才能が露わになる。特別推薦による大学の合格通知が届いたのは、彼女が16歳になった春、雪解けの知らせと同時だった。
駅のホームで、ヤヌシュは何も言えなかった。ただ、硬いパンと干し肉、なけなしの金を詰め込んだ鞄を彼女に手渡した。
「ヤヌウ、きっとすぐに戻るわ。長いお休みには必ず」
汽車がゆっくりと動き出す。窓から身を乗り出すアーニャの姿が、みるみる小さくなっていく。ヤヌシュは遠ざかる銀髪が見えなくなるまで、ただ真っ直ぐに立ち尽くしていた。
小屋に戻ると、がらんとした静寂が彼を迎えた。アーニャを拾う前の、彼が自ら望んだはずの静けさ。しかし今、それは空虚で、自分が空っぽになってしまったかのようだった。あの日、救われたのは彼のほうだったのだ。
****
1944年、冬。
世界は再び巨大な挽肉機と化していた。ポーランドの地は引き裂かれ、彼の穏やかな隠遁生活は、新たな戦争によって無残に終わりを告げた。
ドイツ軍の一個小隊が、彼の住む村を支配し、殲滅せんとしていた。
52歳になったヤヌシュは、教会の墓石を盾に掘られた浅い塹壕の中、じっと身を伏せていた。凍てついた土、そして煙の匂い。彼の背後にある石造りの教会には、女子供を含む十数人の村人たちが息を殺している。逃げ遅れてしまったのだ。
一度目の戦争では、あまりに多くのものを見過ごし、取りこぼした。今度こそ守り抜かなければ、と彼は強く決意する。それは、自らに課した最期の戦いだった。
だが、もう限界だった。脇腹に受けた弾丸が、体温と命を容赦なく奪っていく。塹壕の雪を赤黒く汚す染みは、命の残量が減っていくのを冷徹に示していた。
朦朧とした意識の中で、彼はライフルのスコープを覗く。
雪原を慎重に前進してくる兵士たちの軍服。
──その手前に、幻覚が見えた。
銀色の髪。16歳の頃の、あのアーニャの姿が、戦場のまっただ中に凛として立っていたのだ。
「はは、そうか。俺もとうとうおしまいか」
ヤヌシュは自嘲の笑みを漏らした。アーニャのような少女は、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
しかしそれは幻覚ではなかった。
ドイツ兵たちがその異常な存在に気づき、一斉に銃口を向ける。号令と共に火線がアーニャに集中する瞬間をヤヌシュは見た。しかし、銃弾は彼女に届く寸前で、まるで見えない壁に当たったかのように弾け、運動エネルギーを失ってぽとぽとと雪の上に落ちていく。
アーニャは静かに、しかし戦場に響き渡る明瞭な声で呟いた。かつての少女らしい口調とはまるで異なった、理路整然と神託を下すような威厳をもった声。それが戦場に響き渡った。
「事象の地平面を局所展開。シュワルツシルト半径をプランク長以下に限定し、因果律の指向性を反転させる」
次の瞬間、兵士たちが放った銃弾が、まるで時間を逆行するように彼ら自身へと殺到した。悲鳴を上げる間もなく、兵士たちは自らの弾丸によって雪原に沈んだ。
後方から放たれた迫撃砲が、甲高い飛翔音を立ててアーニャの頭上へ迫る。
「リーマン多様体における測地線方程式を再定義。空間の曲率テンソルに虚数項を代入し、任意のベクトルをヌル化する」
アーニャがそう唱えると、砲弾は突如として落下軌道を逸れ、あらぬ方向の空へと吸い込まれるように消えていった。まるで重力が反転し、世界が逆さまになったかのようだ。
やがて、地響きと共に最後の脅威、ティーガー戦車が姿を現した。その鋼鉄の巨体は、絶望の象徴そのものだ。
ヤヌシュの位置は既に捕捉されてしまっている。が、狙いは彼ではなかった。戦車の主砲は、アーニャに向けられている。
「だめだ! アーニャ! 逃げろ!」
ヤヌシュは塹壕から飛び出し、注意を自分に引きつけようとする。
「最終工程へ。ゲージ理論に基づく相互作用項の位相変換を完了。対象の構成原子核における、強い相互作用の結合定数を境界値ゼロに収束させる」
彼女が言い終えると、巨大な戦車は砂の城が崩れるように、音もなくさらさらとその場に崩れ落ち、灰色の金属の粒子となって風に吹かれて消えていった。
「M-Hexe……!(ま、魔女……!)」
誰かが叫ぶのが皮切りになった。鋼の規律は、人知を超えた存在の前で脆くも崩れ去る。兵士たちは武器を捨て、赤子のように泣き叫びながら、我先にと雪原の闇へと逃げ込んでいった。
あっけないほどの戦闘の終焉だった。アーニャはゆっくりと振り返り、ヤヌシュへと歩み寄る。彼女の姿は、8年前と何一つ変わっていなかった。
「アーニャ……なのか?」
ヤヌシュはかすれる声で尋ねた。
「ええ、ヤヌウ。遅くなってごめんなさい」
彼女は彼のそばに膝をつくと、その冷たい手をヤヌシュの脇腹の傷に当てた。
「ひどい怪我。もう時間がない」
彼女の瞳が悲しげに揺れる。
「ごめんなさい。もうこうしないと手遅れなの」
アーニャの手から、温かい光が溢れ出した。銃弾に引き裂かれた肉が再生し、おびただしい出血で失われたはずの熱が、急速にヤヌシュの体に戻ってくる。傷が癒える。しかし、それだけではなかった。
彼の体に、奇妙な感覚が広がっていく。長年の戦闘で刻まれた体の傷や顔の皺が薄れ、白髪交じりの髪が黒々と色を取り戻していく。薄れゆく意識の向こうで、戦争の記憶が、狙撃手としての技術が、アーニャと過ごした20年間の愛情と孤独の記憶が、遠い風景のように霞んでいく。まるで、古いフィルムが光に焼かれて白く消えていくように。
やがて彼の体は、4歳ほどの子どもの姿に戻っていた。瞳から老獪な兵士の光は消え、無垢な好奇心がきらめいている。少年は目の前にいる美しい銀髪の少女を、不思議そうに見上げた。
「……おねえちゃん、だれ?」
アーニャは、小さくなった彼の手を優しく握りしめる。その手にはもう、血や硝煙の匂いも、苦悩の翳りもなかった。ただの温かい子供の手だった。
「そうね。ヤヌウ、あなたのお母さんかな?」
彼女は立ち上がり、少年を優しく抱き上げる。そして雪原の向こう、森へと歩き出した。
「さあ、行きましょう。今日は24年ぶりに魔女の集会があるの」
雪が激しく降り出している。純白の雪の上に森へと続く足跡が作られ、そして瞬く間に消えていった。
リコイル・アンド・ウィッチクラフト 安曇みなみ @pixbitpoi
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