灰を抱いた魔女

白蛇

灰を抱いた魔女

 その夜、月が裂けていた。まるで贖罪がすべてを別つように。黒い天蓋に白銀の光が縫い目のように滲む夜、森は焦げた紙のように沈淪していた。風は吹かず、木々は祈祷めいて佇み、枝の先から灰雪を降らせていた。雪に似て、けれどそれは冷たくなかった。命の残り火のように音もなく降り積もっていく。


 魔女はその中を歩いていた。杖の先に灯る微かな燐光が白い闇を裂く。彼女の足跡はすぐに灰に埋もれ、まるで誰も通らなかったように消えた。夜はすべての音を呑み込み、ただ月の裂け目だけが光を零していた。


 その沈黙の奥から泣き声がした。人の、赤子の泣き声。凍てた大地に似つかわしくない、あまりに脆い音。

 魔女は足を止めた。眼差しが闇を彷徨い、やがて朽ちた切株の傍に小さな影を見つける。それは古びた布に包まれた子。灰にまみれ、唇は紫に染まり、胸は微かに上下していた。


「……この森に人が訪れるなんて、もう何年ぶりだろうね」

 その声に感情は滲まず、ただ空に裂けた月を見上げ、その光の下で立ち尽くしていた。肌を撫でる空気は死の匂いを孕み、冷たさだけが残っていた。それでも子の掌が微かに動いた。指先が彼女の裾を掴み、その熱は火傷のように肌を焦がした。


「泣くな。どうせ、すぐに消える命だ」

 そう言いながらも、魔女はしゃがみ込み、震える腕でその子を抱き上げた。骨と皮ばかりの命が、胸の中で震えている。唇から洩れる息は白く、弱い。


 森は何も語らなかった。灰が降りしきる中、魔女はその子を抱いたまま歩き出す。その腕の中で泣き声は次第に細くなり、やがて途切れた。代わりに、浅く、途切れ途切れの呼吸が重なっていた。


 魔女は、人を愛してはいけない。愛すれば、呪われる。月が裂けた夜に生まれたものは常に禁忌であった。

 それを知っていながら、彼女は目を閉じる。灰の中に灯る温もりが、胸臆を密やかに灼いていた。かつて同じ戒めを、母から耳朶が裂けるほど聞かされていた。愛したものは皆、先に死んでいく。月が裂けた夜には、死と生の境が裏返るとも。それでも腕の中の重みだけは、あのとき捨て損ねた悔いと同じ形をしていた。


 小屋に戻ると、炉の火はまだ僅かに赤く息づいていた。魔女はその子を毛布に包み、灰の舞う外を一度だけ振り返る。煤けた梁からは乾いた薬草の束が幾つも吊るされ、割れた陶椀には煎じ残しの黒い湯がこびりついている。長く誰も訪れぬ場所にだけ、微かな体温と生活の臭いが滞っていた。

 夜の森は凍りついたまま動かない。外界は既に息を引き取り、この小屋だけが、遅れて腐る心臓のように取り残されていた。


 湯を沸かし、砕いた薬草を煎じて子の唇に垂らす。青白い顔に血の気はなく、息は浅く途切れがちだったが、喉が動き、微かな音が洩れた。泣きではなく、命脈の応えのように。

 魔女は指先で子の頬をなぞる。その肌は柔らかく、冷えた陶器のように脆い。この小さな肉の塊に、どれほどの魂が宿っているのか判じ得なかった。炉の火がぱちりと音を立て、灰が舞い、一片が子の額へ落ちた。魔女はその灰を指で拭い、思わず囁く。

「……まだ、死なせはしないよ」

 誰に向けた言葉でもない。けれどその夜から彼女の暮らしは変わった。


 朝が来る度、森の光は白く濁り、生が臭う。魔女は子を抱いて薬湯を調え、雨の日も風の日も、炉の傍で歌を口遊むようになった。子は泣かず、ただ静かに目を開いて彼女を見据えていた。


 やがて季節が二度巡った。灰の降る森に降り積もるのは、ただ死ばかりだった。子は自ら立ち上がり、炉の灰を集めて火を起こすことを覚えた。

 炉の外で、灰を割って小さな芽が伸びていた。色は白く、葉脈は透け、風に触れずとも揺れる。それは命のようでいて、どこか死の余熱に似て。芽の周りだけ、灰が泥濘みのように湿り、埋もれていた獣骨が音もなく露わになる。芽吹きとともに、何かが静かに失われていた。

 魔女はしばらくその芽を凝視し、指先で灰を払った。滅びの森の奥で、命がひとつ息づいていた。風も灰も識らぬ春が、間違って森に訪れた。灰がまた一筋、彼女の手の甲に落ちた。


「おまえ、名がないね」

「……な、が」

 初めて発した言葉は拙く、けれど確かに生の響きを持っていた。魔女の胸裏に疼きが走った。

「そう。名だよ。名を持たぬ者は風と同じだ。吹けば霧散し、触れられぬ」

 少し考えて、魔女は空を仰いだ。その日は珍しく灰が降らず、裂けた月の傷も淡く閉じかけていた。


「おまえは……命の芽、そう、バドと呼ぼう」


 子はその音を何度か真似て、小さく笑った。魔女はその笑みに、言いようのない痛みを覚えた。祝福の面を被った呪いが、腕の中で温もりを持ち始めている。呪われる前に、先に名という縄を掛けたのは自分だ、と彼女は気付いていた。それでも口は、あの柔い音節を手放せなかった。

 子は目を閉じたまま微かに笑んだ。炉の火がまたひとつ爆ぜ、灰が宙に舞い上がる。それが彼女の裡に沈んだ。


 ある夜、眠るバドの頬に触れながら、魔女は呟いた。

「生きることは、灰を抱くことに似ているわね」

 彼は澄んだ子に育った。傷ついた獣を拾い、薬を煎じ、魔女の手伝いを好んだ。けれど十五を過ぎたあたりから、魔女の背に向ける眼差しが変わった。静かな炎のように、濡れた闇のように、沈んだ狂気を孕んでいる。それは憐れみでも崇拝でもなく、生き死にすら自分の掌に収めようとする者の視線だった。


「先生、貴女の呪は、どうすれば俺にもできる?」

「それは、誰かを壊す力だ」

「なら、俺は貴女の終わりを壊したい。誰にも奪わせないために」


 ある夜、魔女はふと気づいた。炉の灯が揺らめく度、彼の呼ぶ「貴女」という声が、かつて「バド」と名を授けたときと同じ、命を縛る響きを帯びていることに。そして胸の奥に疼いた。あの名を授けなければ、呪われずに済んだのではないかと。

 その思いは唇に出ることはなかったが、彼はそれを見抜いたように、翌日から森へ出ることが増えた。


 ある夕暮れ、バドはひとりの子を連れて戻ってきたことがあった。灰を吸いこんだように褪せた衣をまとい、痩せた腕を掴まれたまま、その子はなにも言わず、森の奥を振り返っていた。裸足の足裏が戸口の敷板に淡い灰を押しつけ、指の跡だけがじわりと滲んでいく。眼窩だけがやけに大きく、まだ煙の匂いの残る方角を、帰る家を探すように彷徨っていた。

「この子にも、薬を」

 そう告げる声は穏やかだったが、その掌には既に血が乾いていた。煤の膜を貼りつかせたような暗い赤であることに気づき、魔女は指先が強ばるのを自覚した。「どこから連れてきたの」と問う言葉は喉まで上りながら、声にはならない。

 魔女が躊躇いを滲ませた刹那、森から名を呼ぶ声が微かに響いた。枝葉に吸われ、砕かれながら、それでも確かに誰かの子を呼ぶ声だった。その呼び声が、この小さな背中に向けられていると悟ったときには、振り返ってももう誰の姿もない。


 その夜、バドは炉のそばで丸くなり、拾ってきた獣と変わらぬ寝息を立てていた。魔女は棚の奥から、かつて獣の喉を断つのに用いた古い刃物を取り出した。錆に縁どられた刃が、火の明かりを鈍く弾く。

 静まり返った小屋の中を、寝息だけが細く満たしている。その音に導かれるように、魔女はそっと膝をつき、眠るバドの喉元へ刃を運んだ。喉の線は、名を授けた夜に自ら呼んだ音節の軌跡と同じ形をしていた。


 一度押し下げれば、この森のどこかで、まだやり直せるのかもしれない——そう思うほどに、指先は冷え、刃の重みばかりが際立っていく。薄い皮膚の上に、鋼の縁が微かに触れた。浅い寝息が刃に当たり、僅かに曇りを生む。

 けれど、肌を割るほどの力はどうしても籠もらなかった。震え出したのは刃ではなく、自分の指のほうだった。やがて魔女は息を吐き、刃を膝の上に落とした。金属が布越しに鈍い音を立てる。その音にも、バドは目を覚まさなかった。

 夜が更けるにつれ、炉の火は細り、刃は再び鞘へ戻された。殺すべきと知りながら殺さなかった事実だけが、灰のように胸の底へ積もっていった。


 戻る度に彼の掌は血で濡れ、目は静かに乾いていった。手にした獲物はより大きく、より静かになっていった。彼の足跡のあとには、決まって白い芽が群れていた。やがて獣が減り、人の子が消えた。夜風が動く度、遠くで誰かの名を呼ぶ声がした。けれど、その声が届く場所には、もう何も残されてはいなかった。


 ある夜、小屋の戸口の向こうで、一羽だけ残った鳥が短く啼いた。凍りついた枝を震わせたその声は、それきり途絶えた。

 翌朝、梢には羽根の欠片と白い芽ばかりがこびりついていた。


 森は日に日に、音をひとつずつ手放していった。風は途絶え、鳥は歌をやめ、夜の奥で何かが名を失っていく音がした。この子を抱き上げた夜から、終わりはもう始まっていたのだと、彼女は遅まきに理解した。


 あの夜、喉元に刃を当ててからというもの、森の奥へ置き去りにする光景を心の中で幾度も思い描いた。戸口の閂に手を掛け、名を呼ぶのをやめる自分の姿を想像するだけで、指先はすぐに力を失った。実際に彼を捨てることは、一度としてできなかった。


 そして——十年。

 彼は魔女よりも背が高く、肩幅が広く、声が低くなっていた。人ではなく、何か別のもののように。


「先生、いくつになっても美しい」

「……ええ。でももう長くはないでしょうね……」

「そんなことはないさ、俺がいるからね」


「やめなさい。それは——」

 言葉を継ぐ前に、彼が差し出した杯の縁が唇に触れた。薬湯にも似て、どこか鉄の味が舌に沁む。あの名は、やはりここへ戻ってきたのだと、微かに思った。

「貴女が醜く死んでいくのを見たくないだけ。ただ——生きていてほしい」


 胸の奥で、何かがひとつ鈍く沈んだきり、二度と浮かび上がってこなかった。心臓は止まり、血は冷えていく。それでも胸郭だけが惰性のように上下を繰り返し、空気を押し出す度、喉から微かな息の音だけが漏れた。

 冷えきった胸郭の内側で、名ばかりの鼓動がどこか遠くで鳴っている。生きることも死ぬことも許されず、灰のような意識だけが、彼の腕の温もりにしがみつく。腐敗の代わりに血より甘い花の香を、彼の腕の中に漂わせながら。


 掌で彼女の胸を撫で、喉元に自身の血を塗りつけ、その上から薬草を擦り込む。傷を癒やす手当のようでいて、死を拒む呪印を描いているようでもあった。指先で彼女の肌に刻まれた紋様をなぞり、冷えた胸に掌を押し当て、脈のないところに鼓動を探すように名を呼ぶ。

 薬草の乾いた芳香と、まだ温みを残す血の鉄臭とが、ゆっくりと絡み合って空気を染めていく。窓もない狭い部屋の隅々まで、その混じり物の香が沁み込み、内側から塗りこめられたように、花と鉄の匂いだけが充ちていた。


「貴女はいつまでも美しい。俺がいる限り、何度でも蘇る」

「どうか、俺を置いて逝かないでくれ。貴女の死骸さえ、俺のものにさせてほしい」

 魔女の瞳はもう光を映さない。だがその表情の中に、終末そのものの静寂が宿っていた。


 炉の外ではあの白い芽が再び灰に還っていた。月は再び裂け、灰雪が降り、森界が息絶えていく。それでも、春はまだ死に切らず、この家の中で形を変えて息を潜めていると、彼女は朧に悟った。

 彼の腕の中で、一欠片の灰が——まだ、脈打っていた。

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