赤い糸

をはち

赤い糸

久保直之は目覚めた瞬間、息を呑んだ。


左手の小指に、赤い糸が絡みついていた。


いや、糸ではない。


それはまるで生き物のように脈動し、皮膚に食い込むように締め付けていた。


冷や汗が背筋を滑り落ち、彼は思わずその異物を引きちぎろうとしたが、


糸はまるで意思を持っているかのように、さらに強く巻きついた。


直之の人生は、すでに崩壊していた。


二年間連れ添った女に裏切られ、貯金を根こそぎ奪われた挙句、別れ際に吐き捨てられた言葉が彼の心を抉った。


「五年は持つと思ったのに。金もないくせに女と付き合うなんて考えるなよ。


若い時間が台無しだ。訴えられないだけマシだと思え。」


その言葉は毒のように彼の心に染みつき、抜けきれなかった。


騙されていたという事実と、捨てられた屈辱に耐えきれず、直之は生活を投げ出した。


仕事も、住処も、未来への希望も捨て、ただ放浪するだけの抜け殻となった。


死にたいという衝動と、生きねばならないという本能が奇妙な均衡を保ち、彼を無気力な生へと縛りつけていた。


そんな彼が、ある夜、夢を見た。


黒い鳥居が無数に連なる、薄暗い森。


その奥に、真っ赤な稲荷の祠が不気味に鎮座していた。


森は生きているかのようにざわめき、どこからか低いうなり声が響く。


「いらぬなら、儂にくれりょ」と、誰かが囁いた。


直之はただ頷くしかなかった。


目覚めたとき、彼は見知らぬ石の階段の途中にいた。


苔むした石は冷たく、湿った空気が肺にまとわりつく。


指の赤い糸――いや、それはもはや血管のように太く、弾力を持って脈打っていた。


まるで生き物の心臓とつながっているかのように、一定のリズムで蠢き、彼をどこかへ導こうとしている。


「こっちにこい」と囁くような、得体の知れない誘惑。


直之は立ち上がり、よろめきながら石段を登った。


視界の先に、夢で見た黒い鳥居が現れた。


漆黒の柱は不自然に光を吸い込み、周囲の空気を重くしていた。


彼は吸い寄せられるように鳥居をくぐった。


足元で落ち葉が砕ける音がやけに大きく響き、背後で何かが動く気配を感じたが、振り返る勇気はなかった。


鳥居を抜けた先、森の奥に赤い着物をまとった女が立っていた。


長い黒髪が風もないのに揺れ、吊り上がった目は底知れぬ闇を湛えていた。


彼女の小指から、赤い血管のような糸が伸び、直之の指と繋がっている。


その糸は生き物のようにうねり、彼女の心臓の鼓動と共鳴しているかのようだった。


「ようやく来たね」と、女は囁いた。


声は甘美でありながら、どこか冷たく、骨の髄まで凍りつかせる。


「お前の絶望、儂にくれりょ。いらぬものなら、全部儂が食ってやる。」


直之は動けなかった。


恐怖と、なぜか抗えない魅惑が彼を縛った。


女が一歩近づくたび、赤い糸がさらに強く脈打ち、彼の心臓を締め上げる。


彼女の唇が不気味に微笑むと、森全体が息を潜め、まるで時間が止まったかのようだった。


「お前はもう、儂の一部だ。」


女の手が直之の頬に触れた瞬間、赤い糸が一気に彼の腕を這い上がり、胸へと侵入した。


心臓が締め付けられ、視界が赤く染まる。


彼は叫ぼうとしたが、声は出なかった。


代わりに、女の笑い声が森に響き渡った。


それは人間のものではなく、まるで古の獣が喉を鳴らすような、底知れぬ恐怖の音だった。


直之の意識は薄れ、赤い脈動に飲み込まれていく。


彼が最後に見たのは、女の吊り目が不気味に輝き、森の奥で赤い稲荷の祠が脈打つように揺れている光景だった。


そして、森は再び静寂に包まれた。


黒い鳥居の間を、赤い糸だけが次なる来客を求め、静かに漂っていた――。



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赤い糸 をはち @kaginoo8

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