第11話


 帰り道。多くのことを考えていた。

 職場は遠いから、引っ越すべきだろう。

 叔母にも、感謝の気持ちを伝えなくちゃ。

 そうだ、あの大量のゲームを全部持っていくことはできない。彼女を通じて仲良くなった友人に、いくつか譲ろうか。

 1年前は、未来のことなんて、考えなかった。

 日々をだらだら過ごす引きこもりで、大学に行く気もなく、働こうともせず、叔母に迷惑をかけ続けていた。

 優しい叔母は、両親を失った自分に気をかけてくれていたけれど、その陰で、私をどうにかしようとしていることを知っていた。

 だけど、私は変われた。

 自分自身で、鏡写しの、逆さまな彼女のおかげで。

 私は、変わった。

 そのお礼を早く、伝えたかった。焦る気持ちで鍵を取り出して、家にたどり着くやいなや扉を勢いよくあけた。

 ただいま!

 長らく口にできなかったその単語を、思い出したかのように叫んだ。

 そんな私を出迎えた、彼女は、微笑む。

 あぁ、この笑顔が好きだ。ずっと塞がれていた記憶の、奥底に眠っていた、母の笑顔。

「どうだった?」

 たった一言の問いかけ。父も、そうだった。小学生のころ、仕事が忙しくて、運動会には来られなかったけれど、夕食のときには、こうして結果を聞いてくれた。

 全部、全部、溢れてくる。もう帰ってこない。取り戻せない、大好きが。

 だけど今、手を伸ばせば、届く距離にある。私の大好きが。

 だから私は、笑顔で答えた。

 バッチリだったよ。もう、大丈夫。

 自分の顔を、鏡で見れば、きっと彼女そっくりの微笑みを浮かべているだろう。見なくても、わかる。

 それに、微笑みだけじゃない。

 私は、左目から。彼女は、右目から。

 しずくがこぼれて、音を立てて弾ける。

「そっか。……よかった。よく頑張ったよ。礼」

 ありがとう。礼。……今なら、言える。恥ずかしいけれど、ナルシストみたいだけど。――大好きだ。

「ふふっ、私も!!」

 最後の2人は、真逆の顔をしていた。

 彼女は、眩しく笑っていた。大粒の涙を振り払うように、せいせいしたと、言わんばかりに。

 私は、泣きじゃくった。

 結局のところ、甘えたかったのは、私のほうだ。私が消えてほしくないと願ったから、彼女の顔が曇ったのだ。

 みっともない。あれほど、綺麗に終わらせようとしたのに、これじゃあ締まりが悪い。

「けど、終わったらダメだから、君はまた笑うんだ。明日から、また1歩を踏み出すために」

 そう言う彼女が、眩しく発光した。ように見えたのは、錯覚だ。

 窓から入った光を、あの姿見が反射した。

 その輝きに目を伏せた私の耳に、小さく届く音。

 ぱりん。ざらざらざら。

 ちかちかと、痛みを覚える目に写るのは、さっぱりとした、いつもの自分の部屋。

 彼女の痕跡は無く、今度こそ、本当に砕けたガラスの欠片だけが、西日を照り返して、部屋を明るく染める。

 その欠片をひとつ、つまみ上げる。そして、声を上げて笑う。

 まさか、たまたま拾った欠片が、こんな形をしているなんて、誰が思うのだろうか。

 けれど、これは何よりのお守りだ。幸運をもたらして、自分を変えてくれる。

 割れてなお、その役割を果たす鏡に写る自分の顔は、晴れやかだった。

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