フィーの穴
朝本箍
フィーの穴
水耕栽培をしているフィカス・ウンベラータの葉に、小さな穴が空いていることに気がついた。葉の中央よりやや左側、葉脈を避けるように空いた穴は小さいものの、縁が茶と黄に変色している。
朝食の合間に『フィカス・ウンベラータ 葉の穴』と検索すると、葉焼け、擦れた際に出来た傷、などそれらしい原因がいくつも出てきた。
つい先日も同じような回答を見た気がして眉間に皺を寄せた時、湯沸かし器の完了音が鳴る。コーヒーを淹れながら思い出したのは、パキラだった。
窓辺に置かれたいくつかの鉢、その中でフィカス・ウンベラータの隣にあるのがわたしが実家から持ってきたパキラだ。三つの大きな葉、そのうちのひとつが黄色く変色してしまい検索したことを思い出す。その時も葉焼けや水不足、もしくは根腐れなどそれらしい回答が並び、あれこれと試しているうちに一枚が枯れてしまった。
マグカップを片手にパキラの様子を伺うと、特に変化はない。他の葉はまだ艶のある緑色をしていた。アキラはまだパキラの葉が欠けたこと、フィカス・ウンベラータに穴が空いたことを知らない。
「めぐみと私、子供は持てないからこの子達を育てよう」
映画館横の雑貨屋にあったフィカス・ウンベラータを購入した時、アキラは嬉しそうにそう言っていた。
まったく方法がない訳ではないらしいが、同じ性別のわたし達が子供を持つのは確かに難しい。だからと言って植物を子供扱いするのは違うような気もしたが、アキラの笑顔に水を差してまで主張することでもないので黙っていた。そもそもアキラがいればそれでいいのに。あれはいつだった?
クーラーの冷風が当たらないよう、レースカーテンの内側に鉢を移動させる。パキラは植え替えも良くなかったのかもしれないが土の表面にまで根が出、明らかに根詰まりを起こしていた。アキラは水分管理はしていたが細かなところまでは見ていなかったのかもしれない。もしくはわたしが持ってきたので自分の管轄外だと思っていたのか。フィカス・ウンベラータの鉢は小さく、片手でも移動できる。
ここへ越して来たのは四年前の初夏、わたしの誕生日の翌日だった。誕生日祝いと引っ越し祝いを兼ね、少し遠出をして本格的窯焼きのピザを食べた。アキラは新しいものや流行りのもの、珍しいものが好きで、わたしはいつまでも変わらない安心できるものが好きだが、主張するよりもアキラの笑顔を見ている方がより好きだった。
そう、好きだった。コーヒーを飲み干し、マグカップをシンクに置いて目を閉じる。別に意味はない。ただ、何も見たくないという気持ちに従っただけだ。在宅勤務だとしても出勤の打刻はしなくてはならない、今日は朝イチで会議がある、来週母の通院に付き添うために有給を申請しなくては、朝起きた時に考えていたことがどんどん遠ざかる。
アキラがこの部屋へ戻らないことが増えたのは年が明け、少し経った頃だった。
最初は年度末に向け仕事が忙しくなってきたという話で、職場近くのビジネスホテルや友人の家に泊まっていたらしい。友人宅のベッドに寝転んで「おやすみ」の言葉と共に送られてきた写真はどれも、疲れていながらも笑顔だった。
家賃と食費の折半は変わらず、顔を合わせた時に渡されるか、共通の口座に問題なく振り込まれていた。わたしは何が始まったのか聞かなかった。疲れていたのだ。母の体調が良くなく父から手伝って欲しいと連絡がきていた、副業でやっていたシナリオライターの仕事で取引先がひとつ減った、そんなことが重なっていた。
そして何よりも、聞いたことで決定的になることが怖かった。家賃も食費も折半しているからこの生活水準を保っていられることを、わたしは嫌と言うほど知っている。
大学の入学金三十万、四年間の学費四百八十万、計五百十万円の奨学金。月々の返済額は約二万五千円で返済完了まで十年は残っていた。そんな中新卒での就職先をうつ病で退職し、何とか契約社員で就職できたものの手取りは以前に比べて遥かに減っている。
アキラは、気にすることないよと笑ってくれた。わたしが奨学金を借りることになった時も、うつ病と診断された時も、契約社員にしかなれなかった時も。
「めぐみはそのままで大丈夫。私がいるから」
ふたりでずっと幸せに暮らそう。
アキラの口癖だった言葉が聞こえた気がして目を開けたが、キッチンにはわたししかない。すぐ向かい側にあるリビングへは弱い光が差し込み、フィカス・ウンベラータの影が淡くレースカーテンに映っている。穴どころか輪郭が朧げなそれは今にも枯れて消えてしまいそうだ。
出勤時間の九時を過ぎている。今からでもパソコンを立ち上げ、打刻をしてから上司に詫びを入れ、何食わぬ顔で会議に参加すればいい、そうするのが最善でなくとも最悪ではない。
わかっているのに、わたしはリビングの窓辺へ戻り、レースカーテンに頭を突っ込んでフィカス・ウンベラータの葉をもう一度しげしげと眺めた。小さな穴。
アキラは先月遂に二回しか部屋へ戻ってこなかった。家賃は半額振り込まれていたが食費については入金がなかった。
「いくら使ったのかわからなかったから」
そう話しながらアキラはわたしから目を逸らしていた。
「同じだよ、先月と同じ。今月も」
わたしの言葉に目を見開いたのは物価高の中、同棲を始めた当初に決めた金額を維持しているから、だったらどんなに良かったろう。
「……ひとりで?」
と続けられた言葉が期待を粉砕した。
「ふたり分作ってるから」
アキラが居ないことはイレギュラーで、特に連絡もなければいつも食事はわたしが用意することになっている。そんな当たり前のことも忘れたのだろうか。心配しながらも黙り込むわたしを半ば呆れるような目で見、アキラはまた部屋を出ていった。
子供だと言い、水の交換に気を配っていたフィカス・ウンベラータのことは一度も見なかった。フィカス・ウンベラータをフィーと呼ぶ声は思い出せるのに、笑顔はレースカーテン越しのように曖昧だ。
「フィー」
アキラが呼んでいたように呼びかけてみる。
いくつもついた葉はどれも大きく青々としているので、余計に穴が目立つ。葉焼けか、傷か。植物は痛みを感じるだろうか。どこからか、電子音が聞こえる。出勤していないことが上司にバレたのだろう。テーブルの上でスマートフォンが振動し、アプリの通知を知らせてと大忙しだ。
着信を拒否し、アプリの通知は未読のまま検索画面を立ち上げる。『植物 痛み』と検索すると先ほどフィカス・ウンベラータについて検索した時よりも雑多で多くの情報が氾濫していた。見出しだけを斜め読みすると、外傷を伝える仕組みは備わっているが痛みを感じているかはまだわからない、らしい。
関連には『植物 悲鳴』という単語もあり、そこには植物は水分不足の時などに、人間には聞こえない周波数の音を出しているとある。フィカス・ウンベラータ、フィーの立派な幹を掴んで水耕栽培の鉢から引き上げると豊かに枝分かれした根が現れた。根がぬめると良くないんだよ、アキラが脳裏で囁く。水は交換していたが根を意識して見るのは初めてかもしれない。
指先で根の先に触れると、濡れた感触と同時にわずかなぬめりを感じた気がした。ぬめると良くないんだよ。何が良くないの?
摘むようにして引っ張ると、ぷつん、と千切れてしまった。悲鳴は聞こえない。こんなに柔らかで頼りないもので生きているなんて。
次の根を摘む。そして引くと切れてしまう。フィーは黙ってわたしの行為を受け入れていた。まるで話すと面倒なことになると知っているかのように。耐えていれば、これが終わるとでも信じるかのように。
「ねぇ、叫ばなくていいの」
千切れた根が床に落ち、水滴が辺りを濡らしていく。アプリの通知音は止まない。また振動しているのは違う電話番号からの着信だからだろうか。
フィーを床に置き、スマートフォンを濡れた手で掴んで再度着信拒否をする。最初は上司の番号、今のは確か会社の営業所の番号だ。先回りして本社の電話番号も着信拒否にし、スマートフォンをソファへ放り投げる。
横たわったフィーの立派な葉は床と接し、いくつも折れ曲がっていた。葉が繊細で擦れるだけでも穴が空くと検索した時に書かれていたことを思い出す。
このままだと穴はさらに広がるどころか増え、葉が駄目になるかもしれない。可愛そうなわたし達の子供、アキラは葉の穴すら知らないのに。それでもフィーは沈黙を貫いていた。
「叫べば終わるかもしれないよ」
わたしが発したはずの言葉にも関わらず、脳裏ではアキラがぼんやりとした笑顔でその言葉をわたしに向けている。
「叫べば良かったのに」
穏やかな声はアキラのようで、わたしのようでもあった。
「叫べば変わったかもしれなかったのに。少なくとも戻らない理由は聞けたんじゃないの。未だに、どうして私がいないのか知らないでしょう、めぐみ」
レースカーテン越しの光は弱すぎてアキラの顔がはっきり見えない。
「可愛そうなフィーとは違うんだから」
床に横たわったフィーは叫ぶどころか動くこともできず、ただそこにいる。アキラが笑う。そう、いつもアキラは自分勝手で、楽しそうで、笑顔がきらきらしていて、強引で、
「……いい加減にしてよ」
遂に飛び出した叫びはかすれたわたしの声だった。アプリの通知音が情けない声に重なる。
「勝手なことばっかり言わないで」
ピロン。
「言ったらこのままじゃいられなくなるってわかってて、嫌われたんだって知ってて、他に行くところもないのに、何を言えって言うのよ」
ピロン。
「わたしはフィーとは違うのよ!」
自分では声を振り絞ったつもりだったが耳障りな叫びはこんな時にも小さい。
そうだ、今アキラが言ったじゃないか。わたしはフィーとは違う。水と空気だけで、何よりもこんな風に穴が空いて、生きていける訳ないじゃないか。こんな、とフィーの葉に空いた穴へ無理やりに指を差し込んだ。
ばつり。
張り詰めたものを貫く、小さな音が聞こえる。それはフィーの叫びだった。わたしの声よりもよほど大きな断末魔。
こんなところもわたしとフィーは違っていた。つい一瞬前までわたしの方が上だと思っていたのに、これじゃまるで。アキラの子供、愛されていたフィー。
穴へもう一本指を入れ、そのまま葉を引き裂く。フィーはもう叫ぶことなくわたしの行為をただ受け入れていた。今度は穴の空いていない葉へ指を突き刺す。わたしの耳には何も聞こえない。立派な葉は緑のゴミへと変わっていく。パキラはカーテンの向こうでわずかに揺れていた。
すべての葉に穴を空けて引き裂いた後、幹にハサミを入れて細かく切断する。このままではゴミ箱を圧迫してしまう、燃えるゴミは昨日出したばかりなのに。
小さくしたフィーのゴミをまとめて燃えるゴミ用のゴミ箱へ入れる。時刻は十時半を数分過ぎたところだった。手を洗い、ハサミを片付けてからソファへ放り投げたスマートフォンを手に取る。
わたしは、
「大変申し訳ありませんでした」
すべての着信拒否を解除し、上司の電話番号へ電話をかけた。
フィーの穴 朝本箍 @asamototaga
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