堕天者

羅貝愛斗

井に揺れる筆

 天才と呼ばれ16年、今更、自分が天才でなかったことを知る。


 こういう世間知らずのことを、井の中の蛙というそうだ。この言葉は高校の先生に教わった。

 裏を返せば高校生になるまでそれを知らなかった無教養な人間である僕は、やはり天才などではない。

 そして先生はこの言葉の続きを教えてくれた。


井の中の蛙 大海を知らず 

以て天の高きを知る


 海の広大さは知らないが、それゆえ天がとても高いことを知っているという意味だ。

 生憎、後に調べてもこの続きの言葉が出てくることはなく、「されど空の青さを知る」のような、似た文章が画面に表示されるだけであった。あのとき、先生は間違ったことを言ったのかもしれない。


 しかし、ただの間違いに過ぎないはずのそれは、気味が悪いほどに僕の指先を痺れさせた。



 きっと自分は小説家に向いていない。

 いつか何処かで立ち止まらなければならない。

 僕はこの世界で、本気になったことがない。


 もし僕が蛙だとして、この世界の広さを、海の青さを知らないのなら、代わりに何を知っているというのだろう。

 深い井戸の底から見上げた空は、どれだけの恐怖を降らせて、僕を溺れさせるのだろう。


 上ばかり見て彷徨ってきたせいで、頸の骨が折れてしまったのだ。次第に血流が悪くなって倒れてしまった。


 もうとっくに、僕の夢は醒めていたはずだ。


 天才と呼ばれる場所があるならそこへ行きたい。死ぬまで一生そこに身を置いて、甘い言葉と御託を並べて生きていきたい。


 ここで生きるのは苦しい。

 苦しいはずなのに、


 未だに僕は小説家の夢にしがみ付いている。


 浮足立った覚悟に諦念を抱くと同時に、



 まだ、この筆を置けないでいる。








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堕天者 羅貝愛斗 @Ragai19

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