はせがわくんの弟の運動靴の話

白坂睦巳

はせがわくんの弟と運動靴の話

 はせがわくんが、十九歳のときのこと。

 当時高校二年生だった、弟のゆうとくんが亡くなったそうです。

 自殺でした。

 近所にある古い団地の、外に面した階段から飛び降りたのです。


 団地の階段には、脱いで揃えた運動靴と、その下に敷かれた遺書がありました。

 遺書は、ノートからちぎったページに書かれていました。

 淡いブルーの罫線を貫いて、大きな字で、縦書きで、

「もうちょっといやになりました」

 とだけ書かれていました。


 ゆうとくんは、高校ではサッカー部に所属していました。

 練習熱心でチームメイトからの信頼が厚く、親しい部員も多い。

 クラスでは明るい人気者で通っており、こちらでも友達がたくさんいました。

 おまけに、好きな女の子と最近ちょっといい雰囲気になっていたそうです。

 家の中にも問題はありません。両親には可愛がられ、兄であるはせがわくんとの関係も良好。両親の仲も良く、喧嘩することはほとんどありません。


 一体全体、何が「もうちょっといやに」なったのか?


 はせがわくんも、はせがわくんの両親も、ゆうとくんの友人も、担任の先生も。

 誰一人、わかりませんでした。


 現場に残されていたゆうとくんの所持品は、

 遺書、

 身につけていた衣類、

 そして運動靴。

 それだけでした。


 この運動靴は、実ははせがわくんのものです。

 二人の靴のサイズはほとんど同じで、今までにもゆうとくんがはせがわくんの靴を勝手に借りることはよくありました。はせがわくんは靴の共有に抵抗があったので、自分の靴の中敷きに片っ端から名前を書いて「これは自分のものだ」という意思表示をしていたくらいです(それでも勝手に借りられましたが)。

 だから、ゆうとくんがはせがわくんの靴を履いていたことは、とりたてて不思議なことではありませんでした。


 ゆうとくんの遺品であり、はせがわくんの私物。

 そんな複雑なタグ付けをされてしまった運動靴が、はせがわくんの手に戻りました。


 はせがわくんは、運動靴をひとまず自分の部屋に飾りました。

 埃を払った棚の上に新聞紙を敷き、その上にのせました。

 この運動靴は、はせがわくんが高校を卒業する直前に買ったものです。当時はよく履いていましたが、半年ほどで飽きてしまい、最近は下駄箱の奥に突っ込んだままにしていました。

 はせがわくんは、この運動靴をふたたび使うことにしました。


 特に理由があったわけではありません。

 ただ、なんとなく、そう扱うのが適切なような気がしたのです。


 はせがわくんは、外出のたびにこの運動靴を履きました。

 もちろん、雨の日にはレインシューズに変える程度のことはしましたが。

 基本的には、この運動靴を履いて出かけました。


 やがて、はせがわくんは不思議なことに気がつきました。

 この運動靴を履いた日は、夜、おかしな夢を見るのです。


 夢のなかで、はせがわくんは高校生になっていました。

 はせがわくんはサッカー部に所属しており、毎日練習にいそしんでいます。

 サッカーは大好きですし、試合は楽しいのですが、半年前に顧問が変わってからというもの、毎日の練習が憂鬱で仕方ありません。

 新しい顧問がかなりの曲者で、気に入らないことがあると、すぐ部員に対して手や足が出るのです。単に殴る、蹴るだけでなく、精神的にきつい辱めも交えるから性質が悪い。しかも、不機嫌の理由のほとんどは部員には関係のないこと。「職員室でイラつくことがあった」からと、部員たちに手をあげることもあります。

 部員たちに課す練習も、半ばイジメに近い過酷なもので、しかも効果が乏しいことは明らかな内容ばかり。スポーツの指導者として、あまりにお粗末です。

 見た目も恐ろしく、岩のような筋骨隆々の体に、絵本に出てくる化け物のような、いかつい顔立ちをしています。やたらと鮮やかな緑色のジャージがトレードマークで、近づくとタバコの臭いがしました。


 はせがわくんは、顧問に毎日のように殴られました。なぜか顧問に目をつけられてしまい、ほかの部員がサボった連帯責任だ、などと言って、なぜかはせがわくんだけ殴られることもありました。

 そんなとき、チームメイトたちは同情の眼差しこそ寄せるものの、助けてはくれません。顧問に逆らえば、次は自分が標的にされることが分かっているからです。


 ある日、はせがわくんは、顧問にとても嫌なことをされました。

 ああ、もう限界だなあ。

 もうちょっといやになっちゃったな。

 ぼーっとしながら家に帰り、無意識のうちに勉強用のノートのページをちぎり、遺書を書き、いやだめだろ、洒落にならない、なんて思いながらも外に出て、近所の団地に向かい――


 そこで目が覚めます。

 そんな夢を、運動靴を履いた日だけ、いつも見るのです。


 最初はたまたまだと思っていたはせがわくんも、徐々に気がつき始めます。

 ああ、これは、もしかして弟の生前の記憶なのでは?――と。


 弟は、自分や両親には何も言えなかったけれど、実は部活で顧問にいじめられていたんだ。

 それを苦にして自殺したに違いない。

 そうして、その思念だか怨念だかが、死の直前まで履いていたこの靴に残っていて。

 それで、この靴を履いた自分に訴えてくるのだ。こんなに辛い目に遭っていたのだと……。


 はせがわくんは、早速ゆうとくんが通っていた高校に探りに行きました。

 弟の敵を討つ。

 頭の中はそれだけです。

 顧問に復讐するために、サッカー部の練習風景をこっそり撮影して、暴行の証拠を得ようと考えたのです。


 平日の夕方、グラウンドではサッカー部が練習していました。

 練習風景はフェンス越しに丸見えで、容易に様子を伺えました。


 ボールを追う部員たちの表情に、暗いものはありません。

 虐待に近い特訓や、理不尽な暴力などは影も形もなく、みな落ち着いて練習しています。

 しかも、顧問とおぼしき教諭は、夢で見たのとは似ても似つかぬ風体。

 中肉中背で、グレーの地味なジャージを着た、柔和な顔つきの中年男性です。


 どういうことだ?


 釈然としないものを抱えながら、はせがわくんは家に帰りました。

 弟の遺品である運動靴を履いて。


 その日の夜も、また例の夢を見ました。

 激高した顧問に打ち据えられ、額から血が流れる。

 痛みのあまりうずくまっても容赦なく、顧問が脇腹を蹴りつけてくる。

「見ろよ、おまえら、こんな落ちこぼれにはなるんじゃねえぞ」

 そう言われた部員たちの表情は暗い……。


 目が覚めた瞬間、はせがわくんは「昨日はたまたま顧問が不在だったのではないか?」と思いました。

 そうだ、きっとそうに違いない。昨日は他の教諭が臨時の顧問をやっていて、例の顧問はいなかった。だから、練習風景もまっとうなものだったのだ。


 はせがわくんは、改めてサッカー部の様子を伺いにいきました。

 また、昨日と同じ男性教諭がいました。

 部員たちの様子も朗らかで、なんの屈託もありません。

 運動部の爽やかな練習風景が、そこにありました。


 はせがわくんは、混乱しました。


 どうしても気になって、部活の終わる時間帯に校門の前で待ち伏せ、サッカー部員たちに声をかけ、顧問について聞いてみました。

 曰く、数年前からずっと顧問は変わらず、例の柔和な顔立ちの男性教諭であると。

 彼の指導にとりたてておかしなところはなく、むしろ運動部の顧問にしては甘い。

 どちらかというと部長のほうが厳しいくらいだが、それでも他の運動部に比べればかなり緩い部類に入る。

 だからあんまり試合に勝てないのかね、と、サッカー部員たちは笑っていました。


 どう考えても、部活が自殺の原因になったとは考えにくい。

 じゃあ、あの夢はなんだ?


 はせがわくんは、夢にとりつかれたように、毎日あの運動靴を履きました。

 ソールが摩耗し、靴底に穴があいても、ずっと履き続けました。

 夢の内容は変わりません。

 サッカー部で顧問からひどいイジメを受け、苦しむ。

 ただひたすらそれだけの夢です。


 そんなある日。

 外出しようと運動靴に足を通した瞬間、はせがわくんは違和感を覚えました。


 違和感の原因には、すぐに気がつきました。

 靴紐が切れかけている。

 毎日欠かさず履いているうちに、擦り切れてしまったのでしょう。

 さすがに靴紐なしで運動靴を履くのは難しい。

 はせがわくんは、靴紐だけ交換しようと思い、下駄箱を開けました。

 いくつか替えの紐があったはずなので、それを使おうと思ったのです。


 ずっと同じ運動靴を履いていたため、下駄箱を開けるのは久々です。

 靴紐の予備など、あまり使わないものは奥のほうにしまわれています。

 ブーツやレインシューズは手前に置いてあるので、奥まで見るのは、もしかすると弟が死んでから初めてかも――。

 そんなことを考えながら下駄箱を探っていると、あるものが目に入りました。


 赤い運動靴です。


 えっ? と思いました。

 弟の遺品である赤い運動靴は、今、玄関のたたきに出してある。

 するとこの、下駄箱の奥に突っ込んである赤い運動靴はなんだ?


 はせがわくんは、下駄箱の中にあった運動靴をそうっと取り出しました。

 よく見ると、遺品の運動靴とは若干デザインが違っています。

 ですが、そっくりです。瓜二つ。入れ替わっても気付かないくらいに。


 入れ替わっても……?


 もしかして、下駄箱の奥にあったほうが、自分の運動靴か?

 ふと思い立って中敷きをずるりと取り出すと、自分の名前が書いてありました。

 弟が勝手に履かないようにするために、はせがわくんが書いた名前です。


 では、この、今まで自分が履いていた赤い運動靴はなんだ?


 この靴は遺品として戻ってきたとき、既にかなり使用感がありました。

 なので、弟が自殺の直前、自分で買った運動靴だという線は薄い。

 でも、はせがわくんは、弟が赤い運動靴を履いているところを見たことがない。

 くたびれるほど履いていれば、はせがわくんも何度か目にしたはずでしょう。


 これは誰の靴だ?

 なぜ弟が自殺した現場に誰のものか分からない靴があったんだ?

 弟が死ぬときに履いていた靴はどこにある?

 この靴が弟のものでないなら、履くたびに見るあの夢はなんなんだ?


 ボロボロの赤い運動靴が、急に気味の悪いものに見えてきました。


 はせがわくんは、下駄箱の奥にしまわれていたほうの運動靴を履いて、新しい靴を買いにいきました。

 そして、新品の靴で帰宅してすぐ、二足の運動靴をどちらも捨てました。


 それ以来、はせがわくんはあの夢を見ていません。

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