もう1つのエピローグ その2

祠の奥は、あいかわらず静かじゃった。

外では夏の日差しが騒がしく地面を叩き、蝉がまるで命を燃やすみたいに鳴いておるというのに、妾のいるこの場所だけ、時が薄い。

影が音を吸い込んで、世界の外れみたいに感じられる。


妾は、もう誰の目にも映らぬ。

声も届かぬ。

触れられぬ。


神としての形は残っておるのに、誰からも“存在”として扱われぬ感覚は、慣れようとしても胸のどこかが少しずつ冷えていく。


……それでも、妾はまだここにおる。


あの子のそばに。

誰にも気づかれずに、風の粒のように漂いながら、夏の光が落ちるたびに、その影に寄り添って。


妾の祈りが届かぬとしても、妾の想いが知られぬとしても、


それでも――


見守るために、生きておる。


────


ころころと転がる笑い声が、石段の熱を揺らした。

夏の日差しが境内の砂利を照らし、光の粒が跳ねる。

その中を、小さな影がひょい、と駆け抜けていく。


……雪杜じゃ。


巻き戻された世界で、別の形を与えられた“新しい雪杜”。

前の記憶はすべて失われておるのに、魂の奥底にある“揺らぎ”だけは、変わらずそこにおった。


「なんでかな……ここに来ると、胸がぽかぽかする……」


その呟きが境内に溶けた瞬間、妾の胸の奥がふるりと震えた。


……それは妾のせいじゃ。

妾が、おまえの痛みをひとつ残らず消すために、世界ごとひっくり返したからじゃ。


しかし、その理由を伝える術など妾にはない。

妾は風の粒として息を潜め、ただ、その小さな背に寄り添うしかできぬ。


雪杜は祠の前に立ち、小さな両手を胸の前でぎゅっと合わせた。


「……ありがとう……なんかわかんないけど……ありがと……」


その言葉が、光の膜を震わせた。

妾の心のどこか、ずっと深いところが、そっと溶けていく。


(……そなたは、何も覚えておらんのに……

 それでも妾へ礼を言うのか……)


妾は、声を持たぬ。

触れることも、抱くこともできぬ。

ただ、想いだけを込めて――祈る。


“そなたの人生が……どうか、痛みなく満ちていくように”


祠の木陰で揺れる風の粒が、ほんのかすかに雪杜の髪へ触れた。


もちろん、彼には届かぬ。

けれど妾は、確かにそこにおるのじゃ。


────


境内の石段に、夕暮れがゆっくり沈んでいく。

茜色が木々の隙間を染め、風鈴がひとつ揺れて、小さな音を落とした。

その下で――雪杜と咲良が並んでおった。


距離が、以前よりずっと近い。

世界がふたりを自然と近づけていくようで、妾はその横で風の粒となり、そっと漂っていた。


(……そなたら、とうとう、ここまで来たのか……)


妾の視線が雪杜へ吸い寄せられる。

あの子の胸の奥が、ほんのわずか震えた。

何かを思い出しそうな、しかし掴めぬような、淡い揺らぎ。


「……咲良ちゃん?」


雪杜が囁き、咲良はそっと目を閉じる。

風がふいに止まり、世界全体が息を潜めた。


妾は小さく目を細め、


(うむ、よい。

 そのまま、そなたは……その子を大切にするのじゃ……)


と静かに祈る。


そして――

ふたりの距離は、紙一重になった。


唇が触れ合い、夕暮れの光がその輪郭を照らす。


雪杜の胸の奥で、かすかに光がはじけた。

既視感のかけらが揺れ、記憶の奥に触れそうで触れない“疼き”が走る。


妾は、くい、と口元を上げた。


(……ふふん。

 それは“初めて”ではないぞ、雪杜。

 妾が……先に貰っておったからの)


誰にも聞こえぬように、こっそり得意げに腕を組む。

不可視の神の特権じゃ。


「……えへへ。ついに、しちゃったね……」


咲良が嬉しそうに笑い、雪杜は胸の中の揺らぎに首をかしげる。


揺れる瞳に、頬がゆるむのを抑えきれなかった。


(それでよい、それでよい。

 そなたの“初めて”は……妾のものじゃ。

 咲良には悪いが……ここだけは、譲れぬのじゃ)


やがて雪杜が深呼吸し「付き合ってください」と告げる。

咲良は涙ぐみながらうなずき、ふたりはそっと抱きしめ合った。


夕日が伸びて、まるで祝福の帯のようにふたりを包み込む。


妾は静かにふっと笑った。


(……そなたが幸せなら……妾は、それでよい。

 妾の勝手なわがままなど……この一滴だけで十分じゃ)


ふたりの幸福を乱さぬように、妾はすこし距離を取った。

風の粒がひとつ、そっと後ろへ流れる。


(さぁ……行くがよい。

 その道は痛みも涙もあるじゃろうが……

 “共に歩む二人”ならば、乗り越えられる)


ふたりの笑い声が境内へ溶けていく。

妾は影も光も残さず、祠の奥へ静かに戻る。


去り際に、胸の奥でひとことだけ――

少し照れながら。


(……してやったり、じゃな)


その瞬間、風鈴がかすかに鳴り、まるで妾の小さな誇りを受け止めたように響いた。


――――


季節は、風に溶けるように巡っていった。

雪杜は背を伸ばし、声変わりし、あの子はついに“青春”という名の季節を歩き始めた。


咲良と並んで笑い合い、肩が自然と近づき、時にふたりで小さな秘密を分け合うように囁き合う。


その光景は奇跡のようじゃった。

妾が願い、妾が求め、妾がすべてを代償にして叶えた未来そのもの。


(……よかったの……

 そなたは、ちゃんと“好きな人”と並べるのじゃな……)


あの冬の世界ではできなかったこと。

妾が……奪ってしまったもの。

妾自身で壊し、そして巻き戻して“直した”世界で、ようやく、こうして叶っておる。


夕暮れの校門。

茜色の帯がふたりの影を長く伸ばす。


咲良がそっと雪杜の袖をつまんだ。

照れ隠しの笑みが指先に滲む。


「……あのね、今日も帰ろ、一緒に」


「うん。行こっか」


何気ない会話なのに、その一瞬に漂う柔らかな空気が、妾の胸を強く締めつけた。


(……好きで、よかったな……咲良……

 妾がいなくても……そなたは雪杜の光じゃ……)


あの子を暗闇から救い出すのは、もはや妾ではない。

咲良という“生きる光”が、今は確かに雪杜の横で息づいておる。


妾はふたりの邪魔にならぬよう、風の流れへ身を溶かした。


誰の目にも映らぬ、

誰の声にも触れぬ、

ただの“風”として。


それでも――

そなたらの歩む背中を、妾は静かに見守るのじゃ。


――――


夜の帳が落ち、月の光が薄く部屋を満たしておった。

静けさの中で、吐息だけがじわりと増えていく。

雪杜と咲良の距離が……まるで引き寄せられるように、ほんのわずかずつ近づいていく。


妾はカーテンの影に紛れ、風の粒となって漂っておったが――


(……む……むぅ……?

 な、なんじゃこの空気は……

 いつもの二人と……明らかに違う……!?)


胸の奥で、嫌な予感ならぬ“良くない予感”がぞわぞわと沸き上がる。


「……咲良……大丈夫……?」


「……うん……大丈夫……雪杜くんが……最初だから……」


(!?!?!?)


妾の粒子がバチッとはぜた。

“風”であるはずなのに、明らかに体温が上がる。


(ま、待て……落ち着くのじゃ妾……

 そ、そなたらの愛が深まるのは良いこと……

 良いことじゃが……)


咲良が雪杜の腕を引き寄せる。

雪杜が咲良の頬へ指を滑らせる。


(う、うおおおおおお……!!

 な、なぜ妾はこんな場面を目撃しておるのじゃ……!!

 こんなにも……こんなにも近い……!

 こ、これが……まことの……)


雪杜の手が咲良の背にまわる。


妾は小声で震えながら呟いた。


「ま、真……人の営みとは……

 お、おそろしいほど密着するものなのじゃな……!」


粒子がピキピキと震え、完全に挙動不審の風。


「……雪杜くん……その……つづき……して……」


「……うん……咲良……」


(ま、待て待て待てッ!!

 そなたら……そなたら!!

 一線を越えるのは……その……

 覚悟とか……儀式とか……段取りとか……もっと色々……!)


妾は風なのに、顔だけ真っ赤になっておるような気分じゃ。


「い、いや、別に見てはいかぬとは言われておらん。

 妾は……観測者……観測者として……

 ええと……その……あの……必要があって……」


……完全に言い訳じゃ。


そして雪杜が咲良を抱きしめるように覆いかぶさった瞬間――


(むりむりむりむりむりむりむり!!!

 ここから先は妾が見るべき領域では……

 そなたら若人の情熱……体温……

 いかん……目が……目が勝手に……!)


妾の粒子がバチッと大きく光り、思わず声にならない声を漏らす。


「~~~~ッ!!」


妾は全力で背を向け、夜風の中へ逃げようとする。


(そ、そなたら……幸せになれ……。

 妾は……見届けぬ……!

 ……見届けぬ……が……

 ……すこしだけ……

 ……見たい気も……する……)


肩がわずかに揺れる。

こんな情けない神がいるものか……!


(い、いかん……いかんのじゃ……!

 これは……

 妾が踏み入れてはならぬ領域……

 そなたらの時間は……

 “妾のもの”ではない……)


強く拳を握りしめ、妾は夜風へ身を預けた。

二人の吐息が背中に残り、ゆっくりと遠ざかっていく。


外に出て、月を見上げる。

妾は小さく、弱い声で呟いた。


「……人の愛とは……ここまで深いのじゃな……。

 雪杜……咲良……

 そなたら……妾よりずっと大人じゃ……」


胸の奥に、ちくりと刺す痛みが落ちる。


(……もし……妾が雪杜の愛を受け入れておったら……

 妾にも……抱かれる未来など……あったのかの……)


自嘲のような、憧れのような、切ないため息がこぼれた。


「……いや、よい。

 妾が望む未来は……そなたが幸せに生き続けることだけじゃ……」


妾は夜の風へ溶け、ふたりの温度が残る部屋をそっと後にした。


────


年月というものは、人をこんなにも変えるものかと、妾は長い時の底で何度も思った。

雪杜は大人になり、咲良もまた美しく成長し、ふたりは寄り添う形を迷いなく選んでいった。


雪杜が咲良の指に指輪をそっとはめた、あの日。

境内に喜びの声が広がり、咲良の頬が涙で濡れた、あの瞬間。


妾は祠の奥で――ただ、ひとり泣いた。


涙は落ちぬ。

妾の身体はもう光の粒でできておるからの。

けれど、胸の奥だけは痛いほど熱かった。


(……そなたは幸せになった……

 妾ではなく……そなた自身の人生で……)


それでよい。

それでこそよいのじゃ。

そう思い続けてきたはずなのに、どうしてこうも胸が震えるのか。


雪杜が咲良を抱きしめ、その肩に顔を埋める日。

ふたりで並んで夜道を歩き、小さな冗談を交わして笑う日。

子を抱いて、眠そうな顔で揺らしながら、それでも優しさを崩さぬ姿。


全部、妾は見てきた。

風として、光として、祠の影として。


焼き付くほどに、何度も、何度でも。


(……妾だけが覚えておれば、それでよい……)


人の記憶に残らずとも、妾の中には確かに“そなたの人生”が積もっていく。


雪杜はもう、痛まぬ世界を歩んでおる。

誰にも傷つけられず、誰を傷つけることもなく、

愛されて、愛して、生きておる。


妾が願った未来は、ちゃんとこの手に届いておるのじゃ。


────


ある夏の日の午後じゃった。

陽炎が揺れ、境内の影がいつもより柔らかく伸びておった。

そんな日のこと――雪杜は幼い子を連れ、祠へとやって来た。


「ここね、昔からなんか落ち着く場所なんだ。

 理由はわかんないんだけど……大事な場所なんだよ」


さらりと言う声の中に、あの冬の影はもうどこにもない。

ただ穏やかで、まっすぐな父の声じゃった。


咲良が隣で微笑み、その表情がまた雪杜の穏やかさを照らしておる。


妾の粒子は、その様子に合わせるようにそっと揺れた。

呼ばれたわけでも、感知されたわけでもない。

ただ、風としてそこに漂っているだけ――

なのに。


雪杜の子が、ふいに祠へ手を伸ばした。


「……ひかってる……?」


妾は息を呑んだ……いや“息を呑むふり”をした。

光の粒に息などないが、それでも震えずにはいられなかった。


(見えて……おるのか……?

 いや、違う……感応じゃ……

 そなたの血を引く子は……妾の祈りを……感じ取っておるのじゃな……)


雪杜は困ったように笑い、その頭を撫でた。


「不思議だよな。お父さんも小さい頃、ここで泣いたんだ。

 理由なんかわからないのに……」


その言葉を聞いた瞬間、妾の心の奥の奥が温かく、そして少し痛く揺れた。


妾は祠の奥で、そっと手を伸ばした。

触れられぬし、届かぬ。

それでも――ただ伸ばさずにはおらなんだ。


(そなたが泣いたのは……妾が“そこにいた”からじゃよ……

 雪杜……)


あの冬の夜――

「愛してくれますか」と震える声で問うてきたあの子は、もうどこにもおらん。


今の雪杜は、生まれ直した世界で、

誰にも縛られず、誰の呪いも背負わず、ただ自分の人生を歩んでおる。


それこそが、妾の願いのすべてじゃ。


妾は静かに微笑んだ。


「……そなたの幸せが……妾のしあわせじゃ……」


風に溶けるほど小さな声で。

誰にも届かぬはずの言葉じゃが、それでよい。

妾の祈りは、いまや“風”そのものなのじゃ。


そのとき――

祠の奥で、藍色の光がふっとひとつ揺れた。


雪杜は気づかぬ。

咲良も、子どもも気づかぬ。


ただ、夏の風が優しく吹き抜けただけのように見えた。


けれど妾にはわかっておる。

あれは、妾の最後のわがままがまだ少しだけ残っている証。


風として、それをそっと抱いて――

妾は、祠の影へとゆっくり戻った。


────


雪杜の最期は――

静かで、あたたかくて、まるで夏の夕暮れのようじゃった。


子や孫に囲まれ、老いた咲良に手を握られながら、あの子は穏やかな息をゆっくりと、ゆっくりと手放していった。


妾はただの風の粒として、部屋の片隅に漂っておった。


「……いい人生だったな……」


最後にそうこぼした声は震えておらんかった。

満ち足りておった。

本当に、満ち足りておった。


妾はそっと呟く。


「……うむ……そなたの人生は……本当に、美しかった……」


もちろん、届かぬ。

この姿では、声も気配も“ただの風”じゃ。

それでも妾は、それでよいと思った。


光のように淡く、雪杜の魂は空へ昇っていく。

咲良が涙を落とす音だけが部屋に残り、妾は風として、その瞬間をそっと見送った。


祈りを畳んでいたその時――

光が揺れ、例の女神がふっと現れた。


「終わったのね。……お疲れさま」


妾は静かにうなずく。


「うむ……妾は、見届けたぞ。

 あの子のすべてを……誇らしく思うておる」


「そう。それじゃぁあなたの処遇だけど――

 上層は“もういい”ってさ。

 あなたは十分、贖罪を果たしたんだって」


贖罪。

その言葉が胸に落ち、ほんの少し痛んだ。


「……妾のような異端者が……許されるのか?」


女神は、やれやれと言いたげに笑う。


「許されるわよ。

 むしろ“経験値”として超貴重だから。

 上層の連中、めっちゃ研究してたし」


「妾は実験動物か!!」


「はいはい、文句はあとで。

 でも──ひとつ問題があるの」


妾は思わず眉をひそめる。


「問題?」


女神は指を立て、さらっと言った。


「あなた“人間に惚れやすい属性”が残っちゃってるわ」


「はァ!?『でぃすぺる』とやらで消したのではないのか!?」


「だってあの巻き戻しのあとの、魅了MAX+呪い合成+恋愛バグよ。

 半分くらいあなたの神性に定着してたの。

 消せなかった。ごめん」


妾は両手で頭を抱えた。


「民が妾へ祈りを捧げるたびに惚れてしまう可能性があるのかの?」


「あるね」


「やめてくれえええ!!」


女神は肩をすくめる。


「まぁ、そのへんは自己管理で」


「妾は永遠に恋で失敗し続けるのか!!」


「あはは。

 逆に言えば“恋を知った神”として格がひとつ上がったとも言えるわ」


「褒められておる気がせん!!」


女神はやさしく笑い、光をまとっていく。


「でも──

 あなたが雪杜を幸せにしたことは、神界でも正式に記録されるわ」


妾は、小さく、深く息を吸った。


「……それは……妾にとって……誇りじゃ」


女神は満足そうに笑う。


「さぁ、もう好きにしていいわよ。

 今度はあなたの“本来の役目”の中でね」


妾は風の粒を集め、ゆっくりと姿を整えた。


「……うむ。

 妾は……また世界の祈りを……見守ろう……

 恋を……しすぎぬよう……気をつけながら……」


「そういうの一番できなさそうなんだけどね、あなた」


「うるさい!!」


女神は光へ包まれ、神界の彼方へ消えていった。


残された妾は、静かな空に向かってひとり呟く。


「……雪杜。

 そなたの生を見届けられたこと……

 妾は永遠に、忘れぬぞ……」


その言葉はどこへも届かぬ。

ただ風だけが、そっと拾って運んでいった。

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神をも魅了する少年は神様に愛されたいようです @kami_ai

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