もう1つのエピローグ その1
光だけで満たされた空間は、時間という概念さえ忘れたように静まり返っていた。
粒子が川のように流れ、そこに一つだけ濃い影が立っている。
少女の姿をした神――その輪郭は、祈りを落とすたびに淡く震えていた。
胸に抱えた想いは、誰にも届かないはずのもの。
それでも、彼女は祈り続ける。
「雪杜……どうか……幸せになるんじゃぞ……」
その声は囁きより静かで、しかし光よりも強く空間に沁みていった。
頬を滑り落ちた粒子の涙が床に触れた瞬間、世界そのものが小さく揺れる。
光の流れが逆巻き、まるで神界がその涙に驚いたかのようだった。
御珠は、その異変に気づいていなかった。
自分の身体が呪いと魅了を抱え込んだまま限界まで濃縮され、存在そのものが危険物のような輝きを放っていることにも。
ただ静かに祈り、ただ静かに想い続ける。
その行為が、この空間にとってどれほど致命的なのかも知らないまま。
やがて、不自然なほどの静寂が訪れた。
光のざわめきが止まり、粒子の流れが凍りつく。
その気配に御珠ははっと顔を上げた。
「……っは!?ここはどこじゃ!?」
声が反響した刹那、空間がひび割れるように揺れた。
光の裂け目から、誰かの深い溜息がこぼれた。
「……やってくれたわね。ほんとにさ……」
腕を組み、眉を寄せた見知らぬ女が現れた。
その立ち姿には妙な威圧感がある。
御珠は無意識に身構えた。
だが、女は御珠の顔を見るなりその動きがぴたりと止まる。
一拍。
ほんの一拍だけだが、重心がわずかに揺れた。
息を呑むような、あからさまな反応。
御珠は眉をひそめ、思わず身を引いた。
戸惑いと警戒が一気に込み上げる。
「な、なんじゃ貴様は!ここは──」
裂け目から現れた女は、なぜか顔を背け、こめかみに手を当てた。
その仕草は、御珠の声に怯えたというより……“見たくないものを見た”者の反応だった。
「ちょ、ちょっと待って今話しかけないで……」
「???」
御珠が首をかしげると、女は深呼吸を一つ置き、絞り出すように言った。
「……アンタ、なんでそんなバグみたいな濃度になってんのよ……
何その色気……近くで見ると頭くらくらするんだけど……」
御珠は目を瞬かせる。
「は?色気?」
「いや、色気っていうか……魅了値MAXに呪いまで合成されたら……
そりゃ……“神ですら直視したら危険”レベルになるって話で……」
「?」
言ってる本人が一番動揺しているらしく、女はぶんぶん頭を振った。
そして何とか仕事モードを取り戻そうと、語気を強める。
「とにかく!!規約違反よ!!
なんで人間ひとりのために存在ぶん投げて世界巻き戻してるのよ!!」
怒りに見せかけているが、声の端にほんのわずか震えがある。
それは怒気ではなく、魅了にあてられたとき特有の、制御しきれない“揺れ”だった。
御珠は胸元に手を当て、迷いも恥じらいもなく答えた。
「妾が……愛してしまったからじゃ」
その一言が空間の奥を震わせた。
光が舞い上がり、粒子が花火のように弾ける。
まるで神界そのものが“愛”という言葉に反応しているようだった。
女はその光の中で一瞬だけ動きを止める。
頬に、かすかに色が差した。
まるで――
恋を知ったばかりの少女みたいな反応だった。
「……ッ……こ、これは魅了値……ほんとタチ悪い……」
本人は、どうにか平静を装おうとする。
しかし揺れた睫毛の動きがすべてを物語っている。
御珠は小さく首をかしげた。
「なにか申したか?」
「なんでもない!!仕事なんだから!!」
語尾が跳ねる。
怒っているというより、戸惑いを叱咤しているような声音。
しかし、その焦りを隠しきれず、女は視線を逸らしたまま荒く息を吐く。
空間の光はまだ御珠に吸い寄せられるように揺れ続けている。
呪いと魅了が混ざり合い、存在そのものがひどく危うく、美しく、眩しい。
女は肩をすくめ、ようやく言葉を絞り出した。
「……ああもう……なんで地上神が神界にまで影響出してんのよ……
ほんと厄介……」
その声は叱責であり、呆れであり、そして――
ほんの少しだけ、同情すら滲んでいた。
御珠は目を細め、警戒を込めて問い返す。
「地上神?神界?
そなたは……別の神か?」
女は堂々と胸を張った。
「そうよ。私は転生を司る神。
あんたなんかより全然偉いんだからね!」
威張り散らした直後――
彼女は御珠の顔をちらりと見た瞬間、また頭を押さえてうめいた。
「っ……ちょ……待って……今……距離……っ」
息が上ずり、声が裏返る。
思わず一歩、後ずさった。
御珠はぽかんと目を瞬かせ、素朴に問いかけた。
「転生の神、とな。
……で、なぜ妾から逃げるのじゃ?
妾は何もしておらんぞ?」
その無邪気さが、どうやら余計に女を追い詰めたらしい。
「いやしてる!!
見ただけでクラッとくるって何!?
神をクラッとさせるな!!」
御珠は自分の足元を眺め、肩をすくめるように言った。
「妾、ただ立っておるだけじゃが……?」
「そこが問題なのよおおおお!!」
女神の悲鳴は、神界にしては珍しく情けない反響を残した。
額を押さえ、深呼吸をして気を落ち着かせようとする。
だが、その間も目は泳ぎっぱなしだった。
「何この色気……なんで地上神がこっちを揺らすのよ……
あんた雪杜を落としたついでに神まで落とす気なの!?」
御珠はびしっと指を立てて言い返す。
「落としておらん!!
そもそも妾は雪杜しか──」
「はいその言葉禁止ーー!!
恋を自覚してる神の声量で名前呼ぶな!!
魅了が加速する!!」
「意味がわからぬわ!!」
女神は半ば目を閉じたまま手首を振り、観測画面を呼び出した。
光の板に数字が高速で走る。
《魅了値:MAX+呪い合成(危険)》
《接触推奨距離:神の場合2メートル、人間の場合∞》
《注意事項:近づくと脳が溶ける》
御珠が眉を寄せるより早く、女神が叫んだ。
「ほら見なさい!!
あんた今、注意事項に“脳が溶ける”って書かれてるのよ!?
なにこれ!?誰が出したのこの警告!?」
「妾は知らん!妾はただ雪杜を……!!」
「はいはいそこ!!
雪杜の名前を言うたびに魅了値跳ね上がるから!!」
「そんなバカな」
「バカじゃないのよ!!
呪い込みのMAX魅了は規定外!!
ていうかなんであの子も生きてたのよ!?
……いやそれはあんたが助けたからなんだけど!!」
御珠は胸を張って言い切る。
「妾は雪杜のために──」
「はい言った!!名前言った!!
今“魅了値+20”入ったわ!!」
「まっくすなのに増えるわけなかろう!!」
「あるの!!
現に私クラッてなるの!!やめて!!」
「知らぬ!!妾のせいではない!!」
「アンタのせいなのよ!!
まあ……でも……これ、解除はできるけどね?」
御珠の動きが止まった。
「……できるのか?」
「当たり前でしょ。神権限よ?
あんた、地上神で“呪い”抱えたまま暴れると危険すぎるから、ここで強制的に初期化しとくわ」
御珠の表情が絶句に染まる。
「初期化!?
妾の苦労はどこへ消えるのじゃ!?」
「うん、消える。はいドンマイ」
「雑!!」
女神は軽く肩をすくめ、呟くように言った。
「だって本来、魅了MAXにしたのは“私の思いつき”だし……」
御珠の叫びは神界が揺れるほどの迫力だった。
「おぬしじゃったのかあああああ!!!」
「やめて怒鳴らないで!?
魅了値揺れるから!!」
女神は慌てて手を伸ばし、御珠の胸元に指先を向けた。
「――神権限、“呪い解除(ディスペル)”。
ついでに魅了値、普通の美人レベルに調整っと」
光が弾け、その波が静かに空間へ広がった。
御珠を包んでいた黒い揺らぎが、煙のように消えていく。
「……おお……体が軽い……」
女神は満足げに腕を組んだ。
「でしょ?初期化すればこんなもんなのよ。
雪杜の呪いなんて、神界から見たら“ちょっと強い静電気”みたいなやつだし」
「妾のあの苦悩は静電気…………!?」
「うん。静電気。バチってしたら痛いやつ。
さ、深刻な顔してたのあんたの気のせいよ。気のせい」
「気のせいではないわ!!」
「はいはい。
とりあえず魅了値は解除したから、こっちも安心して話せる。
あんた、上位神権限で捕まったから、少し説明するわよ」
御珠は不満げに唇を尖らせ、何か言い返そうと口を開いた。
「……むぅ……」
それを見た瞬間、女神がピシャリと割り込む。
「文句は聞かない!!」
神界の光が揺れ、二柱の影が向かい合う。
片方は怒り、片方は困惑。
そして――妙な緊張だけが空間に残った。
────
呪いも魅了も剝がれ落ち、御珠の身体はようやく本来の“ただの美しい神”の姿へと戻った。
黒い揺らぎが消えた瞬間、空気がひとつ澄んだ。
御珠は胸元を押さえ、ほうっと息をつく。
その吐息には、少しだけ肩の荷が下りたような温度があった。
「……静電気と言われた時は本気で腹が立ったが……
体が軽いのは……否定せぬ……」
横で腕を組んでいた女神は、どこか誇らしげに顎を上げた。
「でしょ?神界のメンテは世界一よ。
故障したらすぐ直すのが基本!」
「故障呼ばわりするな!!」
即座のツッコミに、女神はあからさまにスルーを決め込む。
「はいはい。文句はあとでまとめて聞くから。
今は“再派遣”の説明するわよ」
御珠の眉がぴくりと揺れる。
「……再派遣?」
女神は手首を軽く返し、光をたゆませながら観測画面を呼び出した。
そこに映し出されたのは、巻き戻された新世界。
雪の祠で、幼い少年がひとり、涙を拭っている。
――その姿は、御珠の胸の奥にいまだ刺さったままの面影と、寸分違わなかった。
『……ありがとう……誰かは知らないけど……ありがとう……』
御珠は息を呑む。
指先まで震え、世界の光が遠くなる。
女神は肩をすくめながら言った。
「ね?あんたが消滅したはずの世界で、消えるはずの“因果”が残ってるのよ。
ざっくり言うと──あの子の魂が、あんたを手放してない」
「……雪杜……」
名前を呼ぶ声は、愛ではなく祈りに近かった。
胸を締めつける感情が、その一音にこぼれていた。
女神はあくまで仕事として告げる。
「で、上層の神たちが『研究価値がある』って騒ぎだしたの。
“巻き戻し後にも残留する祈り”なんて、観測史上初だからね」
御珠の瞳がわずかに揺れる。
「研究価値……」
「そう。だから決まったのよ。
あんた、“不可視観測者”として地上に戻して、雪杜の人生を観測し続けろって」
御珠の胸に息が戻った。
光に揺れるような声がこぼれる。
「……本当に……妾は、また……雪杜のそばに……?」
だが女神は深いため息をつき、指を一本立てた。
「ただし」
「ただし?」
その言い方が不吉で、御珠は姿勢を正す。
女神は指をひらひらと振りながら言い放つ。
「その姿では絶対に見つかっちゃダメ」
「……なぜじゃ!?」
「魅了値解除したとはいえ──」
女神がちらりと御珠を見た。
ほんの一瞬なのに、視線が吸い寄せられたように止まる。
(普通の美形レベルに戻ってる、はずなのに、ほんとかわいい……)
その感想は口に出さず、強引に続ける。
「あんた、地上に降りたらまた“誤作動”起こす可能性大なの」
御珠が眉を吊り上げる。
「誤作動とはなんじゃ!」
「雪杜がまた“あんたに惹かれる”ってこと!!
記憶消してるのに!!本能で!!」
その一言に、御珠の息が止まった。
胸の奥に影が落ちる。
少年を再び同じ未来に導くことだけは、絶対に許せない。
「……っ……そなたの言う通りじゃ……
雪杜にはちゃんとした人生を歩んで欲しいのじゃ……」
その声はかすかに震え、光の粒が寄り添うように揺れた。
女神はその揺れに気づき、わずかに表情を和らげた。
さっきまで魅了でクラついていた面影はもうない。
完全に仕事モードの落ち着いた声だった。
「安心しなさい。
あんたは姿も声も認識できない“風の粒”みたいな存在で送るから」
「風の……粒……?」
「ええ。
でも“そばにいる”ことはできる。
雪杜が泣く日も、笑う日も、子どもを抱く日も──
全部見届けていい」
御珠は言葉を失い、ただ画面を見つめる。
少年の涙が、光の粒子の海に揺れていた。
女神は、ふっと優しく言った。
「……あんたの祈りは確かだった。
その結果が、あの子の涙よ。
だから、最後まで見守りなさい」
御珠は静かに呟く。
「……雪杜……
妾は……そなたのそばに……」
「うん。でも“触れない”し“届かない”し“認識されない”からね」
「……よい……それでよい……
雪杜が……幸せであれば……」
その声はやさしく、すこしだけ痛かった。
女神は小さく笑う。
「……ほんと、あんたみたいな神……初めてだわ」
光の中で、御珠は静かにまぶたを伏せた。
残るのは、祈りだけだった。
────
観測画面に揺れる光の中で、雪杜が泣いていた。
小さな手で目元を拭いながら、見えない誰かへ向けて、必死に祈るように。
その姿を背に映しながら、女神は静かに指を伸ばした。
「いい? あんた、不可視の観測者になるってことは──
“雪杜の死”まで見届けるってことなのよ?」
その一言が御珠の胸を刺す。
指先がほんのわずか震えた。
震えが広がっていくのを、光の粒子だけがそっとなぞる。
女神はその揺れに気づいたうえで、淡々と続けた。
「彼は普通の人間。
成長して、恋して、家庭を持って……
その先には、老いることも、弱ることも、息が止まる日もある」
御珠の声は、押し殺した息の奥で揺れていた。
「……わかっておる」
女神は視線を画面に戻し、低く告げる。
「最後の瞬間、彼は誰の名前も呼ばない。
あんたの姿も、声も、気配も──
一生、気づかれない。
それでも見守るの?」
光の海が静かに揺れ、御珠はそっとまぶたを閉じた。
粒のようなまつげが震え、その振動は涙の代わりに光を零す。
そして、迷いを撫で消すように――
はっきりと口を開いた。
「……当然じゃ。
妾は……雪杜の幸せのすべてを……最期の瞬間まで見届けたい」
その声音は、揺れながらも強かった。
祈りとしての覚悟が、やっと言葉になった瞬間だった。
女神は息を飲む。
「……本気で言ってるの?」
「本気じゃ。
雪杜の生きるすべてを“祈り”として見守る。
それが妾の……雪杜への最後の奉納じゃ」
しばらく、光の粒だけが動いた。
女神はその決意を受け止めきれず、ほんの少し顔をそらす。
(……軽度魅了の余韻……。
まともに顔を見たら、言葉の意味すら頭に入らなくなるじゃない……)
視線を逸らしながら、絞り出すように言う。
「……あんたみたいな神、ほんと見たことないわ」
「褒め言葉として受け取っておく」
すました声に、女神は反射的に返す。
「褒めてない!!
……けど……まあ、いいわ。
覚悟があるんなら、止める理由はない」
指を鳴らすと、御珠の身体がふわりと粒子へほどけていった。
光が髪を解き、肌を薄くし、存在をふわりと軽くしていく。
「じゃあ──“風の粒”として地上に戻って」
御珠は穏やかに頷いた。
「……うむ」
その瞬間、女神がふと何かを思い出したように声をかける。
「……あのね。
雪杜を看取った後、あんたがどうなるか……
自分で考えてる?」
御珠は粒子になりかけた身体を止め、小さく目を開いた。
「妾は……どうなるのじゃ?」
女神は答えず、ただ視線を落とした。
「……その答えは、雪杜の人生を最後まで見届けた“あと”に受け取ることになるわ」
「……あと、か」
「怖い?」
問いかけは優しい。
まるで、傷口に触れる指先のように。
御珠はそれに小さく笑ってみせた。
「雪杜が幸せに生きてくれるなら……
妾はどうなっても構わぬ」
その言葉が光に滲み、女神の横顔に届く。
彼女は目を伏せ、ほんの小さな声で呟いた。
「……やっぱり、あんたは……バカね」
言葉の奥にある痛みは、誰にも拾われない。
御珠の身体が完全に光へ溶け、風へ変わる。
そして――
その風は、雪杜の一生へ寄り添うために地上へ降りていった。
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