#5:真壁沙耶は気づいている


-情報システム課・夕方-


定時をすぎた静かなオフィス。

蛍光灯が半分落ち、窓からの光が机を淡く照らしている。


私は書類整理をしながら、

横目で二人のやり取りを「見ないふり」をしていた。


神谷蓮と篠田葵。

ここ最近……いや、はっきり言えば、少し前のエレベーターに閉じ込められた一件から距離が変わった気がする。


「神谷さん、もっとわかりやすく説明してくださいよ!」

篠田が言いながら、ひょいっと神谷の近くに寄る。


「お前がメモを取らなかっただけだろ」

蓮は淡々と返すが、以前より言い方が柔らかい。


(……近いわね)


私はホチキスを止める手を止め、二人を見つめた。

篠田の身を乗り出す傾向は今に始まったことじゃない。

だが、最近の蓮は――避けていない。

むしろ、「受け止めてしまっている」ように見える。


気づかないふりをするのは、意外と労力がいる。


私は蓮を“特別”だと思っている。

それは恋かもしれないし、尊敬かもしれない。

ただその境界が曖昧だからこそ、壊したくなかった。


(あの距離感……私はどうなんだろう)


篠田が天真爛漫に笑う横で、

蓮の目元が柔らかくなる瞬間。


それを見るたび、

胸の奥に、小さな針でつつかれたような痛みが走る。


でも、その痛みを顔に出すわけにもいかない。

だって私は“先輩”で、

“仕事ができる人間”でいなきゃいけないから。


篠田が資料を運ぶ時、指が蓮と触れたのだろう。


「あっ、ご、ごめんなさい!」

「……気にするな」


蓮は静かに答えたが――

私は知っている。

あの人は動揺すると、まばたきが増えるのだ。


(……ほんと、わかりやすいんだから)


そして私は、誰にも見えないように笑った。


苦笑とも、諦め笑いともつかない微妙なもの。


(こういう時、自分の性格が嫌になるわ)


オフィスを出るタイミングがたまたま三人一緒になった。


「真壁先輩、帰り一緒に……」

「悪いけど、今日は寄るところがあるの」

篠田はきょとんとした顔で固まる。


――可愛い後輩め。


私はあえて蓮から距離を取った。


「じゃあ、また明日!」


篠田は元気よく手を振り、蓮の横に並ぶ。


二人の影が、

夕焼けの廊下で並んで揺れた。


私はすれ違いざま、小さな声で呟く。


「……気づいてるわよ。

でも、応援してあげるなんて、簡単には言えないのよ」


恋は、

変化していく過程もまた痛い。


でも――

その痛みを抱えて歩くのも、大人の役目なのかもしれない。


長い影のなかを進みながら、

私はそっと目を閉じた。


「……二人とも、幸せになってほしいのに。

どうしてこんなに複雑なんだろうね、蓮」


名前を呼んでしまった自分に驚き、

私は立ち止まる。

(……ほんと。わかりやすいわね)


廊下の先では、

二人が並んで歩いていく背中が見えた。


ふっと胸に冷たい風が吹いた気がした。

でも、その直後――妙な虚しさが押し寄せてきた。


一人で歩く廊下が、やけに広い。


「……はぁ」


気づいたら、私は二人の背中を追っていた。


足が勝手に動いていたのだ。


「やっぱり、今日の用事はなかったわ。どこに行くの?」

「やったぁ! じゃあ三人でカラオケに行きましょうよ!」

と篠田がはしゃぎ、蓮は頭を押さえた。


「いや……明日も仕事だろ」

「明日は会議も入ってなかったはずよ?」

私が軽く笑うと、蓮は苦い顔をする。


「沙耶……お前もそっち派か……」

「はいはい、今日は“そっち派”が多数です!」

「仕方ない……3時間だけだぞ」

「3時間はガチですよ神谷さん!!」


三人の影が並んで、廊下を進んでいく。


その横顔を見つめながら、

私はそっと心のなかで呟く。


(……もう少しだけでいい。この距離のまま、歩かせて)


ほんの一瞬、胸が痛む。

でも同時に、少しだけ温かかった。


――明日も、また三人で笑える。

それなら、それでいい。

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【第3部スピンオフ】医療事務ですが、病院で謎を追ってます! 暁月 @emk01x

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