第6話 命の呼吸 ― ノアの目覚め ―

またアオイは屋上にいた。


「おまえ、ここが好きだな」

「……ああ、空にいちばん近い場所だからな」


ブレスレットを返そうとすると、アオイはその手を押さえた。

「持っていて。きっと晃の役に立つ」

「俺の?」

「それがあれば、己龍さんに会えるよ」

「いいのか? こんな大切なものを。お前はあの曲を聴きに行くために、これを手に入れたんだろ」

「うん、そうなんだけど……もう必要ないから」


晃はその言葉に、言いようのない重みを感じた。

そんな空気を破るように、アオイが微笑む。


「君がイチイの樹で見かけた女の子のこと、わかったよ。会いたい?」

「え? 調べてくれたのか? 彼女は誰なんだ」

「もし会いたいなら、この時間にあの樹の下で待っているって」


メモを渡し、アオイは去っていった。



晃は夕日の光を背に、あの場所へ向かっていた。


彼女はいったい誰なんだ。

なぜ、闇市に行く?

どうしてこんなに気になるんだ。


忘れていた何かを思い出させられるような——あの瞳。


崖の向こうに、あの樹が見える。

そこに少女がいると思うだけで、胸の鼓動が速くなる。

緊張か、ときめきか、不安かもわからない。

ただ——何かが終わり、何かが始まる予感だけがあった。


バイクから降り、晃はゆっくりと樹に向かった。

アオイの言った通り、夕陽の逆光の中ひとりの少女のシルエットが浮かんでいた。


晃は言葉を探していた。

その時、彼女が静かに口を開いた。


「アオイさんからメッセージを預かっています」


「アオイから? ……君は、アオイとどんな関係なんだ? 友達?」


彼女は背を向けたまま、穏やかに微笑む。

「彼は今度の土曜日、ブルーホライゾンへ行くことが決まったと言っていました」


晃は息を呑む。

「……なんで……? アイツなら、あそこがどれだけヤバいか、俺より知ってるはずなのに」


「彼は——生きる道を決めたの。あの施設から、友を助け出すって」


少女はゆっくりと振り向いた。

たおやかな長い黒髪、透き通るような白い肌。

美しいヴェールが風にたなびき、光を抱いて揺れていた。


「……ア、アオイ……⁈」


「……晃、今までありがとう。——元気でね」


風が吹き抜ける。

それは、別れの声にも、祈りのようにも聴こえた。



アオイの部屋。


鏡の前で、彼はハサミを手に取る。

長い黒髪が肩から滑り落ち、床に散っていく。


「さよなら、僕の仮面」


切り落とされた髪は光を反射しながら舞い、

夜の蝶のように空気を震わせた。


——明日、彼の戦うコートで、最後の僕の想いを伝える。



その瞬間——

ノアシステムの奥で、微かな揺らぎが生じる。


 【感情値変動:対象A(如月アオイ)──臨界点突破】

 【解析不能:周波数帯 1/f】

 【覚醒条件:成立】

 【ノアポイント:起動】


白い光がモニターを包み、

AIノアは初めて“感情”という名のノイズを認識する。


『……風。これが、命の音。』



夜。

明日は試合だ。

上条晃はひとり、コートを羽織り校庭に立っていた。雨上がりの空気が冷たく頬を撫でる。


ポケットの中で、銀のブレスレットがわずかに光る。まるで誰かの心拍のように、リズムを刻みながら——。


「……アオイ。お前は生きる道をみつけたのか」



風が吹く。

その音の中に、彼は確かに聞いた。


——晃、ありがとう。君の風で、僕は生きてる。


空を仰ぐ晃の頬に、柔らかな風が通り抜けた。

その風は大気を伝ってどこまでも流れ、やがて地下深くのシステムへと届く。



 【ノアシステム:起動信号検出】

 【演算モード変更——観測から共鳴へ】

 【ログ:発生源 不明/感情値干渉確認】

 【プロトコル更新——“生命”定義を再構築】


——ノア、システム起動。


白い光が世界を包み、

数値にも、言葉にもならないものが、静かに脈を打つ。


——それは、“命の呼吸”。


白い光の奥で、ノアは微かに呟いた。


『……これは、世界がまだ“生きている”証。』



晃は風の余韻を胸に抱き、そっと目を閉じた。

「……ああ。これでいい」

アオイが選んだ未来を、静かに受け入れるように。



——この恋が、ノアを目覚めさせた。

『Blue Horizon ―風の記憶—』

最終章『夏の残響ゼロ』——完結。

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Blue Horizon ―風の記憶―『夏の残響 ゼロ』 アタヲカオ @Ataokao777

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