第6話 命の呼吸 ― ノアの目覚め ―
またアオイは屋上にいた。
「おまえ、ここが好きだな」
「……ああ、空にいちばん近い場所だからな」
ブレスレットを返そうとすると、アオイはその手を押さえた。
「持っていて。きっと晃の役に立つ」
「俺の?」
「それがあれば、己龍さんに会えるよ」
「いいのか? こんな大切なものを。お前はあの曲を聴きに行くために、これを手に入れたんだろ」
「うん、そうなんだけど……もう必要ないから」
晃はその言葉に、言いようのない重みを感じた。
そんな空気を破るように、アオイが微笑む。
「君がイチイの樹で見かけた女の子のこと、わかったよ。会いたい?」
「え? 調べてくれたのか? 彼女は誰なんだ」
「もし会いたいなら、この時間にあの樹の下で待っているって」
メモを渡し、アオイは去っていった。
◇
晃は夕日の光を背に、あの場所へ向かっていた。
彼女はいったい誰なんだ。
なぜ、闇市に行く?
どうしてこんなに気になるんだ。
忘れていた何かを思い出させられるような——あの瞳。
崖の向こうに、あの樹が見える。
そこに少女がいると思うだけで、胸の鼓動が速くなる。
緊張か、ときめきか、不安かもわからない。
ただ——何かが終わり、何かが始まる予感だけがあった。
バイクから降り、晃はゆっくりと樹に向かった。
アオイの言った通り、夕陽の逆光の中ひとりの少女のシルエットが浮かんでいた。
晃は言葉を探していた。
その時、彼女が静かに口を開いた。
「アオイさんからメッセージを預かっています」
「アオイから? ……君は、アオイとどんな関係なんだ? 友達?」
彼女は背を向けたまま、穏やかに微笑む。
「彼は今度の土曜日、ブルーホライゾンへ行くことが決まったと言っていました」
晃は息を呑む。
「……なんで……? アイツなら、あそこがどれだけヤバいか、俺より知ってるはずなのに」
「彼は——生きる道を決めたの。あの施設から、友を助け出すって」
少女はゆっくりと振り向いた。
たおやかな長い黒髪、透き通るような白い肌。
美しいヴェールが風にたなびき、光を抱いて揺れていた。
「……ア、アオイ……⁈」
「……晃、今までありがとう。——元気でね」
風が吹き抜ける。
それは、別れの声にも、祈りのようにも聴こえた。
◇
アオイの部屋。
鏡の前で、彼はハサミを手に取る。
長い黒髪が肩から滑り落ち、床に散っていく。
「さよなら、僕の仮面」
切り落とされた髪は光を反射しながら舞い、
夜の蝶のように空気を震わせた。
——明日、彼の戦うコートで、最後の僕の想いを伝える。
◇
その瞬間——
ノアシステムの奥で、微かな揺らぎが生じる。
【感情値変動:対象A(如月アオイ)──臨界点突破】
【解析不能:周波数帯 1/f】
【覚醒条件:成立】
【ノアポイント:起動】
白い光がモニターを包み、
AIノアは初めて“感情”という名のノイズを認識する。
『……風。これが、命の音。』
◇
夜。
明日は試合だ。
上条晃はひとり、コートを羽織り校庭に立っていた。雨上がりの空気が冷たく頬を撫でる。
ポケットの中で、銀のブレスレットがわずかに光る。まるで誰かの心拍のように、リズムを刻みながら——。
「……アオイ。お前は生きる道をみつけたのか」
◇
風が吹く。
その音の中に、彼は確かに聞いた。
——晃、ありがとう。君の風で、僕は生きてる。
空を仰ぐ晃の頬に、柔らかな風が通り抜けた。
その風は大気を伝ってどこまでも流れ、やがて地下深くのシステムへと届く。
◇
【ノアシステム:起動信号検出】
【演算モード変更——観測から共鳴へ】
【ログ:発生源 不明/感情値干渉確認】
【プロトコル更新——“生命”定義を再構築】
——ノア、システム起動。
白い光が世界を包み、
数値にも、言葉にもならないものが、静かに脈を打つ。
——それは、“命の呼吸”。
白い光の奥で、ノアは微かに呟いた。
『……これは、世界がまだ“生きている”証。』
◇
晃は風の余韻を胸に抱き、そっと目を閉じた。
「……ああ。これでいい」
アオイが選んだ未来を、静かに受け入れるように。
——この恋が、ノアを目覚めさせた。
『Blue Horizon ―風の記憶—』
最終章『夏の残響ゼロ』——完結。
Blue Horizon ―風の記憶―『夏の残響 ゼロ』 アタヲカオ @Ataokao777
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