Ep.9 —言葉の海、沈黙の海岸線

場所:クレー特別行政区 ニホ区 KIOKU中央アーカイブ棟著者:ナガセ・メイ(『Common Tide』ライター ・ 元KIOKUアーカイブ調査員)/ ニッケイ台湾人)


雨の匂いは、記憶の扉をこじ開ける鍵だ――なんて書き出しは、いささか手垢がつきすぎているかもしれない。


でも、この街の雨は特別にタチが悪い。


クレー特別行政区、ニホ区。 人工地盤と多層高架が複雑に絡み合うこの街の雨は、コンクリートの灰汁(あく)と、港湾地区から漂う重油の匂い、それにどこかの屋台が焦がした安醤油の匂いをたっぷり吸い込んで落ちてくる。


その匂いは、私の鼻腔をじっとりと塞ぎ、思考を強制的に過去へと引きずり戻す。


私は今、ニホ区の丘陵地帯、うっそうとした森の中に鎮座する巨大なコンクリートの箱の中にいる。 「日台言語・文化財保存協定(KIOKU)」(※1) のアーカイブ棟。 簡単に言えば、死んだ言葉たちの巨大な墓場だ。


分厚い壁を叩く冷たい雨音を聞きながら、私は不意に、遠い故郷の雨を思い出していた。


台湾・高雄。


私が生まれ育ったあの街の雨は、もっと暴力的で、それでいて陽気だった。 亜熱帯のスコールが、庭のガジュマルの厚い葉をバタバタと叩く音。濡れたアスファルトから立ち上る、果物が熟れたような甘く重たい湿気。


その雨音の中で、祖父はいつも決まって、古い詩集を広げていた。 手垢で茶色に変色した背表紙には、『中原中也詩集』と、色褪せた金文字で刻まれている。


祖父は幼い私を膝に乗せ、独特の跳ねるような、それでいてどこか突き放したようなリズムで、ある詩を繰り返し読んで聞かせた。


愛するものは、死んだのですから

たしかにそれは、死んだのですから

もはやどうにも、ならぬのですから

そのもののために、そのもののために

ー中原中也『春日狂想』(※2)


幼い私にとって、それは意味不明な呪文でしかなかった。ただ、祖父の低くしわがれた声が、喉の奥で微かに震えているのを感じていた。


「メイ、よくお聞き」


祖父は読み終えると、決まって私の頭を撫でながらこう言った。


「こりゃあ悲しい詩じゃあないんよ。諦めの作法、いうやつじゃ。大事なもんが死んでしもうたあとでもの、ほいでも残ったもんが、どうやって息しよって、飯食うて、どうやって生きていくか。そういうための作法なんよ」


それから20年。 私は今、その「愛するもの」が完全に死に絶え、ミイラになって展示されている国――ニホンにいる。


ここにあるのは、中原中也の感傷など1ミリも介在しない、コンクリートと電子音、そして終わらない工事の騒音(ノイズ)の世界だ。


街角で飛び交うのは、英語と中国語と港湾スラングがミキサーにかけられ、早回しで再生されたようなチャンポン語(※3)。 祖父が愛し、私が継承した正しい日本語は、ここでは死語であり、博物館のガラスケースの中に鎮座する冷たい標本になっている。


正直に言えば、この場所の「清浄な空気」は私の肌に合わない。空調が効きすぎているのだ。 湿度管理されたアーカイブ室に長時間いると、私の喉はカラカラに乾き、無性に塩分と油分――具体的にはオールド・ヒロの屋台のソース――を欲し始める。


「……ナガセさん。そんなに怖い顔をして、何を睨んでいるんです?」


背後から声をかけられ、私は我に返った。危ない、もう少しで空腹のあまりタブレットを齧るところだった。 振り返ると、白衣を着た小柄な老人が立っていた。


楊(ヤン)教授。ここKIOKUの主任アーキビストであり、台湾国立成功大学から派遣された私の恩師だ。


「先生……いえ、別に。ただ、腹の虫が鳴りそうなのを誤魔化すのに必死だっただけです」 「相変わらずですね。ここは神聖な過去の保存庫ですよ」 「過去の墓場、でしょう? 幽霊だってお供え物は欲しいはずです」 「ふむ。君らしい」


楊教授は皮肉っぽく笑い、私が閲覧していたタブレット画面――1947年のマニラ覚書 (※4) に関する極秘指定が解除されたばかりの公文書――を覗き込んだ。


「……マニラ覚書。君はまだ、あの答えを探しているのですか? なぜ、同じニッケイでありながら、台湾の我々は言葉を守り、本土の彼らは言葉を捨てたのか。その理由を」


私は黙って頷いた。


それは、私がこの国に来てからずっと抱えている、喉に刺さった小骨のような問いだった。いや、小骨というよりは、誤って飲み込んだ魚の骨が、そのまま胃壁に突き刺さっているような不快感だ。


歴史の教科書は、この問いに対して簡潔すぎる答えを用意している。インスタント食品のパッケージ裏の説明書きよりも淡白な答えだ。


『台湾では、ニッケイ移民が指導層に組み込まれたため言語が維持されたが、ニホン本土では連合軍政下での英語化圧力により消失した』


間違ってはいない。ファクトとしては正確だ。 だが、そこには「痛み」と「意思」、そして「生活の匂い」が欠けている。


言葉は、自然に残ったり消えたりはしない。雨が降れば地面が濡れるのとは訳が違う。 それは、当時の人々が、血を吐くような思いで下した政治的決断の結果であり、もっと言えば「生き残るために何を食べ、何を捨てたか」という生存戦略の記録なのだ。


1947年、ニホン本土は地獄だった。 本土決戦による国土壊滅。連合軍による4回の核攻撃、散布された化学兵器による汚染区域の拡大。そして、圧倒的な飢餓。


大陸に取り残された数百万人の難民――官僚、技術者、軍人、そして一般市民――は、海を渡り、まだ統治機構が温存されていた旧植民地、台湾へと殺到した。世に言う「大離散」(※5) である。


当時の台湾もまた、危機に瀕していた。 大陸では国共内戦が激化し、敗走する国民党軍と、それを追う共産党軍の影が迫っていた。台湾海峡は、次に飲み込まれる場所として世界中から注視されていた。


台湾の現地エリートたちは、究極の選択を迫られたはずだ。 野蛮な戦乱を持ち込む大陸勢力に飲み込まれるか、それとも、逃げてきたニッケイ難民たちと手を組んで、独自の砦を築くか。


彼らは後者を選んだ。 台湾暫定行政庁(TPA ※6) の設立と、歴史的な社会契約。


ニッケイは、近代的な行政能力と残存する軍事技術を提供する。台湾人は、土地と食料、そして居住権を提供する。共通の敵である共産主義に対抗するための、冷徹で実利的な生存同盟だ。


この時、日本語は奇妙な役割を果たした。 台湾の知識人階級にとって、日本語は長年の統治により習得済みの「近代化の言語」であり、法学や医学を修めるための共通プロトコルだった。彼らにとって、難民として来たニッケイたちと高度な政治交渉をするには、北京語でも英語でもなく、日本語の方が遥かにスムーズだったのだ。


祖父は酒が入ると、よく当時のことを語っていた。 「あの頃、日本語を話すことは『我々は大陸の農民とは違う、近代市民だ』という宣言だったんだよ、メイ。あれは誇りのバッジだった」


だから彼らは、日本語を捨てなかった。 むしろ、新国家「台湾」の公用語の一つ、技術と法の言語として採用し、厳格に保存した。


それはニホンへの忠誠心からではない。自分たちが高度な文明国であることを内外に示すための、政治的な武器として必要だったのだ。 台湾における日本語は、ノスタルジーではなく、プライドと実益のために冷凍保存された。


では、本土はどうだったのか? なぜ、彼らは武器を捨てたのか?


その答えを知るために、私はアーカイブの冷たい空気を逃げ出し、もっと湿度の高い、生々しい場所へ向かう必要があった。 資料の続きは、タブレットの中ではなく、この街のしわくちゃな老婆の記憶の中にある。


「先生、すみません。ちょっと出かけてきます」 「おや、もう調査は終わりですか?」 「いえ、フィールドワークです。それに」


私はお腹をさすりながら苦笑いした。


「この部屋はちょっと、インクとカビの匂いがきつすぎます。もう少し、油の匂いがする場所で話を聞いてきます」


アーカイブ棟を出ると、雨は小降りになっていた。 私はシェアサイクル(ぴーすくる)のサドルをハンカチで拭き、湿った風を切って坂を下る。目指すはセト区、モトマチ・リバーサイドだ。


官庁街の無機質なビルの裏手に、まるで巨大な屏風のようにそびえ立つ高層ダンチ群が見えてくる。


戦後の混乱期、川沿いのバラック街を一掃するために建てられたというこのコンクリートの迷宮は、今ではすっかり煤(すす)け、壁面には無数のパイプとエアコンの室外機が、フジツボのようにびっしりと張り付いている。


そこは、生活の匂いが充満する場所だ。 夕飯の支度をする匂い。中華鍋を振る音。どこかの部屋から漏れ聞こえるテレビの喧騒。そして、川から吹き上げる泥の臭い。 KIOKUの無菌室とは対極にある、細菌と熱量に満ちたこの場所こそが、私が一番落ち着く「現場」だ。


30階建てのC棟のエレベーターは、予想通り故障していた。 「運動不足の解消にはもってこいだ」と自分に言い聞かせ、カビ臭い階段を上がる。12階に着く頃には、私の額には汗が滲み、息が上がっていた。これだからフィールドワークは、肉体労働なのだ。


目的の部屋、1205号室のドアを叩く。 「誰だい?」 しゃがれた、警戒心丸出しの声。 「Common Tideのナガセです。ハルさん、先日お電話した……」


チェーンロックが外れ、重い鉄扉がゆっくりと開いた。 そこに立っていたのは、身長150センチにも満たない、しかし眼光の鋭い小柄な老婆だった。ハルさん(89歳)。このモトマチ・リバーサイドの主(ぬし)であり、日本語を完全な母語として使う最後の世代の一人だ。


部屋の中は、驚くほど混沌としていた。 万年床と、古い仏壇。そこまでは予想通りだ。しかし、壁一面には、なぜか英語のポスターや、アメリカの古い映画の切り抜きが、隙間なく貼られている。マリリン・モンローと仏壇の遺影が並んでいる光景は、シュールレアリスムの絵画のようだ。


私が手土産の馬拉糕(台湾の蒸しパン)を差し出すと、彼女は「気が利くね」とニヤリと笑い、熱いお茶を淹れてくれた。


「それで? また『昔の言葉』の話かい?」 ハルさんは、ふかふかの馬拉糕を一口で頬張りながら言った。


私は居住まいを正し、できるだけ丁寧な標準語(旧日本語)で切り出した。 「はい。ハルさんが子供の頃、どうやって言葉が変わっていったのか、その時のことを教えていただきたくて」


すると、彼女の表情が曇った。 咀嚼(そしゃく)が止まる。 彼女は露骨に顔をしかめると、先ほどまでの穏やかな空気とは一変した、荒っぽいチャンポン語でこう吐き捨てた。


「No use narrative.(そんな話、役に立たないよ)」 「嫌だよ。古い言葉は死人の匂いがする」


彼女の拒絶反応は、単なる「思い出したくない」というレベルを超えていた。まるで、腐った食べ物を前にした時のような、生理的な嫌悪感。 私は直感した。これは、私の祖父が持っていた「誇り」とは、全く別の種類の感情だ。


彼女は語り始めた。 1947年、軍政庁の統治が始まった時、彼女は10歳だった。 空襲で家を焼かれ、両親を失い、瓦礫の中で腹を空かせていた少女。


当時のニホンには、何もなかった。食料も、仕事も、希望も、法律さえも。唯一あったのは、進駐してきた連合軍と、彼らが配るレーション(戦闘糧食)だけだった。


「配給カードも、仕事の申請書も、全部英語だったんだ」


ハルさんの声は震えていた。チャンポン語と旧日本語が混ざり合い、奇妙なリズムを刻む。


「軍政庁の役人は、効率が全てだった。日本語しか話せない奴は列の後ろへ。英語が分かる奴は前へ。その単純な選別が、その日の命を決めたんだ」


通訳の列に並んでいる間に、その日の配給パンが尽きる。そんなことが毎日続いた。 パンがなければ死ぬ。実にシンプルな理屈だ。 母親たちは、ガリガリに痩せた子供に、涙を流しながら英語を叩き込んだという。


「発音が悪いと、MP(憲兵)に笑われて何ももらえないんだ。だから、お母ちゃんは私の口に小石を含ませて、血が出るまで『R』と『L』の練習をさせた」


ハルさんは、自分の顎をさすった。まるで、その時の小石の冷たさと、口の中に広がる鉄錆のような血の味が、まだそこに残っているかのように。


「『アイ・アム・ハングリー』。これだけ言えれば、チョコレートがもらえた。でも、『お腹が空きました』って日本語で泣いても、銃床で殴られるだけだった。『Speak human language(人間の言葉で喋れ)』って言われてね」


ハルさんは、枯れた指で虚空を掴んだ。 「日本語は飢えの言葉だ。英語はパンの言葉だったんだよ」


その一言は、私の胸に重く響いた。 私の祖父にとって、日本語は「農民とは違う近代市民であることの証明」だった。 しかし、ハルさんたちにとって、日本語は「飢餓と屈辱の記憶」そのものだったのだ。


教科書を燃やして暖を取り、その炎でかじかんだ手を温めながら、彼らは親の言葉を捨てた。 『羅生門』のページが一番よく燃えたよ、と彼女は自嘲気味に笑った。文化が、文字通り生存の燃料にされたのだ。


台湾では、誇りを守るために言葉が残された。 ニホンでは、命を守るために言葉が捨てられた。


どちらが正しいとか、間違っているとかいう話ではない。ただ、その選択の背景にある「腹の減り具合」が違っただけだ。 祖父が読んでくれた中原中也の詩が、ふと脳裏をよぎる。


『愛するものは、死んだのですから』


そう、彼らにとって、愛すべき日本語は、故郷とともに焼け死んだのだ。 たしかにそれは、死んだのだ。 もはやどうにも、ならないのだ。


だから彼らは、「そのもののために」――死んでしまった愛するもののために、新しい言葉(英語)を覚え、泥水をすすり、生き延びることを選んだ。 言葉を捨てることは、彼らにとっての喪服を着ることだったのかもしれない。


「……話してくれて、ありがとうございます」


私が深く頭を下げると、ハルさんは急に照れくさそうな顔をして、「もういいよ、湿っぽい話は腹が減る」と言って、残りの馬拉糕を口に放り込んだ。


インタビューを終え、モトマチ・リバーサイドを出る頃には、すっかり日が暮れていた。 雨上がりのアスファルトに、街のネオンサインが極彩色に反射している。


看板の文字は、英語と、簡略化された漢字と、ハングルが混ざり合った独特のタイポグラフィだ。この混沌とした文字の羅列こそが、ハルさんたちが「生きるために発明した」生存の記録なのだと思うと、少しだけ愛おしく見えてくる。


ふと、信号待ちをしている若いカップルが目に留まった。 最新のサイバーファッションに身を包み、身体のあちこちにLEDを埋め込んだ彼らの首筋には、黒々としたタトゥーが刻まれている。


男の首には、ゴシック体で『冷蔵庫』。 女の腕には、明朝体で『台所』。


私は思わず足を止め、二度見した。 ……レイゾウコ? ダイドコロ? 笑い話ではない。これは、この国で最近頻繁に見かける光景だ。


おそらく彼らにとって、その漢字の意味はどうでもいいのだ。冷という字のシャープな形、蔵という字の複雑な構造。それがかっこいいデザイン、あるいは「失われた古代文字」として認識されている。


以前、そういう若者にインタビューした時のことを思い出す。 「その漢字の意味、知ってる?」と聞いた私に、彼は悪びれもせず答えた。 「知らねぇよ。でも、なんかサイバーでイカすだろ? 死んだじいちゃんが、昔こういうのを筆で書いてたんだ。なんていうか……ルーツへのリスペクト、みたいな?」


リスペクト。 彼はそう言った。 『冷蔵庫』という文字を身体に刻むことが、彼なりの、失われた祖先への敬意なのだと。


私はその時、彼を笑えなかった。むしろ、泣きたくなった。 愛するものは、死んだのだ。 だから彼らは、その死体――意味を失った漢字の形――だけを拾い上げ、意味もわからぬまま肌に焼き付けている。


「そのもののために」。 それは、滑稽で、無知で、けれど痛々しいほどに切実な、彼らなりの鎮魂歌なのかもしれない。


私は自分の頬を軽く叩いた。 今の思考、ちょっとセンチメンタルになりすぎだ。


こういう時に、失われた文化への鎮魂歌なんて綺麗な言葉でまとめようとするのは、私の悪い癖だ。物書きのエゴだ。 単に「漢字の使い方が変だ」で済む話を、勝手に悲劇の物語に仕立て上げようとしている。 彼らは彼らで、ファッションを楽しんでいるだけだ。それをかわいそうと決めつけるのは、私の傲慢に他ならない。


単純に血糖値が下がっている。 ハルさんの話を聞いて神経を使い、階段を12階分も上り下りしたのだ。私の脳は今、ブドウ糖と、そして何より強烈な塩分を求めて悲鳴を上げている。


私は頭の中の「かわいそうな話」を強制終了するために、自転車のペダルを強く踏み込んだ。 目指すはオールド・ヒロにある馴染みの屋台「ハオシャオ・ホアチャン」。 悩んだ時は、鉄板の前に座るに限る。 ソースの匂いは、どんなポエムよりも雄弁だ。


冷蔵庫だろうが台所だろうが、その中に入っている食材が美味ければ、それでいいじゃないか。


「メイちゃん、いらっしゃい。今日は遅かったね」


オールド・ヒロの路地裏、ビニールシートで囲われただけの屋台「ハオシャオ・ホアチャン」。 店主であるベトナム系のおばちゃんが、湯気の向こうからいつもの満面の笑みで迎えてくれた。 彼女の笑顔には、KIOKUのアーカイブ室にあるような高尚な知性はないが、もっと実用的な「安心」がある。


「いつもの、お願い。キャベツ多め、麺カタ、ソース濃いめで」


私は席に座るなり、早口で注文を叩き込んだ。


「はいよ、ソース濃いめね。疲れてるのかい?」 「頭を使いすぎたの。塩分が必要」 「あいよ!」


鉄板の上で、キャベツと生地と豚肉が焼ける音がする。 ジュワーッという激しい音と共に、甘辛いソースの香ばしい匂いが立ち上り、私の鼻腔を一瞬で占領する。


この匂いだ。 焦げた醤油と、安っぽいスパイスと、豚の脂が混ざり合った、暴力的とも言える食欲の匂い。


この匂いを嗅ぐと、さっきまで頭の中で渦巻いていた歴史の悲劇や言語の死といった高尚な問いが、物理的に脳みその端っこへ押し出されていくのを感じる。 食欲という原始的な力が、理屈をねじ伏せる瞬間だ。 やはり私の持論は正しい。「悩んだ時は、鉄板の前に座るに限る」。


隣の席には、港湾労働者の男たちが三人座っていた。 作業着は油と泥で汚れ、腕には安全第一の腕章。ヘルメットを脇に抱え、ジョッキ片手に顔を赤くしている。 彼らは典型的なチャンポン語で、上司の悪口や、昨日のボートレースの結果について大声で盛り上がっていた。


「That boss is gumi!(あの上司はゴミだ!)」 「Total waste time!(時間の無駄だ!)」 「No money, no honey, ya?(金がなきゃ女もいねぇ、だろ?)」


彼らの言葉は荒っぽい。英語のスラングと、汚い日本語と、マレー語がミキサーにかけられ、機関銃のように飛び交う。


そこに、私の祖父が愛した中原中也の詩のような繊細さは、これっぽっちもない。 文法は崩壊し、単語は乱暴に短縮され、意味さえ通じればいいという実用性だけで繋ぎ合わされている。 ハルさんが言った「死人の匂いがする言葉」とは対極にある、生きるための騒音だ。


その時、おばちゃんが焼き上がった熱々のハオシャオを三枚、彼らの前にドスンと置いた。 「お待ちどう! 熱いから気をつけて!」 大量の湯気が立ち上り、一瞬、彼らの姿が白く霞む。


その白い湯気の中で、不思議なことが起きた。 それまで機関銃のように喋り散らかしていた男たちが、不意に口を閉ざしたのだ。


ジョッキをテーブルに置き、背筋を少しだけ伸ばし、一斉に両手を合わせる。 屋台の喧騒、遠くのパトカーのサイレン、鉄板が爆ぜる音。それらすべてのノイズが、一瞬だけミュートされたような静寂。


その静寂の中に、小さく、しかし驚くほど重みのある音が落ちた。


「イタダキマス」(※7)


その一言だけは。 その一瞬だけは、驚くほど正確な、美しい日本語の発音だった。 英語の「Let's eat」でも、中国語の「開動了」でもない。 食事の前に、命に感謝し、作る人に感謝する、あの古風な日本語。


それは、おそらく親から子へ、食卓を通じて叩き込まれた音なのだろう。 教科書が燃やされ、文法が忘れられ、漢字が読めなくなっても。 「飯を食う前にはこう言うんだ。そうしないとバチが当たるぞ」 そうやって、理屈ではなく、ハオシャオを食べるための身体的な作法(ルーチン)としてだけ、しぶとく受け継がれてきた言葉。


彼らはその言葉の意味――「頂く」という謙譲のニュアンスや、仏教的な命への感謝――を、言語学的に説明することはできないかもしれない。 もしKIOKUの楊教授がここにいたら、「意味を喪失し、形骸化した儀礼だ」と嘆くかもしれない。 「冷蔵庫」のタトゥーと同じ、空っぽの器だと。


でも、私にはそうは思えなかった。


彼らは、この言葉を口にする時、自分たちがただの労働機械ではなく、文化と礼節を持った人間であることを確認しているのではないか。 泥だらけの作業着を着て、スラングで悪態をついていても、この「イタダキマス」という0.5秒の儀式の間だけは、失われた祖先の霊と繋がることができる。 これは彼らにとっての、人間宣言だ。


私は胸が熱くなった。 正直に言おう。胸が熱くなったのと同時に、強烈にお腹が鳴った。 感動と空腹は両立する。これが私の、もう一つの持論だ。


「はい、メイちゃん。お待ちどうさま」


私の目の前にも、ソースたっぷりのハオシャオが置かれた。 濃厚な湯気が顔にかかる。 中原中也の詩が、またしても脳裏によみがえる。今度は、少し違う響きを持って。


『愛するものは、死んだのですから』


そう、死んだのだ。 私の祖父たちが誇りを持って守った「正しい日本語」の国は、もうどこにもない。


『たしかにそれは、死んだのですから もはやどうにも、ならぬのですから』


でも、彼らは生きている。 ハルさんも、タトゥーの若者も、この労働者たちも。


彼らは、死んでしまった故郷の代わりに、この「イタダキマス」というたった一言の呪文を守り抜き、今日もハオシャオを食べて生きている。 それは、どんな美しい詩よりも力強い、泥臭い生への執着だ。


私は箸を割り、目の前のハオシャオに向かって、静かに手を合わせた。 周囲の騒音に負けないように、けれど自分だけに聞こえる声で、私も呟いた。


「いただきます」


一口食べる。 熱い。濃い。そして美味い。 ソースの酸味が疲れ切った脳に染み渡り、キャベツの甘みが胃袋を優しく満たしていく。


KIOKUプロジェクトは、まだ続いている。 楊教授たちは、一つでも多くの言葉を、一冊でも多くの本を救おうと、今日もアーカイブの冷たい空気の中で、防腐処理の作業を続けているだろう。 それは尊い仕事だ。否定はしない。台湾がそれを守ってくれたことに、私は心から感謝している。あのアーカイブのおかげで、私は祖父の言葉を忘れずに済んでいるのだから。


でも、私はそこを辞めて、街に出た。 死んだ言葉の綺麗な標本を作るよりも、今、この街で生きている人々の、汚れて、崩れて、それでも温かい言葉を記録したかったからだ。


私の祖父たちが守った正しい日本語も素晴らしい。それは私の誇りだ。 でも、ハルさんたちが生きるために使い始めたチャンポン語もまた、同じくらい尊い、生存の記録だ。


彼らが生き延びたからこそ、今のニホンがある。 言葉が崩れたのは、彼らが歯を食いしばって生きようとした証拠だ。


壊れた器を漆と金で継ぐ「金継ぎ」という技術がある。 私は、この街の言葉の「金継ぎ」職人になりたいのかもしれない。 断片的な言葉を、物語として繋ぎ合わせ、その継ぎ目の美しさを記録する。それが、ライターとしての私の仕事だ。


食べ終える頃には、雨が上がっていた。 屋台のビニールシートをめくると、オータ川の水面が月明かりを反射して光っている。 遠くから、誰かが私を呼ぶ声がする。


「Hey Mei! Need ride?(メイ! 乗ってくか?)」


顔見知りのボート乗りだ。 チャンポン語の、賑やかで、少し乱暴で、温かい声。私は小銭を置いて立ち上がる。


「No thanks! Walking is good for digestion.(いいや、歩くよ。消化にいいから)」


『もはやどうにも、ならぬのですから そのもののために』


だからこそ、私たちは食べるのだ。 熱いハオシャオを。 明日もまた、図太く生きていくために。


(※1) 日台言語・文化財保存協定(KIOKU) 2010年代に締結された、ニホン政府と台湾政府による共同文化事業。戦火と混乱で散逸した旧日本時代の公文書、文学作品、映像フィルムなどを収集・修復・デジタル保存するプロジェクト。本部はクレーのニホ区にある。台湾側に保存されていた膨大な資料が、ニホン側の「失われた記憶」を補完する重要な鍵となっている。一方で、ニホン国内のナショナリストからは「台湾による文化侵略だ」という批判もあり、台湾側からは「ニホンへの過度な支援はコストに見合わない」という意見も出るなど、政治的な綱引きの場でもある。


(※2) 中原中也「春日狂想」 詩集『山羊の歌』に収録された詩。愛するものを失った後の喪失感と諦念、そしてその先にある「それでも続いていく日常」への着地を歌ったもの。作中の「愛するものは、死んだのですから」という一節は、かつての故郷(日本)を完全に喪失したニッケイ移民たちの心情と奇妙に共振しており、メイの祖父のようにこれを「悲しむための詩」ではなく、過酷な現実を生き抜くための「諦めの作法(サバイバル・マナー)」として解釈する者も多い。


(※3) チャンポン語(Champong) ニホン国内の港湾部や団地で広く話されるクレオール言語。英語の文法構造をベースに、日本語、中国語、朝鮮語、マレー語などの語彙が混在する。公用語の一つとして認められており、NDF(国防軍)の部隊内でも、多民族混成ユニットの共通語として定着している。


(※4) マニラ覚書 1947年、ニホン本土の統治機能不全に伴い、連合軍司令部(IAG)主導で締結された極秘協定。本土で支えきれない膨大な難民(孤児、技術者、官僚など)を、当時まだ統治機構が温存されていた旧植民地・台湾へ緊急移送・保護することを定めたもの。この「大離散」により、台湾には日本語人口のコア層が維持されることとなった。


(※5) 大離散 第三次世界大戦末期から戦後にかけて発生した、ニホン本土から周辺地域への大規模な難民流出。特にマニラ覚書に基づく台湾への移住は最大規模であり、現在の「台湾ニッケイ」コミュニティの基盤となった。


(※6) 台湾暫定行政庁(TPA)と社会契約 1947年、台湾総督府が改組されて成立した統治機構。外地からの引揚難民(ニッケイ)と現地台湾人エリートが「反共・自立」のために手を結び、現在の台湾の基盤を作った。この過程で、日本語は「共通の敵に対抗するための言語」として保存・維持された。


(※7) イタダキマス(Itadakimasu) 現代ニホンに残る数少ない「生きた旧日本語」の一つ。宗教的な意味合いは薄れているが、食事の開始を告げる儀礼的なフレーズとして、家庭や学校給食、軍隊の食堂で広く使われている。NDFの兵士たちにとっても、戦闘糧食を食べる前にこの言葉を口にすることは、極限状態の中で正気を保つための重要なルーチンとなっている。


文・ナガセ・メイ (Mei Nagase) 台湾・高雄出身。国立成功大学社会科学部卒。日台言語・文化財保存協定(KIOKU)のアーカイブ調査員を経て、『Common Tide』編集デスク兼ライターに。ニッケイ3世の視点から、港湾都市の「隙間」にある生活と食文化を記録する。オールド・ヒロ在住。週3で屋台に通うハオシャオ愛好家。


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