Ep.8 —鉄屑と標本箱、二人乗りのバイク

トコ特別行政区 スミダ区リサイクルショップ 「陳商会」

語り手:ジン・タン(22歳 / 解体工兼密輸ブローカー / 福建系ニホニーズ)


トコ特別行政区のスミダ地区に入るには、三つの異なる「層」を通過しなければならない。 最上層は、遥か頭上を走る国営高速とリニアの高架線。そこは富と物流が光の速さで通過する場所だ。 中層は、戦後のドサクサで増築された雑居ビルと、違法建築のマンション群。ネオンサインと室外機が、巨大な珊瑚礁のように外壁を覆い尽くしている。


そして最下層。 太陽の光が届かず、1947年の「東京の戦い」で散布された化学兵器の残り香が、湿ったコンクリートに染み付いているような路地裏。 ここには、オイルと下水と、古い恐怖の記憶が沈殿している。


私が訪れた「陳商会」は、その最下層のさらに奥、旧運河の護岸にへばりつくように建っていた。 かつて連合軍が「下水戦争」と呼んで忌み嫌った、地下水路への入り口に近い場所だ。


店のシャッターをくぐると、そこは異様な空間だった。 天井からは無数のバイクパーツと、ドライフラワーになった植物の束が吊り下げられている。壁一面の棚には、電子基板のスクラップと、年代物の昆虫標本が交互に並ぶ。 オイルの鋭い臭いと、線香の甘い煙、そして腐葉土の湿った匂いが混ざり合い、生き物の体内のような熱気を帯びていた。


店の主、ジン・タン(陳 仁)は、作業台の上で電動バイクのモーターを分解していた。 オイルまみれのタンクトップから覗く腕は太く、無数の傷跡と、福建系の守り神である「関帝」のタトゥーが刻まれている。 鋭い眼光。隙のない身のこなし。彼はこの過酷なスミダを、力と機転で泳ぎ切ってきた捕食者の顔をしていた。


だが、私の視線は彼よりも、店の最奥にある「ちゃぶ台」に向いた。 そこには、周囲の喧騒から切り離されたように静止している、もう一人の青年がいた。 彼は背中を丸め、アンティークのような真鍮製の顕微鏡を覗き込んでいる。時折、ピンセットで何かをつまみ、微かに頷く。その背中だけが、まるで真空パックされたように静寂を保っていた。


ジンは手を止め、油で汚れたウエスで指を拭きながら、私の視線に気づいてニヤリと笑った。


よう、ナガセさん。よく来たな。 悪いが、そこらへんのパイプ椅子に適当に座ってくれ。座面のスポンジが死んでて、ケツが痛くなるかもしれねぇけど。 茶、飲むか? ちょうどいい武夷山のが入ったとこだ。 福建の男は、どんなに忙しくても茶だけは手を抜かない。カフェインと渋みで脳みそを叩き起こして、泥水みたいな現実と戦うためのガソリンにするんだ。


……で? 今日は兄貴の話を聞きに来たって? あんな「無路用(ボー・ヨウ/役立たず)」の話を掘り返して、何になるんだか。


ほら見ろよ、あそこの背中。 俺が客と話してるのに、振り返りもしない。 今、何を見てると思う? 「ダンゴムシ」だぜ。 このハイテクと暴力と、かつて生物兵器が撒かれた「毒の街」トコのど真ん中で、あいつは朝から三時間ぶっ通しで、ダンゴムシが汚染された土の上を歩く様子を観察してるんだ。


名前はレン(陳 蓮)。俺の四つ上の兄貴だ。 走るの遅い、食べるの遅い、商才ゼロ。 福建の男にあるまじき、三拍子揃った「ダメ人間」さ。 でもな……まあいい。その渋い茶でも啜りながら聞いてくれよ。 あいつがどれだけ「かっこいい」か、って話をさ。


俺たちの朝は、戦争から始まる。 トコの朝は早い。まだ空が白む前の午前5時、俺は起き出して、その日の「シノギ」の準備をする。 解体現場のスクラップ回収、裏ルートの荷物運び、あるいは港湾労働者の送迎。 ここじゃ「時間」は金じゃない。「命」そのものだ。 信号一つ見落とせばトラックに轢かれ、数秒遅れればライバル業者に荷物を奪われる。 俺は昨日の残りの冷えた肉包(肉まん)を口にねじ込み、熱い茶で流し込み、3分で支度を終えてバイクに跨る。 効率。速度。即応。それが俺のOSだ。


でも、兄貴は違う。 あいつが起きてくるのは、太陽がすっかり昇った午前7時過ぎだ。 寝癖だらけの頭で、あくびをしながら、ナマケモノみたいな速度で布団から這い出してくる。 俺が作り置きしておいた中華粥を食べるんだが、これがまた、気が遠くなるほど遅い。 一口レンゲですくって、口に運び、飲み込むまでに30回は噛んでるんじゃないか?


俺がイライラしながら「早く食えよ、冷めるぞ」って急かしても、あいつはどこ吹く風だ。 ふふっ、と笑って、窓から差し込む埃っぽい朝日を見上げながらこう言う。


『ジン、今日のピータンは色が深いね。夜明け前の空みたいだ』 『お茶の湯気が、龍の形に見えるよ。ほら、髭がある』


なんて、詩人みたいなことをボソボソ言いながら、また一口すする。


ガキの頃からそうだった。 学校に行く時も、あいつは真っ直ぐ歩けない。 道端の雑草、電柱のシミ、捨てられた空き缶の裏側。いちいち引っかかる。 『ジン、見て。このコンクリートの割れ目、新しい苔が生えてる』 『この雲、クジラに見えない? お腹に魚をくっつけてるよ』 俺はいつもあいつの手を引っ張った。 「兄ちゃん! 遅刻するだろ! 走れよ!」


あいつは走るのも絶望的に遅い。運動神経の配線がどこかで切れてるんじゃないかってくらいだ。 ちょっと転んだだけで「痛いよぉ」って涙目になる。 体育の時間はいつもビリで、ドッジボールじゃ真っ先に当てられて、周りのクソガキどもに笑われてた。 俺はそれが恥ずかしかった。悔しかった。 「なんで俺の兄貴は、こんなに弱っちいんだ」って。 死んだじいちゃんはよく言ってた。「陳家の男は強くあれ。ナメられたら一族の恥だ」って。 なのに、兄貴ときたら。


でもな、不思議なことがあるんだ。 あいつが「美味しいね」って笑って粥をすすると、この薄汚いガレージの朝が、一瞬だけ別の場所に見えてくる。 工場の排気音も、遠くのパトカーのサイレンも遠のいて、そこだけ時間が止まる。 スラムの朝食が、まるで高級ホテルのラウンジみたいに穏やかな時間に変わるんだ。 俺はいつも、「早くしろよ」って怒鳴りながら、心のどこかで、そのスローモーションな光景に救われてた。 あいつの周りだけ、世界の解像度が違うんだよ。


(ジンは立ち上がり、奥のレンに向かって「おい兄貴、客人に茶菓子くらい出しな!」と声を張り上げる。レンは顕微鏡から目を離さず、「うん、あとでね」と生返事をするだけだ。ジンは呆れたように首を振り、自分で棚から月餅を取り出して皿に乗せた)


俺が小学校の高学年になる頃には、兄弟の立場は完全に逆転してた。 俺は喧嘩が強かった。手足が長くて、度胸があったからな。 兄貴をいじめる奴がいれば、俺が飛んでいってぶっ飛ばした。 「陳家の長男に触るな! 次やったら指へし折るぞ!」ってね。 俺の拳は硬かったし、足も速かった。 兄貴はいつも俺の後ろで、オロオロしながら服の裾を掴んで泣いてた。 『ジン、もうやめて。怪我しちゃうよ』 怪我してんのは相手の方だってのにな。


ある日、スラムの裏通りで、たちの悪い不良グループに絡まれたことがあった。 相手は中学生で、しかも本職のヤクザの下っ端みたいな連中だった。 バタフライナイフをチャラチャラさせて、「通行料を払え」って凄んできた。 さすがの俺もビビったよ。相手は三人、こっちは小学生だ。 抵抗しようとしたが、腹を蹴られて、地面に這いつくばった。 ナイフの切っ先が目の前に突きつけられた。「もうダメだ」と思った時だ。


兄貴が、俺とナイフの間に割って入ったんだ。


震えてたよ。膝なんて生まれたての子鹿みたいにガクガクで、涙目で、鼻水も垂らして。 でも、一歩も引かなかった。 両手を広げて、俺を庇うように立った。


『や、やめてください……弟に、手を出さないで』


声は裏返ってるし、全然迫力がない。 不良たちは大爆笑だ。「なんだこの弱そうなのは。お前が代わりに死ぬか?」って。


でも、兄貴はポケットから何かを取り出した。 小汚いガラス瓶に入った、ドロっとした紫色の液体だ。 兄貴はそれを高く掲げて、震える声で叫んだ。


『こ、これ……ドクガの幼虫から抽出した、濃縮毒液です』 『皮膚につくと、一生消えないケロイドになります。目に入れば失明します……ば、ばら撒きますよ!』


不良たちの笑いがピタリと止まった。 顔を見合わせた。 この街じゃ、毒とか化学物質ってのはハッタリじゃない。リアルな脅威だ。 じいちゃんの代から語り継がれてる汚染の記憶があるからな。 得体の知れない薬品で皮膚が爛れたり、息ができなくなる恐怖が、スミダの住人には骨の髄まで染み込んでる。 しかも、兄貴の目がマジだった。 涙でぐちゃぐちゃなのに、そこには「やる時はやる」という、狂気じみた光があった。 「こいつ、ヤバい奴だ。ガチの薬物(ネタ)を持ってる」って空気が流れた。 不良たちは「チッ、気色悪ぃ」ってナイフをしまって逃げていった。


腰が抜けた俺を助け起こして、兄貴はまだ震えてた。 後で聞いたら、あの液体、ただの「紫キャベツの煮汁」だったんだと。 理科の実験で使うつもりだったらしい。 俺は呆れて、それから腹を抱えて笑ったよ。 「兄ちゃん、すげぇハッタリだな! まるで詐欺師だぜ!」


兄貴はへたり込んで、また泣き出した。 『怖かったよぉ……ジンが無事でよかったぁ……』


俺は、泣きじゃくる兄貴の背中をさすりながら思ったんだ。 ああ、敵わねぇな、って。 腕力なら俺の方が百倍強い。喧嘩なら負けない。 でも、「家族を守るために前に出る」って意味じゃ、この泣き虫の兄貴は、俺よりずっとタフだった。 震えながらでも前に出る。それが本当の強さだって、俺はその時知ったんだ。


(ジンは作業台に戻り、バイクのエンジンパーツを磨き始めた。壁に掛けられた無数の標本箱には、色とりどりの昆虫が整然と並んでいる。その一つ一つに、几帳面な手書きのラベルが貼られている)


兄貴は、昔から虫とか植物に詳しかった。 トコなんて、自然なんてカケラもない、鉄とコンクリートの砂漠だろ? おまけに地面の下は、80年前の戦争のせいで、未だに何が埋まってるか分からない「毒の土地」だ。 でも、兄貴には「見えてる」んだよ。 ビルの隙間、排水溝の裏、ネオンサインの裏側。 そこに息づく、汚染にも負けないしぶとい命たちが。


あいつの職業? まあ、「フリーの博物学者」ってとこか。あるいは「スミダの生物コンサルタント」。 大学には行ってない。行く金もなかったし、あいつのペースじゃ講義についていけなくて、教授をイラつかせるのがオチだからな。 でも、独学で覚えた知識は半端じゃない。


最近じゃ、近所の子供たちが兄貴のところに集まってくるんだ。 『レン兄ちゃん、これ何?』 『これはね、アオマツムシ。本来は南の国の虫だけど、トコのネオンが温かいから大好きなんだよ』 『こっちは?』 『これはスミダゴキブリ。……ああっ、叩いちゃダメ! 汚くないよ。彼らは昔の戦争で撒かれた化学物質すら分解できる特別な酵素を持ってる、街の掃除屋さんなんだ』


子供たちは、兄貴の話をキラキラした目で聞いてる。 普段は「汚い」「キモい」って見向きもしない虫たちが、兄貴の言葉を通すと、まるで宝石みたいに思えてくるから不思議だ。


あいつは教えてくれる。 「強いこと」だけが生きる道じゃないってことを。 逃げ足が速いこと、隠れるのが上手いこと、毒を持つこと、死んだふりをすること。 環境に合わせて自分を変えること。 この過酷な街で、小さな命たちがどうやってサバイブしてるか。 それは、スラムで生きる俺たちにとっても、勇気の出る話なんだよ。


こないだなんか、MCN(国内軍警)のおっかない隊長さんが、頭を下げに来たんだぜ。 『タン先生、港で押収した密輸生物の鑑定をお願いしたい。専門家がいないんだ』だって。 兄貴はビビりながらも、一目見て『これは絶滅危惧種のトカゲです。皮膚が乾燥に弱いから、すぐに湿度80%のケースに移してください』って的確に指示を出してた。 謝礼に高級なハオシャオ(特選豚肉入り)を奢ってもらって、兄貴はホクホク顔だったよ。 「無路用(役立たず)」だと思ってた知識が、誰かを救うこともある。 世の中、捨てたもんじゃないな。


(ジンは声を潜めた。まるで秘密基地の場所を教える少年のように、店の裏口を指差した)


この店の裏に、小さな空き地があるんだ。 昔、連合軍の空爆で化学工場が吹っ飛んで、そのまま土壌汚染で立ち入り禁止になった区画。 誰も寄り付かない、ゴミ捨て場になってた「死んだ場所」だ。 兄貴はそこを勝手に「実験場」にしてる。


瓦礫をどけて、汚れた土を入れ替えて、色んな種を撒いて。 俺も手伝わされたよ。 『ジン、そこは優しく掘って。ミミズさんが驚くから』 「うるせぇな、ショベルカーで一気にやろうぜ。日が暮れるぞ」 『ダメ! 文明の利器は禁止! 土の匂いを確かめながらやらないと』


半年かかった。 俺は何度も「無駄だろ」って言った。こんな呪われた土地に花なんて咲くわけがないって。 でも、今年の夏、そこは奇跡みたいになった。


背の高いヒマワリ、絡みつくアサガオ、そして足元には名も知らない雑草の花。 トコの汚い酸性雨と、トラックの排ガスを吸って育った、逞しい植物たちだ。 温室育ちの綺麗な花じゃない。葉っぱは分厚くて、茎は太くて、どこかふてぶてしい。 俺たちと同じだ。


夜になると、兄貴が育てた「ヒカリコメツキ(発光する甲虫)」が飛ぶんだ。 この虫は、土の中に残った特定の化学物質に反応して光る変異種らしい。 戦争の負の遺産が、彼らにとっては最高の餌場だったんだな。 ネオンのギラギラした光じゃない。 淡くて、儚くて、優しい緑色の光。 それが暗闇の中で、点滅しながら舞っている。


兄貴は、その真ん中で、錆びたパイプ椅子に座って、満足そうに台湾ビールを飲んでる。 『ジン、ここが世界で一番いい場所だね』


俺は、泥だらけの兄貴を見て、思うんだ。 ああ、こいつは「錬金術師」かもしれねぇな、って。 ゴミと毒しかない場所から、こんな楽園を作り出しちまうんだから。 金を生むわけじゃない。効率的でもない。 でも、ここに来ると、俺の荒んだ神経が、ゆっくりとほどけていくのが分かるんだ。


(不意に、店の奥からレンが声を上げた。『ああっ!』という悲痛な叫び声だ。ジンは弾かれたように立ち上がり、スパナを握りしめて奥へ駆け寄った。「どうした兄貴! 取り立てか!? 敵襲か!?」)


そこには、床に落ちて割れたシャーレを見て、半泣きになっているレンがいた。 『ジン……ダンゴムシの脱皮、見逃しちゃった……』 『一番大事な瞬間だったのに……ううっ……』


ジンは脱力して、大きなため息をついた。スパナがカランと床に落ちる乾いた音が響いた。


……これだよ。 30近い大人の男が、ダンゴムシの脱皮を見逃して泣くか普通? 俺は呆れて、床に散らばったガラス片を片付けてやった。 「ほら、泣くなよ。また見りゃいいだろ。ダンゴムシなんてそこら中にいる」 『違うんだよぉ……あの子は特別だったのに……一生の不覚だぁ……』


俺が箒で掃除してる間、兄貴はずっと俺の背中を見てた。 そして、涙を拭きながら、ボソッと言ったんだ。


『ジンはすごいね。手が早くて、強くて、優しい』

『僕の「守護神」みたいだ』


俺は、背中越しに苦笑いした。 「バーカ。守護神は媽祖様だろ。俺はただの解体屋だ」 『うん。でも、媽祖様は遠いけど、ジンは近くにいてくれるから』 『ありがとうね、ジン。君がいるから、僕は安心して下を向いていられるんだ』


その言葉を聞いた時、俺はちょっとだけ、胸が詰まった。 俺が守ってやってると思ってた。 俺が食わせてやってると思ってた。 でも、違うのかもしれない。


俺がこの殺伐とした、人を騙して出し抜くのが当たり前の街で、心を完全に荒ませずにいられるのはなぜだ? 人を殴った拳で、家に帰って茶を淹れる時、手が震えずにいられるのはなぜだ? 帰る場所に、この「のんびり屋」がいるからだ。


あいつが「綺麗だね」って言うから、俺もこのゴミ溜めを、少しだけ綺麗だと思える。 あいつが俺の代わりに泣くから、俺は強くなれる。 あいつが地面ばかり見ているから、俺は前を向いて走れる。 俺たちは二人で一つのシステムなんだ。


(ジンは取材を終え、店のシャッターを下ろし始めた。夕暮れのトコの空が、工場の煙と夕陽で、紫とオレンジの毒々しいグラデーションに染まっている。遠くで、祭りのような爆竹の音が聞こえる)


ナガセさん。 「かっこいい」ってのは、喧嘩が強いことじゃねぇな。 銃を持ってることでも、金を持ってることでもねぇ。


自分の好きなものを、馬鹿にされても、踏みつけられても、守り抜くことだ。 兄貴は弱いよ。 走るのも遅いし、すぐ泣くし、稼ぎも悪い。 「陳家の面汚し」なんて陰口を叩く親戚もいる。


でも、あいつはこの汚れた街で、一度も「優しさ」を捨てなかった。 誰かを蹴落としてまで、自分だけが得をしようとはしなかった。 ナイフの前でも、タンクローリーの前でも、あいつは自分の大事なものの前に立ちはだかる。 震える足で、涙目で、鼻水を垂らしながら。


俺は、そんな兄貴になりたいんだ。 ……まあ、本人に言ったら絶対調子に乗るから、これだけはオフレコで頼むぜ?


(ジンは、店の奥から出てきたレンにヘルメットを放り投げた。レンは大事そうに標本箱を抱え、飛んできたヘルメットを危なっかしく受け止めた)


「ほら兄貴、飯食いに行くぞ。駅前の屋台」 『ええー、あそこの店主、無愛想で怖いから嫌だよぉ』 「俺がいるから大丈夫だって。今日は『牡蠣(オア)』入りを奢ってやるよ」 『本当? 牡蠣入り? 特別なやつ?』 「ああ、山盛りだ。栄養つけねぇと、ダンゴムシに負けるぞ」 『……じゃあ行く! ジン大好き!』 「はいはい、現金なやつだな」


二人はバイクにまたがった。 ジンが運転し、レンが後ろにしがみつく。


『ジン、スピード出しすぎないでね。風で虫が飛んじゃうから』 「わーってるよ。安全運転だ。法定速度以下で走ってやる」


バイクが走り出す。 トコの殺伐とした喧騒の中へ。 周りのトラックや改造車がクラクションを鳴らして追い越していく中で、ジンのバイクだけが、異様にゆっくりとした速度で走っていく。


私はその背中を見送った。 スラムの荒くれ者であるはずのジンが、後ろに乗せた兄貴が怖がらないように、そして抱えた虫が驚かないように、丁寧にアクセルを回しているのが分かった。


決して速くはない。 だが、その速度こそが、この街で彼らが生き残るための「強さ」の証明なのだろう。


(バイクのテールランプが、路地裏の闇にゆっくりと溶けていった。それは、上空を流れるリニアの閃光よりも、ずっと温かく、力強い光に見えた)


(※1) トコ・スミダ地区(Sumida District) 旧東京都墨田区周辺をベースとした居住区。1946〜47年の「東京の戦い(Battle of Tokyo)」において、連合軍による生物・化学兵器攻撃と旧日本軍の地下壕徹底抗戦(通称「下水戦争」)の主戦場となったため、戦後の正規再建対象から除外された経緯を持つ。現在は旧運河の護岸や高架下に、多国籍の難民が何層にも住居を積み重ねたスラムと化している。化学汚染の後遺症として呼吸器疾患の発生率が高い一方、住民同士の結束は異常に強く、MCN(軍警)でさえも容易には介入できない独自の自治空間を形成している。


(※2) 陳商会(Tan Trading) ジンが営む何でも屋。表向きはリサイクルショップだが、実態は「スラムの便利屋」。解体、運搬、用心棒まで何でも請け負う。店の奥はレンの研究スペース兼・媽祖様の祭壇になっており、オイルと腐葉土と線香の匂いが混ざり合った独特の空間となっている。


(※3) 福建系(Hokkien) 中国福建省にルーツを持つ移民グループ。東南アジアやニホン各地の港湾部に強力なコミュニティを持つ。家族・血縁の絆(クアンシー)を何より重視し、商売熱心で、食(特にお茶と海鮮)にうるさい。「無路用(ボー・ヨウ/役立たず)」な身内であっても、一族全体で面倒を見る文化が根強い。


(※4) 牡蠣入りハオシャオ(Oyster Haoshao) 台湾や福建の「オアチェン(牡蠣オムレツ)」が、ニホンのハオシャオ文化と融合して生まれたスミダ地区の名物。キャベツの代わりにモヤシと小粒の牡蠣を大量に入れ、サツマイモ粉や片栗粉を多めに混ぜた生地でドロっと焼き上げる。独特の粘り気と磯の香りが特徴で、甘辛いチリソースをかけて食べる。レンの大好物。


文・ナガセ・メイ (Mei Nagase) 台湾・高雄出身。国立成功大学社会科学部卒。日台言語・文化財保存協定(KIOKU)のアーカイブ調査員を経て、『Common Tide』編集デスク兼ライターに。ニッケイ3世の視点から、港湾都市の「隙間」にある生活と食文化を記録する。オールド・ヒロ在住。週3で屋台に通うハオシャオ愛好家。


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