カップ麺、出来たよ
埴輪庭(はにわば)
由紀と健一
□
「カップ麺、出来たよ」
由紀の言葉に健一は頷く。
そのカップ麺は控えめに言っても粗悪品だった。
税込み九十八円。
スーパーの棚の最下段、埃っぽい場所にいつも山積みになっているプライベートブランドの商品である。
麺は粉っぽく、スープは化学調味料の鋭さだけが際立つ。
悪い言い方をすれば不味く、良い言い方をしてもこれまた不味い最低の代物であった。
「今日のこれも、なかなか攻めてる味だね」
「うん、まずい。でもこのまずさが癖になるっていうか」
六畳一間のアパートで、二人はいつも笑いながらそれを啜っていた。
健一が隣にいれば、どんな味もそう悪くない──そんな、貧乏だが心は満ち足りた生活。
だが小さくとも幸せな日々は唐突に終わった。
雨の夜、アルバイト先からの帰り道、信号無視のトラックが健一の自転車を跳ね飛ばした。
即死だったと、警察官は酷く事務的な声で由紀に告げたのだ。
健一には両親がいたが、折り合いが悪くもう何年も音信不通状態だった。
警察が彼の死を伝えても、まるで他人事のような、あるいは面倒事に関わりたくないという冷淡な反応しかなかったという。
結局、冷たくなった遺体を引き取り、火葬場で骨を拾ったのは由紀一人きりだった。
由紀自身もまた、高校生の頃に両親を不慮の事故で亡くしている。
二人とも、この広い世界に頼れる身内はいなかった。
互いだけが家族であり、世界の全てだったのだ。
あの日から由紀の世界は色を失った。
まるで音のない映画を見ているかのように、彼女の時間は完全に停止していた。
健一がいなくなった部屋はがらんどうの箱のようにただ虚しい。
しかしというか、だからこそ、というか。
由紀は毎日、几帳面にカップ麺を二つ作った。
一つは自分のため、もう一つはいるはずのない健一のため。
電気ケトルがカチリと音を立て、湯気が立ち上る。
きっかり三分待って、小さな折り畳みテーブルに向かい合う。
「健一、カップ麺できたよ」
由紀は誰もいない空間に向かって、静かにそう呟く。
もちろん返事はない。
あるはずがないのだ。
向かいに置かれたカップ麺は時間が経つにつれて冷たく、麺が伸びきっていく。
由紀はそれをじっと見つめながら、自分の分の麺を啜る。
味はしなかった。
そんな日々がもう何か月続いただろうか。
季節は巡り、窓の外では金木犀が香っている。
由紀はもう、限界だった。
そして糸がぷつりと切れるように、唐突に決意する──明日の朝、すべてを終わらせようと。
──待っててね
そうと決まれば、今夜が最後の夜だ。
最後の晩餐にはやはりあれしかない。
由紀は戸棚から、いつもの九十八円のカップ麺を二つ取り出した。
湯を注ぎ、蓋をする。
三分間が永遠のように長く感じられた。
「健一、できたよ。最後だから、一緒に食べようね」
蓋を開け、割り箸を添えてテーブルの向かいに置く。
由紀は目を閉じ、手を合わせた。
楽しかった記憶ばかりが浮かんでくるのがかえって辛かった。
ふと目を開けた。
そして由紀は息を呑んだ。
向かいのカップ麺の中身が明らかに減っているではないか。
そんなはずはない。
しかし確かに麺が減り、スープの水位が下がっていた。
ずる、ずるる……。
微かな音が聞こえたような気がした。
「健一……?」
由紀の声が震える。
「そこにいるの? 戻ってきてくれたの?」
歓喜が胸を満たしていく。
ああ、やはり彼はいたのだ。
ずっと自分を見守ってくれていたのだ。
カップ麺はさらに目に見えて減っていく。
由紀は涙を流しながら、微笑んだ。
■
由紀と連絡が取れなくなって、もう十日になる。
由紀の以前からの友人である恵美は言い知れぬ不安に苛まれていた。
スマートフォンの画面には恵美が送ったメッセージが既読にならないまま、まるで墓標のように積み重なっていた。
最初はそっとしておくべきだと思ったのだ。
健一を失った彼女がどれほど深い淵に沈んでいるか、想像に難くない。
頼れる家族もいないのだ。
親しい者が事故で亡くなる──そういう時、周囲がかけられる言葉などたかが知れている。
喪失とは病気ではないのだから、特効薬など存在しないのだ。
ただ時間をかけ、その痛みと共に生きていくしかない。
だが音信不通が十日というのは少々長すぎた。
電話をかけても、呼び出し音が単調に響くだけで由紀が出ることはない。
恵美の胸中で最悪の想像が鎌首をもたげた。
もし彼女が耐えきれずに健一の後を追ってしまっていたら。
そう考えるともうじっとしてはいられなかった。
恵美はコートを引っ掴み、由紀が住むアパートへと車を走らせた。
学生街の片隅にあるその木造アパートは築三十年近い。
夜の闇の中で、それはまるで打ち捨てられた廃墟のように陰鬱に見えた。
軋む外階段を上り、二〇一号室の前に立つ。
インターホンを押したが、案の定反応はない。
意を決してドアノブに手をかけた。
驚いたことに、鍵はかかっていない。
不用心だという思いよりも、胸騒ぎが勝った。
「由紀? いるの? 恵美だけど」
声をかけながら、ゆっくりとドアを開ける。
途端に、むせ返るような異臭が鼻をついた。
それはあの安っぽい化学調味料の匂いと、何かが腐敗し始めた甘ったるい臭いが混ざり合った、ひどく不快なものだった。
締め切った部屋の空気は重く淀んでいる。
部屋の中は薄暗かった。
厚手のカーテンが引かれ、わずかな光しか差し込んでいない。
そして恵美はそれを見た。
部屋の中央、小さな折り畳みテーブルの前に、由紀は座っていた。
「由紀……!」
安堵のため息が漏れたのも束の間、恵美はその光景に息を呑んだ。
由紀はひどくやつれていた。
髪は乱れ、着ているスウェットは染みだらけだ。
そして何よりも異様だったのはその表情である。
彼女は笑っていたのだ。
虚空を見つめながら、まるで聖母のように満ち足りた、しかし決定的に壊れた笑みを浮かべていた。
「健一、美味しいね」
由紀は誰もいない向かいの席に向かって、優しく語りかけている。
テーブルの上だけではない。
床やキッチンには無数のカップ麺の容器が散乱していた。
手つかずのまま放置され、中身がどす黒く変色しているものもある。
異臭の源はこれだったのだ。
「もう、そんなに急いで食べなくてもいいのに。あ、スープこぼれてるよ」
そう言って由紀はティッシュを取り出し、何もない空間を拭う仕草をする。
クスクスと笑うその声は恵美が知っている由紀の声ではなかった。
彼女の瞳には恵美など映っていない。
彼女の世界には今、由紀と「健一」しか存在しないのだ。
恵美はその場に立ち尽くすしかなかった。
恐怖と、それ以上に深い悲しみが彼女を捉えて離さなかったからだ。
ああ、壊れてしまったのだ。
恵美は静かにそう悟った。
健一の死という圧倒的な現実を受け入れられず、彼女の心は自らを守るために狂気の世界へと逃げ込んだのである。
人間の心というものは時として耐え難い現実から逃れるために、自ら狂気を選ぶことがある。
それは自己防衛本能の一種であり、生物学的には正しい反応なのかもしれない。
そして皮肉なことに、その狂気こそが彼女を生かしていたのかもしれない。
だが目の前で繰り広げられる光景はあまりにも痛ましく、残酷だった。
このままでは由紀は衰弱して死んでしまうだろう。
この異臭とゴミの中で幻と心中するようなものだ。
恵美は震える手でスマートフォンを取り出し、迷うことなく救急車を呼んだ。
■
結局、由紀は精神科の閉鎖病棟に入院することになった。
天涯孤独な彼女の保護者代理として、入院手続きの書類にサインをしたのは恵美だった。
救急隊員が到着した時も、彼女は抵抗することなく、むしろ「健一も一緒に行っていいですか」と尋ねたという。
一か月後、恵美は面会に訪れた。
ガラス張りの面会室に現れた由紀は入院前よりも少しだけ顔色が良くなっていた。
清潔な病衣を着て、穏やかな表情をしている。
「恵美、来てくれたんだ。紹介するね、健一だよ」
由紀はそう言って、隣の空席を指さした。
その目はやはり、恵美ではない誰かを確かに捉えている。
「最近ね、健一がギターを始めたんだ。すごく上手なんだよ。ここのご飯も美味しいって言ってるの」
彼女は心底幸せそうに微笑んでいた。
その笑顔はあまりにも無垢で、だからこそ恐ろしかった。
どちらが幸せなのだろうか。
残酷な現実の中で苦しみ続けることと、作られた幻想の中で安らかに微笑んでいることと。
その答えは恵美には分からなかった。
ただ一つ確かなことは恵美の知っている由紀はもうどこにもいないということだけだった。
窓の外では金木犀が盛りを過ぎ、冷たい風が吹き始めている。
由紀の時間はあの安っぽいカップ麺の匂いと共に、永遠に止まったままだった。
(了)
カップ麺、出来たよ 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03
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