繋がるさきのゆめ

深山心春

第1話

「おまえ、迷子か?」

 不意に頭上から声がして私は顔を上げた。ぽつりと頬に雨粒があたる。座り込んだ私に話しかけてくれたのは、5つほど年上だろうか。双樹の国では珍しい薄い茶色の髪をひとつに結わえた少年だった。瞳の色もやわらかく、その瞳がくりくりと動く。着ているものは私よりずっと仕立てが良く、こざっぱりとした上衣に青い帯を締めている。私は小さく頭を振った。もしかしたら捨てられたのかもしれない。私の家はとても貧しかったから。昨夜は遅くまで父さんと母さんがなにかを話していたから。

 だけどそう認めたくはなくて頭を振った。雨は次第に強くなっている。

「ふうん」

 その子は屈んで私を覗き込む。やわらかな瞳と目が合うとその目が優しく細められた。

「俺は《れい》玲。おまえは?」

「私……私は《すい》翠」

 そうか翠か、と少年は頷くと手を差し伸べた。私は意味がわからず少年をまじまじと見つめる。白の月の市でいつの間にか両親とはぐれた私に声をかけてくれたのは少年が初めてだったから。この冷たい石畳に座り込んでもう何時間も経っていたから。少年はじれったそうに、手をさらに差し伸べた。

「翠、俺と来い。迷子なら迎えが来るだろうし、もしもの時にはなんとかなる。うちはそこそこ大きな商いをやっているから」

 差し出された手を見ているうちに、目の奥が熱くなってくる。本当に心細かったのだと改めて知る。たちまち涙がせり上がって、頬を滑り落ちて行った。

 おそるおそる差し出した手を強く握られる。冬で雨が降っているというのに、その手はとても温かかった。


 お香の匂いはなぜか懐かしい匂いがする。

 部屋いっぱいに梅香が揺蕩う。梅はこの国の守り花だから。黒髪を飾った翡翠のかんざしがこすれてりぃんと小さな音を立てる。

 祈堂での祈りの時間。国と帝と民を、この双樹の国を護るための長い祈りの時間。私にしかできない、私が唯一できる勤め。

 顔を上げると花模様の透かし彫りの窓から、朝のやわらかな光が差し込んで私を照らす。流れるままに背を滑る黒髪が揺れるたびに翡翠のりぃんと言う音がこだまのように部屋へと響く。

 密封された部屋だといつも思う。窓ははめ殺しだから、香はいつまでも揺蕩っている。くすんだような朱色の柱が何本も等間隔に立っていた。緋色の絨毯は三段の階段をのぼり、私はその上に端座している。私の後ろには25人の神官と25人の神女が控えている。

 私の名前は《えいか》暎花。双樹の国を護る女神の宿る現人神。毎日を祈りに捧げ、国の安寧を祈り、平和をもたらす女神の化身。皇帝さえも私に膝まづく。私に触れることができるのは、いずれ伴侶になる皇帝だけ。

 だけど、と私はわずかに目を伏せる。背に視線を感じる。間違えるはずがない。あのひとが私を見ている。薄茶色の髪をひとつにまとめ肩に垂らし、最高位であることをあらわす白色に白紋の神官服を着ているのだろう。

 かつては明るく大きな声であのひとは私を呼んで、抱き上げて、頭を髪が乱れるほどくしゃくしゃに撫でてくれた。

 翠、俺の小さなたからもの、と。


 双樹の国には女神伝説が伝わっている。その昔、もう誰も覚えていないくらいに遠い昔に、この国の皇帝と花の女神が恋に落ちた。女神の名は暎花と言った。たいそう美しい女神で皇帝もこよなく女神を愛したが、つい出来心で宮廷の女官に手をつけて孕ませてしまった。怒った女神は花の神の国へと戻ってしまう。皇帝は昼となく夜となく詫び続け、1年ののちに女神の声が星空から降りてきた。

「今生ではもう会いませぬ。あなたの子孫は皇子が産まれることが少なくなるでしょう。ですがもし、皇子が産まれた時こそ、それはあなたが転生した姿であり、わたくしもまた、いづこかへと産まれているでしょう。わたくしを見つけられるかがあなたへの罰です。もしわたくしを見つけられたなら、私の身はあなた以外に触れさせますまい」

 それ以来この国には、本当に皇子は滅多に産まれず、そして産まれた時には国を挙げて女神を探すことを繰り返した。

 漆黒の髪、深い緑の瞳、花の顔、髪質はまっすぐであること、額と眉毛までの長さが掌を横にしたくらいであること、足は小さく中指よりも人差し指の方が長いこと――数え上げれば55項目。

 14年前、140年振りに皇子が産まれた。女神の化身は皇子が9歳のときに見つかった。

 それが私。玲を兄のように慕い、子犬のようにまとわりついていた、なにも知らない無知な私だった。

「暎花さま」

 背中越しに聞こえる低くよく響く声に、心が揺れた。声は淡々としていて、とてもあんなに明るかった玲兄の声とは思えないことにいつまでも戸惑う。もう祈堂に上がって5年も経つと言うのに。

「皇帝陛下がお待ちでございます。輿のご用意もできております」

 深々と平伏したのが衣擦れの音でわかった。胸の奥深くがいつも痛くなる。

 香に灯った火を消すと、私は立ち上がり振り向いた。

 50人すべての者が平伏している。誰も私を見てくれてはいない。

 薄茶色の髪が流れて肩に落ちるのを、私はしばらく黙って見ていた。


「暎花、待っておったぞ!」

 朗らかな大きな声が輿からおりた私を出迎えた。宮殿の中庭はいつも皇帝と会う場所になっていた。格式があまり好きでない《えんじゅ》槐帝が独断で決めたお気に入りの場所だ。梅の花が中庭をぐるりと取り囲み、可憐な花を咲かせている。

「陛下。ご機嫌麗しく……」

「堅苦しい挨拶はいらぬ。早う、早う。我は楽しみにしておったぞ」

 裏表のない皇帝の言葉に、自然と笑みが浮かぶ。皇帝である槐さまは、年は私と同じ14歳。紅の瞳に強い覇気を宿して、いつも明るく元気な声で出迎えてくれる。金糸銀糸の衣に紫の帯は皇帝にのみ許された色だった。

 槐帝は供の官吏の制止も聞かず、私の側へと走ってくる。ちょうど1足分を残したところで地にひざまづいた。

「我の女神よ護り人よ。我が国と民と我を護る女神よ。その祈りで我らを護り給え」

「陛下、もったいのうございます」

 いつまで経っても私は槐帝とのこの挨拶に慣れない。手を差し伸べた私に、皇帝は顔を上げてにこやかに笑った。

「いつも言っておるだろう、いらぬ。我だけがそなたに触れられるが、暎花が我に嫁すまでそなたには触れぬと、天帝に誓ったのだ」

 そう言って槐帝はまるでいたずらっ子のように笑う。私も微笑む。上手く微笑んでいる自信はいつもない。

 女性の月の印がはじまって、はじめて女神と人はひとつになり、皇帝に嫁す。それが連綿と続く歴史の掟だった。

「今日は暎花のために特別に菓子をつくらせた。さあ、食べてみてくれ。そなたが笑ってくれるとなぜか、我も嬉しいのだ」

「はい……ありがとうございます」

「うむ、きっと美味だぞ。なにしろ、料理長を直々に呼びつけて新しく作らせた菓子だからな」

 それは料理長には気の毒なことだろうと思うが、槐帝の無邪気な笑みについ、微笑みが浮かぶ。こんな風に話をしてくれるのは槐帝だけだからだ。そう思ってふと寂しさを覚える。いつもこの繰り返しだ。

「神官長、そなたもどうだ。いつもただ、側に控えているのもつまらぬだろう」

「もったいないお言葉でございます」

 振り向くと地面に膝をついた玲兄が、深く頭を下げてから槐帝を見上げた。玲兄は今年で19歳になる。精悍な顔立ちには冷静な表情が浮かんでいる。切れ長の瞳には、少しの感情もうかがえない。

「わたくしは辞させていただきます。陛下が暎花さまに特別につくらせた菓子をいただく訳にはいけません」

「そなたは相変わらず堅苦しいのだな」

 槐帝は呆れるような感心するような声を上げた。まあ、良いと頷き、明るく笑う。

「英明の声高いそなたが暎花を護っていてくれれば我も安心だ。今さらかもしれぬが、くれぐれも暎花に不快な思いなどさせてくれるなよ」

「は」

 玲兄はまた深く頭を下げた。

 不快な思いをさせているのは自分の方だろうと、私はそっと瞳を伏せた。5年前を思う。こんな玲兄を見たいわけでは、決してなかったのだ。


「翠にだけ教えてやるよ」

「なに? 玲兄」

「俺のゆめ」

 ゆめ? と聞き返すと、唇に人差し指を当て、内緒だぞと彼は囁いた。

 春だった。梅の花が咲いていた。家からすぐの野原は、野の草花たちが気持ち良さそうに風に揺れていた。座った下草の青い匂いが鼻腔をくすぐる。

「俺のゆめは、店を更に大きくすること。うん、1人前の商人になることだ。いまは小豆の相場が下がっているから買い占めておいた方が良い。うちはそこそこ裕福だろう? でも俺は俺の力でもっと商いの幅を広げたいんだ。双樹国でいちばんの商人になりたい」

 青い空を見ながら話す玲兄の瞳は、希望に輝いて見えた。私はなんだか嬉しくなって、玲兄の方へと身を乗り出す。

「翠も! 翠も手伝っても良いでしょう?」

「翠が? 商いは難しいぞ」

「手習いも算術も頑張るから! だから良いでしょう?」

 そうだなぁと瞳を細めて考え込むと、よしっと頷いて、私の瞳を覗き込んだ。

「俺のゆめはふたりの秘密だぞ。じゃあ翠にも手伝ってもらおう。頑張ろうな!」

「玲兄、大好き!」

 そう言って無邪気に彼に抱きついた。

 娘が欲しかったからと、実の娘として引き取ってくれた優しい養父母。いつも頭をくしゃくしゃに撫でてくれる玲兄。夢のように幸せな日々だった。

 あの日。宮廷からの使者たちが来た日。私は私の我儘で、彼の夢を潰したのだ。神官長になることなど一筋も彼は望んでなどいなかったというのに。一緒に来てくれなければ嫌だと泣き喚いて、彼の望まぬ地へと連れ出したのだ。

 祈堂に入って別人のように大人びた玲兄の態度が、無言で私を苛むことと引き換えにして、彼は私の側にいてくれるのだ。


「お疲れですか」

 低いその声に我に返る。輿はゆっくりと沈むように私をおろしてくれる。

「大丈夫です。疲れてなどいません」

 向けた微笑みを、淡々とした表情が受け止めた。微笑みは砕けて壊れてしまう気がする。

「夜の祈りの時間までまだ間があります。お休みになられますか?」

「……いいえ、大丈夫。ありがとう」

 嘘だった。数日前から体がだるい。違和感が体にあった。けれどそんなことは言えない。この上に迷惑をかけたくはない。

「神官長こそ、疲れてはいませんか?」

「私は大丈夫です」

 素っ気ないほどの返事がする。神殿内に入ると、高く足音だけが響いた。この無言の時間は罰なのだと思う。祈りの間に入る。

 これからまた、長い祈りの時間がはじまるのだ。本当に祈りが届いているのかなど、誰にもわからないというのに。私はそっと息を吐いた。


「暎花さまの輿だぞ!」

「おお……ありがたいことだ」

 広場へと続く道はたくさんの人のざわめきとひしめきであふれかえるようだ。月に1度、私は輿に揺られながら祈堂と広場を練り歩く。輿には薄布が垂れているとはいえ、人々の熱気と歓声はじゅうぶん過ぎるほど私に届いた。輿の先頭には玲兄の、広い背中が見える。背後にはすべての神官と神女が続く。

 頭がぼうっとしている私は額に手をやった。なぜだろう、体のだるさはもうずっと続いている。身を起こしているのが辛かった。

「えっ?」

 ふいに袖をぐいと引っ張られて体が左に傾いた。咄嗟のことに反応できず引きずられそうになる。玲兄が素早く動くのが、辛うじて視界の端に映った。人々の悲鳴にかき消されそうになりながらも、人が倒れる重い音が間近で聞こえた。

「ご無事ですか、暎花さま」

 囁くような玲兄の声に、訳がわからないながらも安堵の息がもれる。

「なにごとですか?」

「申し訳ございません。興奮した輩が暎花さまのお袖を引っ張ったのです。捕らえましたので、どうかご安心を」

「そのひとは……どうなるのです?」

「重い刑罰は免れますまい。鞭打ちと労役が妥当かと」

 そんな、と思わずもれた声が聞こえたのか、玲兄は独り言のように言った。

「あやつらにとっても幸運でした。暎花さまに触れていたら極刑もありましたから」

 それは小さく低く、つぶやくような声だった。


 翌日、私はとうとう臥せってしまった。体が重くて起き上がれなかったのだ。神女たちが世話をやいてくれるなか、私はぼんやりと複雑な紋様の描かれた天井を見ていた。

 触れただけで極刑――玲兄の言葉が脳裏によみがえる。私は私でしかありえないのに、どうしてそんなことになるのだろう。もう何もかもが嫌で放棄したい気持ちだった。くちびるを強く噛まなければ涙が零れそうになる。

「暎花さま。褥の敷布を取り替えさせていただきます。お身を起こしていただけますか?」

「はい」

 重い体を引きずるようにして褥から出る。背後にいた神女が息をのむのがわかった。

「どうかしましたか?」

「暎花さま」

 神女は深々と頭を下げた。肩が細かく震えている。彼女はもう一度、私の名を呼ぶと顔を上げた。不審そうに首を傾げる私に向かって彼女は震える声で告げる。

「お印でございます。おめでとうございます」

「印……?」

 意味がわからず聞き返すと、神女たちは一斉に平伏した。私は衣の裾を見る。

 毒々しい真っ赤な色がひと筋、糸のように白い足を伝って流れていた。


 祈堂には真ん中にぽっかり4角に切り取ったような中庭がある。

 深い夜。私はふらりと起きて中庭に出た。見上げると冴え冴えとした蒼白い月が、薄くたなびく雲に隠れながら浮かんでいる。満月だった。美しいとも思えず、ぼんやりと月を眺める。

 印のことはもう皇帝に伝わっていた。たいそう喜んで祈堂へ行くと言ってきかなかったそうだ。止める臣下も大変だったろう。

 神女が教えてくれた手当ては、居心地が悪く違和感を体に訴えかけている。できるものなら、こんなものは取ってしまいたいと思った。月に雲がかかる。漆黒の長い髪が、時折思い出したように吹く風に靡く。

「暎花さま……?」

 低くよく響くその声に涙が出そうになる。振り向くと、渡り廊下に玲兄がいた。

「なにをしていらっしゃるのです。お体に障ります。早くお部屋に戻られてください」

 足早に私の横に歩いてきたひとを、ぼんやりと眺めた。

「暎花さま……?」

「暎花って誰なの……?」

 こぼれるようにその言葉が口をついた。

「暎花さま、さあ、お部屋に戻りましょう。お連れ致しますから」

「暎花! 暎花! 暎花! 暎花!」

 たまらず私は叫んでいた。玲兄が珍しく少し驚いた顔をする。その様子に後押しされるように、私は彼に詰め寄った。

「暎花じゃない! 私は翠よ! 玲兄、翠って呼んでよ……あの頃のように、頭をくしゃくしゃに撫でてよ……私に触れて……私は女神なんかじゃない……!!」

「……ご気分が高ぶっているようですね。落ち着いてください」

「そんな言葉遣いしないで……前みたいに翠って呼んで。前みたいに……それだけで……」

 縋ろうとした腕を玲兄はすっと避けた。顔を見るといつもと変わらない冷静な表情が浮かんでいる。

「お赦しを。私如きが暎花さまに触れることは叶いません」

 絶望的な気持ちになった。涙が溢れて玲兄をぼやけさせる。私は顔を両手で覆ってうつむいた。もう思い出の中にしか、あの玲兄も私もいないのだと思い知らされる。風が吹いて、ふたりの間を通り過ぎていく。

「ひとりにして……」

「できません」

 私たちはいつまでも言葉なく、その場に佇んでいた。

 雲が晴れ、煌々と月が私たちを照らしてもまだずっと。


 雲ひとつない青空がどこまでも広がっていた。私は手を翳してまぶしく空を見やる。

「良い天気になったな、暎花」

 臣下を振り切るようにして、隣へかけてきた槐帝が明るい笑顔を見せた。私も微笑む。そうしようと努力する。

「今日がそなたの最後の祈りの日だ。広場では祈りづらかろうが、我慢してくれ。民もそなたをみたがっているからな」

「はい」

 頷いてもう一度青い空を見る。この日を最後に私は女神暎花ではなくなる。女神と人が融合したものとして、ひと月後には、皇帝に嫁すのだ。

 はじめて民に祈りを捧げる姿を見せるので広場は人でごったがえしていた。

 私はいつものように梅香を焚き、両の手を合わせて祈りに入る。斜め後ろには槐帝と従者が、その後ろに玲兄たち神官が控えていた。

 あの夜以来、玲兄とは口を利いていなかった。胸に諦めとも罪悪感ともつかぬものが住み着いて離れない。

 祈りが進むごとに広場の喧騒もおさまって、しんとした静けさが辺りを包んだ。伏せていた目をそっと斜め後ろに向ける。

 その時だった。

 広場を取り囲む屋根の上から一際明るい陽射しがきらりと光る。

「陛下……!」

 反射的に私は動いていた。庇うように槐帝の前に駆け寄るのと、肩にしびれるような衝撃が走ったのは同時だった。矢が抉ったのだろう。しびれるような感覚はすぐに言葉にならない痛みとなって、私はその場に崩折れた。

 賊を追え! と武官の声が聞こえる。走っていく衛兵たちの足音も。

 暎花さま、とすぐ側で聞き慣れた声がした。声は逼迫している。

「陛下! お早く暎花さまを――!」

「しかし。しかし我は天帝に誓いを立てたのだ。嫁すまでは――」

「そんなことを言っておられる場合か……!」

 私に対しては誰も動けないようだった。袖に触れただけで刑罰が待っているのだ。誰が好んで進み出るだろう。このまま死ぬのかしらと考えたとき、迷いのない力強い腕の中に私はいた。

「暎花さま……!」

 ぼんやりと目を開けるといつもとは違う玲兄の顔があった。いつもは淡々と表情を出さないのに、真剣な顔で私を見ている。

「暎……翠! 大丈夫か、しっかりしろ」

 幻聴かと思った。厳しいほどに真剣な玲兄の表情も、その話し方も、懐かしいものだったから。力強い腕が私を軽々と抱き上げる。玲兄は、かつてよく見せてくれた優しい笑顔を浮かべた。

「大丈夫だ、翠。必ず助かるからな」

「玲兄……」

 「大丈夫だ、すぐに医者に連れて行く」

 だんだんと玲兄の声が遠ざかっていく。夢のようだった。夢ならもう覚めないでほしいと思ったのを最後に、私の意識は途切れたのだった。


 肩の傷は思っていたよりも浅く、傷が癒えるのも早かった。動けずに横になっている間、気になるのは玲兄のことばかりだった。彼はあの日以来、祈堂で見かけたものはいない。尋ねると誰もが口ごもり、押し黙った。

 10日後の夜、私は思わぬ訪問を受けた。槐帝がお忍びで祈堂へとやってきたのだ。驚いて起き上がろうとすると、そのままで良い、と言う。槐帝は眉根を寄せ私を見つめた。

「暎花、もう大丈夫か」

「はい。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」

「そなたは我を庇ったのだ。我が謝らなければならない。すまなかった……」

「こうして無事だったのですから、そんなことをおっしゃらないでください」

 それより私には聞きたいことがあった。少し痛みが引いてすぐ、皇帝に玲兄の助命嘆願を願った。返事は一向に来ることがなく、毎日胸が締め付けられるように痛かった。

「神官長の処分はどうなりましたか?」

 覗き込むように尋ねると、槐帝は渋い顔をして横を向いた。

「極刑に決まっている。そなたに触れたのだ」

「陛下、そんなあんまりです。私は自分が女神の生まれ変わりなどと思ってはおりません。ただの娘です。ですからどうか――!」

「そなたがどう思っていようとも、周りの者はそなたに希望を見るのだ。そういう者がいる限り、そなたは暎花という女神なのだ」

「そんな……陛下。どうかご温情を……!」

 泣きそうになりながらそう言うと、槐帝が真っ直ぐに私を見た。

 明かりを灯した蝋燭が不快な音を立てる。

「暎花、我と来るか」

「え?」

「今宵、一時、牢番はいなくなる。鍵はここにある」

 袖口から輪になった鍵束をかざした。私の胸が早鐘を打つ。

「行きます。すぐにでも」

「――我も行くぞ。良いな?」

 はい、と返事をする間も惜しんで、私は身支度をはじめた。


 牢は地下に続いている。入り口まで来ると槐帝は私に鍵を渡した。手には馬を一頭つないでいた。

「我はここで待つ。暎花、信じても良いな?」

「はい! ありがとうございます!」

 薄暗い灯りをたよりに、石畳の階段を下りる。石畳はゴツゴツとしてて、何度か滑りそうになった。岩壁を頼りにやっと階段をおりきった。牢のひとつひとつを急いで見回る。どこにいるんだろう。こんなところで過ごしたのだろうか。湿気が強く汗が頬を流れた。

「――翠?」

 背後から信じられないというようなつぶやきに似た声がする。急いでその牢まで走る。久しぶりに見る玲兄はやつれて無精ひげが生えていた。頬を殴られたのか酷い痣がある。私は格子戸を握ったまま、石畳に座り込んだ。涙がぽろぽろと零れ落ちた。

「酷い、こんな――ごめんね玲兄」

「なにを謝っているんだよ。お前が悪いわけじゃないだろう」

 悔しくて格子戸を掴んだまま、ぽろぽろと涙を零す。玲兄は困ったように私を見ると触れるか触れないかの距離で袖で涙を拭ってくれた。

「翠ごめんな。俺はもう、おまえの側にいてやることもできない」

 そんな、と私は掠れた声を上げた。

「嫌だったでしょう? 私が玲兄のゆめを潰してしまった。私を……恨んだでしょう?」

「馬鹿だな。ゆめは変わるんだよ。神官長としてでも、もう少しでもおまえの側にいてやりたかった」

 混乱しながらも玲兄が嘘をついてないことを理解する。袖口の肌にひんやりとした鍵束を感じて、慌ててそれを取り出す。

「陛下が鍵をくれたの」

「陛下が!?」

 鍵穴に鍵を差し込むと何個かめで錆びた音をたててガチャリと開く。

「翠。俺は逃げるつもりはないよ。自分がしたことを間違ったことだとは思ってないから。殺されるならそれまでだ」

「そんなことを言わないで……玲兄には、生きていて、ほしいから」

 私は思わず、玲兄に抱きついた。玲兄の体が強張るのを感じる。巡り巡る季節、玲兄と過ごした幼い日々は幸せだった。

「お願い……お願いだから、生きて……」

「……やれるところまで逃げてみせるよ」

 玲兄はそう言うと、私を痛いほど抱きしめた。

「翠に助けられてた気がする。殴られ蹴られて気が遠くなると、翠の祈っている後ろ姿が目に浮かぶんだ。おまえの祈っている後ろ姿が好きだった」

「玲兄……」

 涙を零す。これがきっと今生の別れになる。それでも――。

「私、玲兄がどこかで生きていてくれるってだけで頑張れる気がするの」

 玲兄がそうか……と頷く。

「本当なんだよ。だから、お願い。生き抜いてね」

 私たちには優しい思い出がある。それをよすがに、生きていける。

 私は玲兄から身を切る思いで離れた。陛下のご厚意を無駄にはできない。

「行って、玲兄」

「翠は?」

「あとから行く。これはお金と着替えや食料よ。母さんと父さんにもし会えたらよろしく伝えて」

「翠……俺にとっておまえはいつまでも翠なんだ」

「うん……ありがとう。私にとっても玲兄は玲兄なの」

 玲兄が振り返り振り返り、階段を登っていくのを切なく見送った。本当はついていきたいのだと、言う言葉はなんとか堪えた。それだけはできはしない。

 この牢屋にはいまほかの罪人はいない。それを確認して私は火をつけた。火の回りは思ったよりも早く轟々と燃える音がする。私は急いで階段を登った。中ほどまで来たとき足を滑らせそうになって、あっと思った瞬間、手が伸びて私の腕を誰かが掴んだ。見れば陛下で私は驚いてしまった。陛下は何も言わず私の手をしっかりと掴んで、私を引っ張り上げるように石畳を登っていく。やっと地上に出たとき、新鮮な空気が肺いっぱいに飛び込んできた。

 ふたりでへたり込む。しばらく沈黙が続いた。

「あやつは行ったぞ。馬を貸した」

「そうですか。良かった……」

「あやつは死んだ。この牢の中の出火で。そう押し通す」

「ありがとう……ございます。感謝致します」

 涙が1筋零れ落ちた。

「……あやつが好きだったか?」

「……はい」

 嘘を言う気にはならず、私は素直に頷いた。陛下はそうか、と頷く。

「少し、いやだいぶ妬けるな……。だがあと5年我にも猶予をくれないか。きっとあやつを超えてみせるから」

「はい……」

 お互いにすすだらけになった顔でふたりで真面目に頷く。そして、どちらからともなく笑った。

玲兄はきっと必ず逃げおおせるだろう。そして元のゆめをめざすのかもしれない。双樹の国いちばんの豪商を。私はそう思うだけで生きていける。

「これからは、いや、今度こそ。我が暎花を護るから」

「私も、陛下をお護りします」

 人の想いと想いが絡まって、それはなんて強くなるんだろう。私は暎花として生きていく。

 けれど、なにがあっても忘れはしないだろう。自分のことを構わず、私に触れてくれた人がいたことを。

 心の中に勇気が芽生える。きっと一生忘れない。あの力強い腕の中を。

「暎花」ではなく「翠」と呼ぶ、あの、大切なひとのことを――。

 生涯、忘れることはないだろう。あの目もくらむほどに幸せだった日々を。これから先がたとえどんなに幸せであったとしても。

いろんな人の想いを抱いて、私はいま、生きているのだということを――。(了)

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繋がるさきのゆめ 深山心春 @tumtum33

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