シン跳躍・日本武術異名録

明丸 丹一

新道二刀斎 奥義の継承

 新道二刀斎は、老いの境に立っていた。かつて織田信長の家臣であった徳川家康の前で武芸を披露し、一廉ひとかどものと称された剣客けんかくも、いまや齢六十を越え、老眼も進む。東照権現とうしょうごんげんたる家康から剣術指南役の召しが届いたが、自らが務めるには精が足りぬ。

 ゆえに、後進の中から後任を選ばねばならなかった。


 候補は二人――火野上神楽ひのうえかぐらと、とど岡伝鬼おかでんき

 技量でいえば、とど岡が一歩上。しかし火野上は、門の奥義『真剣白刃取り』を修めていた。

 古式の型では具足を着け、籠手を交差して刃を受け止める。だが新道は時代に合わせ、素手で木刀の刃を挟む新たな型を考案していた。とど岡はその稽古を頑なに拒んでいた。


「手妻のような芸当、実戦では通らぬ」と言って。


「とど岡は品性下劣ひんせいげれつ。ならば――」


 二刀斎の胸に決意が宿った。


 この新道二刀流。二刀流と言って、かの宮本武蔵のように二刀を同時に使うすべではない。侍はすべからく大小の二刀を腰に差している。その二刀の威を場面次第によって自由に扱う流儀であった。


 ある日、二人を呼び寄せ、木刀での立ち合いを命じた。勝者を指南役に推挙するという。その後、とど岡だけを残し、二刀斎はなにか言葉を残した。

 勝負は僅差でとど岡が勝った。


 彼は名を火野ひのとど沖と改め、徳川家の剣術指南役となった。火野上は行方を絶った。火野を名乗った理由には、何か思い入れがあったのだろうか。


 それからしばらく時が流れ、とど岡には、二つの憂いがあった。ひとつは同じ指南役の青柳武稲介あおやぎたけいねすけが大目付に出世したこと。

 もうひとつは、江戸の町に『二刀流の辻斬り』が現れたという噂である。やがて門弟の一人がその辻斬りに斬られた。とど岡は名折れを恥じ、夜の市中を自ら見廻ることにした。


 晩秋の風が冷たく頬を刺す夜だった。

 ――風の音に混じって、何かが鳴った。


 とど岡が立ち止まる。

 静寂。虫の声も止み、遠くで犬が一声吠えるこえが聞こえる。

 そして、乾いた下駄の音が、ゆっくりと石畳を叩く。


 灯りの届かぬ小路の先、黒い影が現れた。

 月光が雲間から差し、小太刀の白い刃の輪郭が一瞬、きらりと浮かぶ。


「とど岡――白刃取りはできるようになったのか」


 聞き覚えのある声。低く、皮肉げな笑いを含んだ声音。

 とど岡は眉をひそめた。闇の中の男の輪郭が、じわりと浮かび上がる。


「貴様……か」


 その名を呼ぶと、影が笑った。

 火野上神楽。かつて共に二刀流の門をくぐり、剣を競った弟弟子であった。


「徳川の指南役になって鼻が高いな」


 夜風に混じる声は、かすかに震えていた。

 怒りとも嫉妬ともつかぬ感情が、火野上の中で煮えたぎっているのがわかった。


よ。新道先生にいとせんせいは腹を斬ったぞ! 門下から辻斬りを出した責を取ってな」


 とど岡の言葉に、火野上の目が光を帯びた。

 その刹那、彼の足が動く。


「それがどうした。俺は俺を認めぬ師を、師と思わん!」


 怒声が夜を裂いた。抜き打ち――まるで雷鳴のような速さだった。

 刃が銀の弧を描き、空気を裂く音が鼓膜を打つ。

 しかし、その軌跡は途中で消え失せた。


 とど岡の掌が、太刀を掴んでいた。


「なに……その型……!」


 火野上の顔が歪む。


「俺の知らぬ白刃取りだと!? あの新道先生にいとせんせいのじじい、また贔屓しやがったか!」


 夜空にわめく声が、細長い路地に反響する。


「あの勝負の前も、お前にだけ何事か話していた!」


 とど岡は静かに息を吐いた。

 手の中の剣が月光を反射し、冷たく光る。


「――これは俺が考えた型だ。新道先生は贔屓などしていない。

 あの勝負の前に言われたんだ。指南役と流派継承者を、分けて考えよと」


 その声は低く、しかし確固たる響きを持っていた。


 あれはまだ、とど岡が指南役を拝領する前のこと。


 その日の稽古場は、夕陽が傾いていた。赤く染まった障子の向こうで、秋の虫の音が絶え間なく続いている。

 新道二刀斎は黙して立ち、弟子の木刀の動きを見つめていた。とど岡の構えは正確だったが、どこか硬い。


「やめい」


 短く告げる声。新道の声には、疲れと同時に深い静けさがあった。弟子が膝をつくと、師はゆっくりと前へ歩み出た。

 白い髭を撫でながら、とど岡に問う。


「なぜお前は素手の白刃取りを稽古せぬ」


 とど岡は黙っていた。木刀を立てたまま、目を伏せる。やがて小さく答える。


「……木刀でしか成立せぬものを、真剣でやるなど夢物語です。

 命を刃に晒す技を、形だけで真似るのは、師の教えを汚すことになる」


 新道は一歩近づき、その肩に手を置いた。


「二刀流を愚弄するか」


「いいえ」


 とど岡は顔を上げた。その瞳には、微かな熱が宿っていた。


「私は、空手での白刃取りを創り出します。形でなく、理で掴む術を」


 静寂が落ちた。虫の声すら止み、師弟の間に沈黙だけが残った。

 新道は短く息を吐き、背を向けた。


「ならば――その理、見せてみよ。命を賭ける覚悟があるならばな」


 その言葉が、胸に焼きついた。


 さて、時の流れは速く、残酷である。ここにふたりの弟子たちの勝負は決した。


 とど岡はやいばではなく、さらに一歩踏み込み、対手の腕を制して太刀を取っていた。奪った刃で火野上の喉を断つ。


「……その型、なんと名付けた」


「剣先ではなく、根を断つ型ゆえ――根取ねとりと」


 どう、と死に体が地を打つ音がした。江戸の闇に、火野上神楽の命は果てた。

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