第16話 ルーカスの気苦労
「太るって、どうすれば早くできるんでしょうか?」
真面目な表情で問いかけてくる同僚に、ルーカスは微妙な笑みを浮かべた。
仕事終わりの書類整理中、同僚である桐原透真はルーカスに対して時折色んな相談を持ちかけてくる。頼ってくれる事は喜ばしい事だが、質問の内容が仕事以外のことである場合が問題だった。
それでも質問には真摯に応えようと思案するように顎に指先を添えて透真に視線を向ける。
「桐原さんは、一応平均体重より少し下といった所ではないですか?」
「えっと、体重というか……体力を付けたいというか」
出来る限り邪推はすまいと必死に頭をめぐらせる。
普通に考えるならば仕事が体力的に辛いとか、そういう方向性で考えるべき事例だ。
移動は車が殆どではあるが、稀にサロンに赴いた時などは立ったままで過ごす時間が長くなる事はある。しかし以前は営業職をしていたという彼がそれほど苦労するような事は無いはずだが……。
そこまで考えてきっぱりと思考を切り替えた。
理由を考えるのは止そう。素直に問われた質問にのみ答えよう。
これは最近ルーカスが身に付けた一種の自己防衛だ。
「体力を付けたいのでしたらまずは運動でしょうか? あとは食事をしっかりと取るのが基本ですね。今は三食ちゃんと食べているんですよね?」
「はい、少しづつ固形のものも食べられるようになってきたんです!
でも運動ですか……」
苦手なんですよね。と困ったように笑う同僚に、そうでしょうとも。と心の中で同意を示す。
「自室で出来るトレーニングなど、教えましょうか?」
「えっ、いいんですか? あ、でも、一人だと長続きするかどうか……ルーカスさんもそのトレーニングってしているんですか?」
「私ですか? 日々の簡単なトレーニングでしたら自室で行っていますが、あとは別のフロアにあるジムを利用していますね」
へぇ……と目を輝かせる同僚に涼やかに微笑んだ。
ジムならば総帥に話を通しさえすれば簡単なものならば利用可能だろう。しかし透真が興味を示したのは自室で行っているトレーニングの方だった。どうやらジムという所は彼にとっては敷居が高い物の様だ。
「一人だとやらなくなっちゃいそうですし、時間が合いそうな時にご一緒してもいいですか?」
「――――ええと……」
なんと答えれば良いだろうか。
ルーカスのトレーニング時間の半分は早朝、残りは仕事終わりに割かれる。つまり、透真が総帥と過ごしているであろう時間帯にほぼ重なるのだ。
透真が朝に弱い事は自己申告で、以前聞いている。
ならば自然と夜に、となるがこれを許可してしまうと総帥と過ごす夜以外の時間をルーカスと共に過ごす──ある意味で二人の関係の時間配分が逆算されてしまうことになる。
だからどうしたと言われればそれまでなのだが、それは非常に心苦しかった。
できればそういう事から目を背けて平穏な関係を築いていきたい。
ここは心を鬼にして突き放そうと決意する。
ニコリと笑顔を浮かべると透真へと向き直った。
「――桐原さん」
「は、はいっ」
改まるような声音にぴしりと背筋を伸ばす。
そんな透真にチクリと良心が傷んだ。
「私のトレーニング時間は早朝ですし、それに桐原さんのレベルに見合ったものではないと思います。今度簡単な基礎トレーニング表をお渡ししますので、空いた時間にまずそこからこなしてみましょう」
「そうなんですね……分かりました。まずは自分で頑張ってみます!」
一瞬、透真の表情が曇る。
しかし代案の提示に、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべ礼を言われた。
念のために筋力と持久力、どちらをメインで作るか聞いたところ、
「持久力かなぁ?」と首を傾げるように返答された。
そうでしょうとも、と浮かぶ心の声を即座に掻き消した。
この人は、何でも自分に相談してくるので、本当に色々と困ってしまう。
しかし一番困るのは、そんな気苦労を本気で嫌だと思っていない自分がいることだ。
小さく微笑んで明日にでも簡単なものをお渡ししますよ、と伝えるとしきりに礼を言われた。
本当に基礎的な事なので口頭でも教えられる程度のことなのだが、基本となるものであるからこそ、しっかりと行わないと効果が得られない為に書面で手渡す選択をとっただけのことなのだ。しかし何かとお礼をしようと頭を捻る同僚に思わず苦笑を漏らした。
「できることなら何でもするので遠慮なく言ってくださいね!」と胸を張るように言われているが、そういう安請け合いはよくありませんよ、とそのつど窘めている。
書類を整理し終えると二人で事務室を後にする。
仕事終わりの挨拶をお互いに掛け合うと静かな廊下を歩き出す。
願う事といえば、このまま平穏無事に穏やかな職場を維持して欲しいということが、願いだろうか?
そんな事を思いながらルーカスは軽く溜め息をつくのだった。
ヴァルドールの檻 星野 千織 @chiory
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