エルを、手に入れたい。

 湯船に張られた湯の中に身体を沈める。あたたかく、気持ちが良い。こんな風にゆっくりと入浴するのはいつぶりだろうか。ほう、と息を吐き出すと、エルは湯船の縁に頭を置いて天井を見上げた。


(あのあとは大変でしたね)


 額を床に打ち付けたまま動かないユリウスと、離れたところで座り込んでいたエル。何も知らない者達が見れば、エルがユリウスに何か仕掛けたと思っても不思議ではない。

 実際、駆けつけたアルベルト達はエルに敵意を向けてきた。

 もちろん、弁解はした。したが、自分で頭を壁にぶつけて自分で額を床に打ち付けたのだと説明しても、当然だが誰も信じてはくれなかった。ユリウスがそんな馬鹿げたことをするはずがないと。していたのだが。

 どれだけ事実を述べたところで、停戦の条件としてアウレア王国へやってきたエルの言葉は聞き入れてもらえない。敵国かつ戦乙女と呼称されているのであれば尚のこと。信じるに値しないのだ。

 エルは湯船の縁から頭を離すと、両手で湯を掬って顔にかけた。


(まさか、国王陛下が庇ってくださるなんて)


 何を言っても、アルベルト達はエルがユリウスを手にかけたと信じて疑わない。このままでは、停戦協定も破棄。クラルス王国とアウレア王国の信頼関係も崩れ、再び戦火を交えることになる。

 どうすれば、と奥歯を噛み締めたときだ。

 床に額をつけたままだったユリウスがのそりと起き上がった。

 赤い瞳を鋭くさせて周りを一瞥すると、すぐに状況を把握したのだろう。アルベルト達に向けて口を開いた。


「彼女は何もしていない」


 ユリウスのこの言葉がなければ、今頃どうなっていたか。アルベルト達は「まさかそんな」と半信半疑の様子だったが、ユリウスが嘘を吐くはずがないと判断したのだろう。エルへの敵意は潜められ、不本意そうではあったがアルベルトから謝罪があった。

 が、問題はここからだ。エルが言っていたことははたして事実なのか、アルベルトがユリウスに問い質したのだ。それは構わないのだが、その返答が新たな誤解を生むことになってしまった。


「エル王女はああ言ってたけれど、にわかには信じ難い話だ。兄さん、本当のところはどうなの?」

「……俺はもう、彼女に囚われている」

「は、はぁ!?」


 そのときのユリウスは、右手で胸を押さえながら、左手で前髪をくしゃりと握り締めて苦しむような表情をしていた。


(理解ができません。わたしに囚われているとは、どういう意図で仰られたのでしょうか)


 湯船から出ると、腰まである髪の水気をある程度取り、三段チェストの上に置いてあったバスタオルで全身を拭く。拭き終えると、用意してくれたネグリジェに袖を通した。やはり、湯浴み後に着て正解だ。

 実のところ、この湯浴みもユリウスが許可をしてくれた。城内を好きに動き、使用して構わないと。

 初めて対面したときは噂通りかと思ったが、今は随分違う印象を受けている。どちらが本当のユリウスなのだろうか。部屋に戻ろうと浴室を出るために扉を開く。

 だが、すぐ目に入ったのは見覚えのある胸元だった。急いで顔を上げると、そこには顔を赤く染めて視線を宙に彷徨わせているユリウスがいた。


「……っ、こ、国王陛下?」

「あ、いや、なんだ、アウレアへは来たばかりだろう? 部屋まで戻れるかが気になったものでな」


 道は覚えているが、と思いつつも、余計なことは言わずに厚意は素直に受け取るべきだ。エルは頭を下げる。


「ありがとうございます」

「そっ、そそ、それでは、行こうか」

「はい」


 歩き出すユリウスの数歩後ろをついていく。

 浴室までの案内でも思ったが、国王が直々にすることではない。それこそ、侍女に任せておけばいいのだ。アウレア王国では、こうして国王が動くことになっているのか。

 ふと視線を感じ、ユリウスを見ると視線が合った。しかし、すぐに逸らされる。かと思えば、ちらちらと視線を向けてくる。様子を窺っているのか、それとも他に何かあるのか。

 そうだ、とエルは「国王陛下」とユリウスへ呼びかけた。驚かせてしまったのか、彼はびくりと両肩を振るわせて振り向く。ただ、視線はいろんなところへ忙しなく向けられ、エルを見てはくれない。


「先程はありがとうございました。国王陛下のお言葉に助けていただきました。わたしの身勝手な我儘も聞き入れてくださり、感謝しかありません」

「礼は必要ない。当然のことをしたまでだ。そ、それよりもだな」

「はい」


 こほん、とユリウスは咳払いをするとエルの真正面へ向き直った。ちなみに、視線は床へと向けられていて今もエルを見ようとはしていない。


「俺の名は、ユリウス・ジークヴァルト・アウレア。君のことを、その、エルと呼んでも構わないだろうか。俺のことは……ユリウスと、呼んでほしい」

「わたしのことはお好きに呼んでいただいて構いません。ですが、国王陛下のことをお名前で」

「ユリウス」


 譲る気はないようだ。国王の名を呼ぶなど畏れ多い。では、これではどうかとエルは提案を持ちかけた。


「……ユリウス王とお呼びさせていただくのは」

「ユリウス」


 何故そこまで名前で呼ぶことにこだわるのか。されど、断ることもできない身。折れるしかないかと、ユリウスの望みどおりにその名を口にした。


「では、恐縮ですがユリウスとお呼びさせていただきます」

「……っ、ああ、ぜひそうしてくれ。俺はエルと呼ばせてもらう。エル、ふふ。エル、エル」


 ユリウスは嬉しそうに表情を綻ばせると、エルに背を向けて歩き出した。そして、響きを味わうかのようにエルの名を唇にのせ、舌で転がしている。


(国王陛下……いえ、ユリウスは、あのように笑うのですね)


 エルもユリウスの後ろを歩き、背筋が綺麗に伸ばされた背中を見る。

 名を呼んだだけなのに、あんな風に笑うとは思わなかった。だからなのか、わからないが胸の奥が少しあたたかく感じる。この感情の名は、何だろうか。


「エル、エル……」


 それにしても、ユリウスはいつまでエルの名を呼び続けるのか。さすがに不気味だ。

 そんなことを思っていると、今度はぶつぶつと何かを呟くような声が聞こえてきた。


「陶器のように白く、思わず触れたくなるほどのみずみずしくなめらかな肌。湯浴みをさせて良かった。あと、このネグリジェを用意したのは誰だ。エルによく似合っている。本当に良い仕事をしてくれたものだ。エルを見た瞬間、あまりの美しさに俺の心臓が張り裂けてしまうかと思うほどだった」


 ユリウスが視線を向けてきたため、エルと目が合う。その瞬間、ユリウスは顔を真っ赤にさせ、顔を背けてしまった。またしても歩みが止まる。


「……っ、エルは、お、俺を見ていたのか」

「は、はい。何か仰られているなと思いまして」

「……あまり、俺を見ないでほしい。俺はエルのその瞳が向けられるだけで死ねる自信がある。もうずっと息が苦しい」

「え?」


 エルに瞳を向けられると死ねる自信があるとは、何を言っているのか。

 言葉を失っている間にも、ユリウスは両手で頭を抱えて呟き続ける。

 

「ああ、でも駄目だ。エルの瞳が他の男を映すのは耐えられない。常に絶えず俺だけをその瞳に映していてほしい。けれど、そうすると俺の心臓は耐えられない。どうすればいいんだ」

「……あの、国王、ではなくて、ユリウス。仰られていることが、よくわかりません」

「俺は、エルを見た瞬間に一生分の理性を失った」


 更に意味がわからなくなったが、ユリウスは言葉を続ける。


「エルを見ていると心臓が跳ねて、息ができなくなる。なのに、エルを見ていないと落ち着かない。こんなにも、心臓が壊れそうなのに」

「……アルベルト様に、わたしに囚われていると仰られていましたが、それも何か関係しているのですか?」

「ああ、そうだ。エル、俺はエルに一目惚れしたんだ。エルを愛している。それ以外の言葉が見つからない」


 ユリウスは頭を抱えていた両手を離すと、右手で口元を押さえて左手で胸元を強く握り締めた。

 

「エルがほしい。エルを、手に入れたい」

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