第3話:小さな絆

 地面に倒れ伏した彼女は、しばらくの間、身じろぎもせずに荒い呼吸を繰り返していた。

 無理もない。あれだけの数のゴブリンに囲まれ、死闘を演じたのだ。体力も精神も、限界まで消耗しているはずだ。

 やがて、彼女はゆっくりと身を起こした。まず最初に取った行動は、警戒だった。短剣を構え、背後を巨木に預け、慎重に周囲を見渡す。その冷静さは、やはりただ者ではないことを示していた。

 この聖域がどういうわけか、ゴブリンたちには決して入ってこれない安全な場所であると理解すると、彼女はようやく体の力を抜き、ほう、と深く息を吐いた。

 そして、彼女は俺を見た。

 俺もまた、枝の上から彼女をじっと見つめていた。互いに言葉はない。ただ、視線だけが交錯する。彼女の瞳には、警戒と、混乱と、そして確かな感謝の色が浮かんでいた。

 彼女はすっくと立ち上がると、おもむろに懐から何かを取り出した。先ほど倒したゴブリンの耳だ。彼女は俺のいる木の根元まで歩み寄ると、そのゴブリンの耳を、まるで供物のようにそっと置いた。

 その行動の意味を、俺はすぐに理解した。

 おそらく、獲物の一部を分け与えるのは敬意と、感謝の表明なのだろう。

 胸の奥で、三十回の死と再生で凍りついていた何かが、じんわりと溶けていくような感覚があった。

 そうか。俺はずっと、誰かに見つけてほしかったのかもしれない。

 魔物からは餌としてしか見られず、あるいは道端の小石のように、その存在すら認識されない。俺は、この世界の風景の一部でしかなかった。だが、目の前の少女は、確かに俺を「個」として認識し、対等な存在として敬意を払ってくれたのだ。

 俺は枝からふわりと飛び降りた。彼女はビクリと身を竦ませたが、俺は構わず、彼女の足元まで歩み寄る。そして、地面に置かれたゴブリンの耳には目もくれず、ただまっすぐに、彼女の顔を見上げた。

 ただ、人に会えたということに感激していた。

 彼女は、俺のその行動に少し驚いたようだったが、やがてふっと口元を緩めた。彼女はゆっくりとしゃがみこみ、俺と視線の高さを合わせる。その瞳は、もう俺をただの鳥として見てはいなかった。


 聖域で最初の夜が明けた。俺と彼女の間には、まだぎこちない空気が流れていたが、それは決して悪いものではなかった。

 彼女の方から、動いた。彼女は懐から例の羊皮紙――月光草の絵を取り出し、俺に見せながら、必死な表情で何かを訴えかけてくる。その瞳は切実で、彼女がこれを探すために命を懸けていることが痛いほど伝わってきた。

 俺は、彼女の目的を完全に理解し、力強く頷いてみせる。

 任せろ、と言わんばかりに、俺は地面に降り、くちばしを使って森の簡易マップを描き始めた。聖域を円で描き、沼地や崖、魔物の縄張りなどを大まかに記していく。三十回の死で得た、俺の頭の中にある危険地帯マップの、初めての情報開示だ。

 蛇の縄張りには波線、ゴブリンの集落には歪んだ人型を描く。そして、西の森には、一際大きく、禍々しい「牙と一つの目」のシンボルを刻んだ。あいつらの危険性は、他の魔物とは比較にならない。

 描き終えた地図を彼女に見せ、それから彼女が持つ月光草の絵を指し、地図の中のある一点――危険な沼地のさらに奥にある洞窟を、くちばしで何度も強く指し示した。

 彼女は俺が描いた地図の意図を正確に読み取り、その目に驚愕の色を浮かべた。だが、すぐに真剣な表情に戻ると、自分の知る情報を地図に書き加えていく。彼女が通ってきたルート、ゴブリンと遭遇した場所。俺の知識と彼女の経験が合わさり、土の上の地図は、みるみるうちに精度を上げていった。

 言葉は一切ない。だが、そこには確かな意思の疎通があった。俺たちは、この瞬間、目的を共有する「パートナー」になったのだ。


 地図を完成させ、二人の間に確かな協力関係が生まれたのを感じた彼女が、ふと、思い立ったように顔を上げた。

 彼女はまず、自分の胸をトン、と指差す。そして、はっきりと、しかしどこか照れくさそうに、こう言った。

「エリアナ」

 エリアナ。それが彼女の名前。俺は、その響きを心の中で反芻した。

 彼女は次に、地面に指で何かを書き始めた。それは、俺が知るどんな文字とも違っていた。鳥の足跡のようにも、あるいは古代の紋様にも見える、不思議な記号の連なり。これが、この世界の文字か。彼女は、その記号を指差し、もう一度「エリアナ」と自分の名を告げた。

 そして、エリアナは俺の方をじっと見て、首をかしげた。お前は? と、その目が問いかけていた。

 俺は自分の過去の名前を伝える術を持たない。ただ「ピィ…」と、自分の鳴き声を小さく返すことしかできなかった。

 すると、エリアナは何かを理解したように、優しく微笑んだ。彼女は俺を指差し、俺の鳴き声を真似るように、こう呼びかけた。

「ピィ」

 ピィ。

 それが、この世界での、彼女がくれた俺の新しい名前。三十回もの間、名前すらなかった俺に、初めて与えられた名前だった。

 鳴き声をそのまま名前にするネーミングセンスはいただけないが、嬉しさはある。

 俺は、その呼びかけに応えるように、力強く「ピィ!」と鳴き、彼女の足元に駆け寄ってその差し出された手にそっと頭をすり寄せた。

 エリアナは嬉しそうに微笑み、俺の頭を優しく撫でる。「ピィ」と、もう一度。

 こうして俺たち――ピィとエリアナは、互いの名前を知る、真のパートナーとなった。


 目的地と危険地帯を把握した俺たちは、すぐに出発するのではなく、数日間、聖域で準備を整えることにした。まずは、この安全な拠点の能力を最大限に活用する必要がある。

 エリアナは実利的だった。狩人としての目で、聖域の中をくまなく調査し始めた。どこに水場があり、どこが雨風を凌ぎやすいか。彼女の動きには無駄がない。

 俺はそんな彼女の後を、とことことついて回った。彼女が見つけるのは、確かに理にかなった場所ばかりだった。だが、俺には三十回分の「経験」がある。

 エリアナが、巨木の根元にある窪みを寝床にしようかと検分している時だった。俺は彼女のズボンの裾をくちばしで軽く引っ張り、違う方向へと誘導した。

 なんだ? という顔をするエリアナに、俺は「ついてこい」とばかりに先を歩く。

 向かったのは、聖域の奥まった場所にある、小さな滝だ。一見するとただの滝だが、俺は知っている。確か、十二回目の生だったか。雨宿りの場所を探していて、偶然見つけた場所だ。

 俺は慎重に滝の横に回り込むと、小さな翼でエリアナを手招きする。彼女は半信半疑で俺について歩く。

 そしてその奥に隠された空間を見つけ、息を呑んだ。

 そこには、小さな滝の裏側に、大人二人が余裕で入れるほどの乾いた洞窟があった。滝の水が天然のカーテンとなり、外からはまず見つからない。洞窟の中には、発光する不思議な苔が自生しており、ぼんやりと青白い光で周囲を照らしていた。

「すごい……」

 彼女が、聖域に来てから初めて、感嘆の声を漏らした。ここは、ただ安全なだけの場所ではない。隠れ家として、これ以上の場所はなかった。

 俺たちの最初の「家」が決まった瞬間だった。


 滝裏の洞窟を拠点としてから、俺たちの連携はよりスムーズになった。

 エリアナは弓の弦を張り替え、矢羽根を整え、決して鍛錬を怠らなかった。洞窟の前で、遠くの木の葉を射抜くその技術は、もはや芸術の域だ。

 俺もまた、彼女に応えようとした。ピィという名にふさわしい存在であると示したかった。集中し、体内の温かい力を練り上げ、くちばしから小さな火の玉を吐き出す。最初は煙が出るだけで失敗し、エリアナにクスリと笑われてしまったが、再挑戦で洞窟の入り口に積んだ乾いた薪に火を灯すことに成功した。

 エリアナはその小さな炎を見て、驚き、そして納得したように頷いた。

 俺は、三十回の死の中で見つけた「食べられる木の実」や「毒のないキノコ」の場所をエリアナに教えた。エリアナはそれを採集し、焚き火で炙って、二人で分け合って食べた。俺がこの世界に生まれて初めて食べる「調理された食事」の味は、涙が出るほど美味しかった。

 エリアナが森で負った腕の傷に、オトギリソウのような草をくちばしで持っていったこともあった。エリアナも知っていたようで、葉を絞って傷口に塗っていた。

 痛みが和らぐのを感じ、彼女は俺に優しく微笑みかけ、そっと俺の頭を撫でた。くすぐったかったが、嫌な気はしなかった。


 その夜、洞窟の中から揺れる焚き火の炎を二人で眺めていた。パチパチと薪がはぜる音だけが、静かな聖域に響いている。

 ふと、エリアナが懐から何かを取り出した。それは、使い込まれて角が丸くなった、小さな木彫りの鳥だった。彼女はそれを、まるで宝物のように、両手でそっと包み込む。その横顔には、これまで見せたことのない、深い哀愁と愛情が浮かんでいた。

 俺が不思議そうにそれを見つめていると、彼女は俺に気づき、少しだけはにかんだ。そして、その木彫りを俺の目の前に差し出す。

 その木彫りにどのような由縁があるのか俺は知らない。

 それでも、彼女はたった一人でこの絶望の森に立ち向かっているのだ。

 俺は、彼女の足元にそっと寄り添った。そして、小さな体で、彼女の足に自分の体を預ける。

 大丈夫だ。お前は一人じゃない。

 声にならない、しかし確かな想いを込めて。

 エリアナは驚いたように俺を見下ろし、やがて、その目にうっすらと涙を浮かべた。そして、ありがとう、とでも言うように、俺の背中を優しく撫でた。

 その夜、彼女が時折ハミングする歌は、いつもより少しだけ、温かく聞こえた。俺は彼女の膝元で丸くなり、三十回の孤独な生の中で、初めて安らかな眠りについた。

 言葉は、まだない。

 だが、もう必要ないのかもしれないと、俺は思い始めていた。

 この穏やかな時間こそが、これから二人で嘆きの森を攻略していく上での、何よりの力となる。俺は確信していた。

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不死鳥に転生したけど最弱のヒナでした。絶望の森で三十回死んだ俺、最強の美少女狩人と出会い、彼女と共に無双する。 相生 @aioi_

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