第2話:出会い
俺が新たな決意を固めてから、数日が経過した。
定位置は、聖域の中央にそびえる巨木の、一番見晴らしの良い枝の上。ここからなら、聖域の境界線の外、嘆きの森の様子がある程度観測できる。俺の日常は、この森の「定点観測」だ。東からは粘液質の触手を持つ植物型モンスター、西からは俊敏な爬虫類型モンスター。北の沼地は蛇の縄張り。それらの行動パターン、活動時間、そして天候による変化などを、頭の中の地図に淡々と記録していく。それは希望に満ちた行動というより、三十回の死で得た「無駄な死はもうご免だ」という、生存のための必死な足掻きだった。俺は、この理不尽なゲームの仕様を把握しているだけの、孤独なプレイヤーに過ぎない。
その日、いつものように森を眺めていた俺は、西のエリアに見慣れない動きを感知した。
魔物とは明らかに違う。効率的で無駄がなく、それでいてどこか周囲を伺うような慎重な動き。
――人間だ。
嘘だろ、と俺は思った。三十回の生と死の中で、明らかに人間と思えるような生命体を見たのは、これが初めてだった。驚き、そして次の瞬間、猛烈な焦りがこみ上げてきた。
まずい、まずいぞ……! どうしてこんな森の奥深くに人間がいるんだ? 見たところ、動きやすい革鎧に、背中には弓、腰には短剣と、装備は素人目にはしっかりしているように見える。
それでも人間は明らかに若い、まだ幼さを残した女の子であった。
早く引き返してくれ……! 俺は祈るような気持ちで、その小さな人影を見つめていた。その一挙手一投足から、目が離せないでいた。
彼女は、驚くほど冷静だった。時折立ち止まっては、風の匂いを嗅ぎ、地面の痕跡を確かめている。素人ではない。だが、それゆえに彼女は、自分の知らない脅威が潜む森のさらに奥へと、着実に進んでしまっていた。
そして、俺が最も恐れていた事態が起きた。彼女の進路上に、ゴブリンの斥候が二匹いるのを俺は認識していた。
彼らは小鳥になった俺でも撒ける程度の知能だが、ある程度組織だった秩序と明確な縄張り意識を持つ。
彼女は気づかず、その縄張りに足を踏み入れてしまう。
ああ、終わった。そう思った。だが、彼女の反応は俺の予測を裏切った。茂みからゴブリンが飛び出すより早く、彼女の体が動いていたのだ。瞬時に弓をつがえ、引き絞って放つ。
その洗練された動きに、俺は息を呑んだ。ただ者じゃない。
だが、安堵したのも束の間、俺はさらに大きな絶望を目の当たりにする。斥候を片付けた彼女の周囲から、本隊と思しきゴブリンの群れが姿を現したのだ。罠だったのだ。数は六匹。完全に包囲されている。
まずい、数が多すぎる! 俺は枝の上で身を乗り出す。あれほどの彼女でも、あの数に囲まれてはひとたまりもないだろう。どうする? 俺に何ができる? この体じゃ、飛び出したところで殺されるだけだ。見ていることしかできないのか?
かつて、炎の中で人を助けるために無我夢中で動けた自分が、今は?
もどかしさが、俺の心を焼き尽くすようだった。
*
冷たく湿った空気が肌を刺す。腐葉土と、血の錆びたような匂いが混じる、嘆きの森の空気。父様から教わった狩人の知恵を総動員し、五感を研ぎ澄ませていた。不自然に折れた枝、風に乗る微かな獣臭、そして何より、生き物の気配が不自然に途絶えた森の静寂。
罠の匂いがする。私は背中の弓の弦にそっと指をかけ、いつでも矢をつがえられるように準備した。足元の地面を確かめ、木の幹に背後を預けられる位置へと、音を立てずに移動する。
思考の直後、左右の茂みから二匹のゴブリンが涎を垂らしながら飛び出してくる。甲高い奇声を上げ、錆びたナタを振り回している。典型的な待ち伏せ。だけど、私の心は氷のように冷静だった。
二匹。まだ距離はある。
私は瞬時に背中の短い弓を構え、矢をつがえる。息を吸い、止め、狙いを定める。狙うは一体の眉間。威嚇ではない、一撃で確実に仕留め、もう一方の戦意を削ぐための一射。引き絞られた弦が、乾いた音を立てて空気を弾く。放たれた矢は風を切り、ゴブリンの頭蓋を寸分違わず正確に貫いた。
脳漿を撒き散らして倒れる仲間を見て、もう一匹のゴブリンが驚愕に動きを止める。その数秒の隙を、私は逃さない。弓を捨て、腰の鉈のような短剣を抜きながら地を蹴っていた。
ゴブリンが我に返り、怒りの雄叫びと共にナタを振り下ろす。私はその一撃を、体を沈めることで紙一重でかわす。空を切ったナタがすぐ横の木にめり込み、木片が飛び散った。ゴブリンの体勢が、ナタを振り切ったせいでわずかに崩れた。好機。私はゴブリンの腕の下を潜り抜けるように懐に飛び込み、がら空きになった喉元を、返す刃で深く、強く切り裂いた。ごぼり、と嫌な音を立ててゴブリンが倒れる。
返り血を浴びても、私の心は揺るがない。手早くゴブリンの所持品を改め、小さな革袋だけを回収する。そして懐から羊皮紙――「月光草」の絵を確かめた。母様の命を救うまで、こんなところで立ち止まるわけにはいかないのだ。
だが、安堵したのも束の間、背筋に悪寒が走った。
しまった、誘い込まれた……!
周囲の茂みから、一回り大きなリーダー格に率いられたゴブリンたちが姿を現す。数は六匹。完全に包囲されている。
真正面から戦って勝てる数ではない。ゴブリンたちは下卑た笑みを浮かべ、じりじりと包囲網を狭めてくる。リーダー格のゴブリンが、ひときわ大きな棍棒を肩で担ぎ、値踏みするように私を見ていた。あの棍棒の一撃を受ければ、骨ごと砕かれるだろう。
絶望的な状況。だけど、私の心はまだ折れていなかった。
囲まれているが、陣形は粗い。右翼の二匹の間隔がわずかに広い。突破するなら、あそこしかない。リーダー格は中央。突破を試みれば、側面から棍棒の一撃が飛んでくるだろう。それをどう捌くか。私の思考は、生き残るための一手を探して高速で回転していた。
私は短剣を逆手に持ち、腰を低く落とす。生き残るために、牙を剥く獣になるのだ。
私が決死の覚悟で地を蹴ろうとした、その瞬間だった。
「ピィィィィィィィッ!」
なんだ、この音は?
魔物の雄叫びとは違う、もっと鋭く、天に響くような鳴き声。私の思考が一瞬乱れる。だが、それよりも早く、体が動いていた。目の前のゴブリンたちの注意が、ほんの一瞬だけ逸れた。これ以上ない好機。
今しかない!
私は、狙いを定めていた包囲の隙間へと、獣のように突進した。驚きで反応が遅れたゴブリンの顔面に、足元の土を蹴り上げ目くらましにする。もう一体が慌てて振り下ろした棍棒を、地面を転がるようにして回避し、強引に包囲の外側へと躍り出た。
そして、私は瞬時に理解した。あの鳴き声は、偶然ではない。私を助けるための、意図的な援護だったのだと。
私は迷わず、音のした方向――あの不思議なほど穏やかな気配がする場所へと、一直線に駆けた。
*
彼女が、決死の覚悟で地を蹴ろうとする。リーダー格のゴブリンが、勝利を確信して口を歪めた。
万事休す。
その光景が、炎の中で助けを求めていた少女の姿と重なった。
――もう、見殺しにするのはごめんだ。
俺は理屈ではなく、魂の叫びに従っていた。喉の奥から、ありったけの空気を絞り出す。そして、叫んだ。
「ピィィィィィィィッ!」
今まで出したこともないような、甲高く、鋭い金切り声。それは聖域の静寂を切り裂き、森中に響き渡った。
俺の必死の叫びに、ゴブリンたちの注意が一瞬だけ逸れる。
その隙を、彼女は見逃さなかった。信じられないほどの集中力と瞬発力で、包囲網の一角をこじ開ける。そして、一瞬の躊躇もなく、俺がいるこの聖域に向かって走り出したのだ。俺の意図を、完全に理解している。
「グルァァ!」
我に返ったゴブリンたちが、怒りの雄叫びをあげて追ってくる。背後から迫る足音と、風を切って飛んでくる石つぶて。だが、彼女は振り返らない。ただ、俺を信じて、前へ、前へと走っていた。
やがて、目の前の空間が、ふわりと開けた。花と光に満ちた、穏やかな場所。
彼女はそこに、転がり込むようにしてたどり着いた。
追ってきたゴブリンたちは、しかし、その聖域をまるで認識することができないようだった。光学的には明らかに彼女の姿はゴブリンたちの視界に含まれているはずなのに、彼らはまるで彼女を見失ったかのように引き返していく。
後に残されたのは、聖域の中に転がり込み、荒い息をつく彼女の姿と、枝の上でそれを眺める俺の姿だけだった。
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