不死鳥に転生したけど最弱のヒナでした。絶望の森で三十回死んだ俺、最強の美少女狩人と出会い、彼女と共に無双する。
相生
第1話:三十回目の死
ああ、まずいな。
頭上から迫る影と、獲物を見つけた魔物の甲高い羽音。まるで薄いガラスを爪で引っ掻くような、神経に障る音だ。右後方、苔むした岩陰までの距離はおよそ三メートル。今の俺の貧弱な脚力では、全力疾走しても到達まで一秒半はかかる。対して、敵――仮称『ベニトンボ』の急降下速度から予測する接敵時間は、コンマ八秒。
計算するまでもなく、詰んでいた。
「……今回の死亡要因は、上部への警戒の不足と足場かな」
俺は冷静に敗因を分析し、最後の悪あがきとばかりに地面を蹴った。数センチでも回避ルートがずれれば、即死だけは免れるかもしれないという淡い期待を込めて。もちろん、そんな奇跡が起こるはずもなかった。『ベニトンボ』の槍のように鋭利な口吻が、俺の小さな体をいとも容易く貫いた。視界がぐにゃりと歪む。痛みは、もう慣れた。薄い膜を一枚隔てたような、どこか他人事の感覚だ。鋭い痛みというよりは、鈍い衝撃と、体中の力が急速に抜けていくような脱力感。それよりも、
まったく、せっかく『聖域』の外縁部の調査が進んでいたというのに。崖際に実っていたあの黒いベリー、もしかしたら食えるかもしれなかったんだが。ここのところ決まった木の実ばかりで飽き飽きしていたから、新メニュー開拓の夢が潰えたのは残念でならない。
「調査は、次の俺に引き継ぎだな……」
そんな最後の思考を巡らせながら、俺の三十回目の生は、あっけなく幕を閉じた。
意識が暗闇に呑まれていく。
いつも通り、このまま卵の中の温かい暗闇へと直結し、一瞬の後に次の生へとリスポーンする。毎度、魂が巣へと引き戻される奇妙な浮遊感が、忘却の彼方に沈めようとしている記憶が蘇る。
それは、俺がまだ、鳥ではなく、人間だった頃の記憶。
――たった一度きりの、最初の死の記憶だ。
ごう、と巻き上がる炎の咆哮が耳元で響く。熱い。息を吸うたび、肺が内側から焼けるようだ。視界を埋め尽くす朱と黒。
俺は燃え盛る雑居ビルの中にいた。消防隊員の制止を振り切り、奥へ進んだのは正義感なんて大層なものじゃない。ただ、「まだ中に子供がいる」という母親の悲鳴を聞いてしまった。その顔を見てしまった。それだけだ。見て見ぬふりをして、この先何十年も後悔しながら生きるより、今ここで数分間の危険を冒す方が、よほどマシだと思った。
煙を吸いすぎてもう頭が正常に働いていない。それでも、腕の中の小さな体を守ることだけを考えていた。
「もう大丈夫だ。一緒にここから出よう」
誰に言ったのか。多分、腕の中の少女と、そして何より、恐怖で竦みそうになる自分自身に言い聞かせたのだろう。
窓の外はまだ遠い。背後で!」天井が崩落する音が響く。もう、時間がない。俺は最後の力を振り絞り、熱で変形した窓枠に手をかけ、焼け付く痛みに呻きながらも窓をこじ開ける。階下で仲間が広げているであろう救助マットは、黒煙で見えない。だが、信じるしかなかった。
「しっかり掴まってろよ」
少女を抱きしめ、窓から身を乗り出す。その直後、凄まじい衝撃が背中を襲った。痛みはなかった。ただ、ぷつりと糸が切れるように、俺の意識は闇に沈んだ。
少女がどうなったかはわからない。俺が壁になって直撃は避けられたはずだが。
しかしやれることはやった。やるべきことはやった。
人間としての人生は、ささやかな穏やかな満足感に満ちた、エンディングだったはずだ。
だから、次に意識が戻った時、俺は混乱した。
暗く、狭く、体を丸めるので精一杯の空間。瓦礫の下かと思ったが、違う。もっと柔らかく、温かい。無我夢中で手足を突っ張ると、目の前の闇に亀裂が入り、光が差し込んできた。
卵の殻だ、と気づいたのは、外に転がり出た後だった。
そして、自分の体を見て、言葉を失った。
手がない。代わりに生えているのは、赤い産毛に覆われた、小さな瘦せた翼。足は鳥のそれだ。声を出そうとしても、「ピィ」という鳴き声しか出てこない。
目の前の世界は、なにもかもが巨大だった。草の葉は剣のように鋭く、小石は岩のようにそびえている。ここはどこだ? 俺は、どうしてしまったんだ?
悪夢だと思った。だが、頬を撫でる風も、地面の湿った感触も、花の蜜の甘い香りも、あまりにリアルすぎた。
俺が生まれたその場所は、陽光が降り注ぎ、色とりどりの花が咲き乱れる、静かで美しい円形の広場だった。不思議なほど安全な空気に満ちていて、外の世界の脅威を遮断しているようだった。
だが、広場は安全以外にはなにももたらさなかった。喉は渇き、腹が減っていた。泉の水はあったが、食べられるものは見当たらない。このままではここで飢え死にする。
俺は、この悪夢の正体を確かめるために、意を決して広場の外へ出た。
その選択が、致命的な間違いだった。
広場を囲む巨木の根を越えた瞬間、空気が変わった。暖かかった陽光は鬱蒼とした木々に遮られて、届かず、湿っぽく冷たい空気が肌を撫でる。木々の幹は不気味なほど真っ直ぐで、静寂が支配していた。
引き返そうとした俺の目に、茂みからぬるりと現れた巨大な蛇が映る。自分の身体が小さいということを差し引いても信じられないほどの巨大さ。全長は八メートルほどか。
まずい。食われる。
人間だった頃の脳が警鐘を鳴らすが、ヒナの体は恐怖で竦んで動かない。蛇の顎が開き、俺の小さな体を丸呑みにする。
体が押しつぶされ、骨が砕ける感覚。痛みは思いがけず薄い。ただ、為すすべもなく命を奪われる屈辱と、「なんで俺が」という理不尽さだけが、心を支配した。
そして、俺は再び死んだ。あっけなく。第二の生はおよそ一時間だった。
再び、卵の中の暗闇で意識が戻る。
そこで、俺はすべてを悟った。死んでも、またここに戻される。俺は、いわゆる
それは、希望ではなかった。あの屈辱的な死を、これから何度も味わわなければならないという、絶望の宣告だった。
それから、俺の死のループが始まった。
二度目は、木の幹に擬態していたカマキリに頭を刈られた。三度目は、甘い香りに誘われて近づいた食肉植物に捕まり、消化液でゆっくり溶かされた。四度目は、緑がかった肌の小人、仮称『ゴブリン』に寄ってたかって囲まれ、最終的に四肢をもがれて分配された。
死ぬたびに、俺は学習した。敵の特性、森の地形、危険な場所。痛みには慣れた。死ぬことにも慣れた。人間だった頃の正義感や誇りは、死を重ねるたびにすり減り、単に反骨精神と好奇心のみで行動していた。
だが、忘れもしない、十数回目の死。
その日、俺の心は完全に折れた。
それまでの経験を活かし、かなり長時間生き延びていた。岩陰に潜み、あるいは茂みを渡り、少しずつ行動範囲を広げていた。
だが、森の空気が一瞬で凍りついた。
地響きと共に、巨大な狼の群れが現れたのだ。一頭一頭が仔牛ほどもある、統率のとれた獣たち。その群れを率いる隻眼のアルファの、冷徹な知性を宿した瞳が、俺の脳裏に焼き付いている。
俺は息を殺した。心臓が、内側から体を突き破るのではないかと思うほど激しく鼓動する。
群れの一頭が、俺が隠れる岩に気づいた。目が合う。だが、その目に獲物としての光は宿らない。狼は、俺の動きなど歯牙にもかけず、ただそこに落ちている肉を拾ったかのように、素早く俺を食い散らかした。
あの死で、俺は悟ったのだ。
この森では、俺は虫けら以下の存在なのだ、と。狩猟対象ですらない。ただの餌。抵抗してもしなくても変わらない、無価値な存在。
正面から挑んでも、絶対に勝てない。
それ以降、俺はこの狼の群れを徹底的にマークし、絶対に遭遇しないように努力した。相変わらず外に出れば他の魔物に襲われたが、少なくともこの狼とは遭遇しないようになった。
また、俺が毎度リスポーンする、大樹。この周辺は見た目通りなぜか魔物が入りこまない『聖域』だった。この聖域を唯一安全な観測拠点とし、外の魔物の生態を記録し、森の地図を頭の中に作り上げる。地味で、退屈な毎日を過ごすことにした。
――そして、三十回目の死を経て、今に至る、というわけだ。
回想の旅は、卵の殻が割れる音と共に終わりを告げた。
ぱり、と音を立てて、俺は再びの二度目の生、いや、正確には三十一度目の生を受けた。目の前には、見飽きるほど見慣れた聖域の光景が広がっている。
俺は小さくため息をつき、羽毛についた卵の殻を振り払った。
「ベニトンボはおそらく聖域周辺東部から北部にかけて。前回の遭遇からかなり離れた地点だから活動範囲は広そう。ベリーの味見はまたお預けだな」
独りごちて、ふと、思考が止まる。
蘇ったばかりの、人間だった頃の記憶。炎の中で、俺が何を考えていたか。
そうだ。俺は、誰かを守るために、自分の命を懸けた。結果として死んだが、そこに後悔は一片もなかった。
翻って、今の俺はどうだ?
俺は、自分の今の姿を見下ろす。手のひらサイズの、か弱いヒナ。生きるためでもなく、ただ死なないためだけに、この安全な牢獄に引きこもっている。
あの時の覚悟は、どこへ行った。
「……柄じゃない、か」
自嘲気味に、俺は小さな翼を広げた。
だが。
本当にそうだろうか。確かに体は無力だ。だが、俺の頭の中には、三十回の死で得た、このデータがある。どの魔物がどこにいて、どんな特性を持つか。その知識は、ささやかながら、この森を生き抜くための武器になるはずだ。
あの男の魂が、まだこの小さな体に残っているというのなら。
こんなところで、ふてくされている場合じゃない。
「三十回も死ねば、チュートリアルとしては十分すぎる」
俺は、聖域の外、禍々しい気配に満ちた「嘆きの森」をまっすぐに見据えた。
「――そろそろ、この理不尽なゲームの攻略にかかるとしようか」
俺の小さな瞳に、分析的で、したたかで、そしてどこか挑戦的な光が宿る。
それは、絶望の森に生まれた不死鳥が、ただ生き延びるのではなく、初めて自らの意志で「生きる」ことを決意した瞬間だった。
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