第8話 繋ぐ――軍師との協定を深め、噂と策で王都へ糸を伸ばす

 夜。砦の書庫は、火の気を最小限に落としても、紙の匂いだけで十分にあたたかかった。古い羊皮紙は、雨の日の犬の背のようにわずかに波打ち、光をかすかに弾く。机の上には、青い糸の旗と同じ紋を刻んだ印璽と、乾いた砂、封蝋の小皿、羽根ペン。私はその中央に新しい巻紙を広げ、リュシアンと向かい合った。彼の外套の裾はいつものように音を立てず、ただそこに在ることで空気を均す。


「盟約は、理念であり、約束だった」と私は言う。「今夜は、仕組みに落とす」


 彼は頷いただけで、余計な言葉を挟まない。余白は、相手に委ねる意思表示だと、彼から学んだ。


 私たちは三本の線を地図のように引く。軍政、財政、司法補助。線は遠くで交わらず、しかし手前の円の中で触れ合う。触れ合うところに印を置き、そこを「確認」の場とする。私は条項を読み上げた。


「軍政:常備、徴集、兵站、訓練計画。統括は軍師リュシアンに委ねる。ただし、動員の最終決定権は砦責任者にある」


「財政:配給、俸給、調達、備蓄。統括は会計役に委ね、監督を私が持つ。主要支出は二重署名」


「司法補助:記録、巡回簿、証言整序、裁定の脚本。統括は書庫役、監督は両名」


 項目に触れるたび、羊皮紙の端で火が小さく揺れた。火は息をする。私たちは、火の呼吸に合わせて言葉を置く。言葉は乾いた砂で封じ、印を沈める前に一度だけ指先で輪郭をなぞる。輪郭は、明日にも読めるように、今日の温度を残しておきたい。


「私が倒れても回る仕組みにしたい」と私は言った。


「それが国家だ」と彼は返す。短いが、背骨のある言葉。


 印璽を握り、蝋の上にゆっくりと沈めた。青い糸の紋が黒い蝋の上に浮かび、輪郭だけが光を掬う。印は二つ。私の印と、軍師の印。二つの重さが一つの文を折れにくくする。紙は脆い。だが、重さがあれば、風に抗える。


 ペン先を洗い、新しい巻紙を引き寄せる。「次は、外に伸ばす糸だ」とリュシアンが口を開く。机の端には、押収した矢羽根、商会印の箱の欠片、巡回簿の写し。断片は揃った。けれど、それを王都の机の上に並べたとき、机ごと蹴り倒されるかもしれない。王都では、真実より順序が重んじられる。順序よりも、体面が重い。


「噂を流す」と彼は言った。「『辺境で悪役令嬢が暴れているが、配給は増え、橋は繋がり、人々は笑い始めた』。敵は“悪役”という語に反射する。反射は読みやすい。読みやすいものは、操作しやすい」


 噂は武器にも盾にもなる。私は書き手に短文の瓦版を作らせる紙の大きさを決め、字幅を合わせた。三段で足りる。〈橋、繋がる〉〈配給、目の前で〉〈旗、青い糸〉。余白に小さく署名――「辺境の倉の前にて」。旅の商人には小銭と温い寝床を、兵の従兄弟には乾いたパンと新しい靴紐を。対価は言葉の行き先をやさしくする。


 私はもう一枚の紙を取り、王都の下級役人に縁のある兵の従兄弟へ宛て書く。婉曲でよい。露骨は反射を硬くする。


『辺境の秩序回復、概ね成功。王都の失策の噂が立つ前に、真っ当な支援の名義を借りたい。功績の共有は、双方に益あり』


 言い分は、敵対でも降伏でもない。利害の計算に置き換える。正面から喧嘩を売る力は、まだない。けれど、正面からの味方を引き出す余地は、少しある。


 窓の外は夜更け、風が紙の端をくすぐる。リュシアンが地図を広げた。私の知らない古い印が刻まれた、隣国の古い交易路。線は太い道から逸れて山間へ続き、青い糸のように細い小道で国境を縫う。


「亡国で最後に通った道だ」と彼。「いざという時、王都を迂回して商いを繋げる。道は一つだと、人質にされる」


 代替線。政治の保険。私は青い糸の旗の紋に指を置き、指先で小さく点を打つ。点は、やがて線の結び目になる。


 書庫の奥、記録棚から『裁定の脚本』の仮稿を取り出す。三日後。代官の裁定は、群衆の熱がいちばん高くなる刻に当たる。熱で裁けば、冷めたあとに軋みが出る。だから脚本を用意する。順序はこうだ――


 ①数字。配給、俸給、倉庫の出入り、巡回簿の刻。板に書き、子どもに読み上げてもらう。


 ②証拠。箱の焼印、矢羽根の結び、鍵の刻み、封蝋の割れ目。


 ③本人の弁。代官に話させる。言い訳も、事実も、沈黙も、観衆に見せる。


 ④第三者の証言。商人、見回りの兵、粉屋の少年、老婆。一人ずつ短く。


 ⑤判決。罪は個に返し、同時に「倉庫管理の伝統」に刃を入れる。制度の曖昧は故意を温める。ここで彼の口から一言を引き出す――〈伝統が不透明だった〉。その言葉を彼の言葉にすれば、慣行の解体は復讐ではなく改革になる。


 私は一つひとつに備考を書き足す。声の高さ、間の長さ、紙のめくり方。見せる秩序は、呼吸で崩れる。呼吸は稽古できる。


 ペン先が擦れる音が途切れたとき、リュシアンが窓の外に目を遣った。


「君はよく眠れていない」


「眠りは贅沢」と私は肩を竦める。「けれど、贅沢を知らない者の秩序は、どこか貧しい。夜に少し贅沢を認める」


「つまり、灯りを一つ増やす」


「灯りは、数えられる贅沢」


 私たちは短く笑って紙に戻る。彼は古地図を折り、私の書いた脚本の余白に、点を三つ打った。それは地図の上では街道の脇の井戸の印だという。


「逃げる時に水がいる」


「攻める時にも」


「生きる時は、いつでも」


 夜はさらに深まり、書庫の空気が黒く澄んだ。私はひとつ息を長く吐き、目を閉じる。胸の底には、二つの色が沈んでいる。復讐の黒と、建国の青。黒は燃料になる。青は設計図になる。どちらかだけでは走れない。矛盾ではない。矛盾を抱えて立ち続ける技術が、統治の技術だ。


〈恐れられる“悪役”のまま、信頼される“主”になる〉


 心の内側でその文を何度か反芻し、私は燭を少しだけ短く切った。燃える長さを自分で決めること。それもまた、仕組みの一部だ。


 翌朝。広場に机が並び、招集の板に名前が連なった。軍政・財政・司法補助――職印を配る儀式は、華やぎが少ない代わりに、肩の幅が広い。書き手が自分の名の前で立ち止まって、少し驚いた顔をする。兵の誰かが、照れ隠しに咳払いをひとつ。私は壇上で短く告げる。


「職務は権利ではなく義務。失敗は私が引き受けます。成功はあなたが受け取りなさい」


 拍手は大きくない。けれど、深い。掌の中で鳴る音は、骨に届いて長く残る。リュシアンは人混みの端で腕を組み、視線を旗に上げていた。白地に一本の青い糸。昨日より風は弱いのに、糸はよく見えた。目が増えたからだ。目の数が布を紋章に変える。紋章が物語になる。物語は、人の体を並ばせる。


 儀式の後、私は書庫の扉に掲示を貼る。〈瓦版作成:午前中に三十枚。商人への配布指示〉〈王都向け書簡:従兄弟の名で投函〉〈噂の種:橋・配給・笑い〉。笑いは大袈裟でなくていい。人の口角が半分だけ上がる程度の笑いでいい。その半分が噂を運ぶ。


 商人が二人来た。ひとりは古い外套、ひとりは新しい靴。新しい靴には砂の筋がない。遠くから来たのではない。近場で新調した。私は古い外套に瓦版を五枚、新しい靴に三枚渡し、片方には温い粥、片方には固いパンを出す。公平ではない。だが、噂に必要なのは厳密な公平ではなく、行き先の多様だ。


 内側の噂も整える。裁定三日後――「処罰」という字面の代わりに「公開の正しさ」という語を選ぶ。語は、選ばないと勝手に選ばれる。選ばれた語は、たいてい誰かの都合だ。私は書き手に字の大きさを指定し、子どもに読み上げる稽古をさせる。高く、低く、短く。短い言葉ほど、意味が大きい。


 午後、記録兵が巡回簿を更新に来た。二重の筆跡は昨日より迷いが少ない。迷いの少なさは、偽造の余地を減らす。彼らの腰紐には札が新しく巻かれ、板の端には子どもの指の跡がいくつも残っている。触れられたものは壊れやすいが、触れられないものは忘れられやすい。壊しながら覚え、覚えながら直す。生活はその繰り返しだ。


 夕刻が近づく頃、砦の門で旅の一団が足を止めた。瓦版が二枚足りなかったので、私は自分の控えから一枚剥がして渡す。商人は私の顔を値踏みするように見、やがて笑った。「悪役令嬢さま」と、呼ぶ声が少し柔らかい。悪役という語が盾になっている。私が言い返せば、刃になる。私は笑いを返すだけにした。人は自分の口で言った言葉を信じやすい。ならば、その口に安心を少し残したい。


 夜。書庫に戻り、机の上の紙列を整える。裁定の脚本、外向け書簡、瓦版の刷り、職印の控え、巡回簿の写し。順番を揃えれば、心の呼吸も揃う。リュシアンが静かに入ってきて、机の角に指を置く。音を立てない。彼は声を低くする。


「王都は、噂の形を嗅ぐ。『成功』という匂いに、二通りの反応がある」


「刈り取るか、掬い上げるか」


「掬い上げる手があるよう、失点の余地を作れ」


「余地は、功績の分配に」


「名を一つ、王都の机に置け」


「名は、押印の隣に」


 彼の指が、印璽の縁を一瞬だけなぞった。誰の名を置くべきかは、もう決めてある。王都の若い文官がひとり。清廉だが、出世の梯子が短い。梯子の一段を延ばしてやれば、こちらの橋の板は一本増える。板は多いほど、落ちにくい。


 その夜、私は机に頬杖をつき、外の風で揺れる青い糸を眺めた。糸は細い。細いものを、私たちは旗と呼ぶ。旗は布だ。布を旗にするのは目だ。目の数は噂の数で増やす。噂は、刃にも盾にもなる。私は目を閉じ、耳で砦の音を数えた。井戸の滑車、鍛冶場の槌、巡回の靴音、子どもの読み上げ。どれも小さく、しかし確かだ。


 窓辺に立つと、リュシアンの影が床に長く伸びた。彼は古地図をもう一度開き、青い線の途中に小さな×印を三つ打った。井戸、宿、関所。関所の脇に細い獣道があるらしい。獣道は、人の足跡が薄くなる道。薄い道は、音が少ない。音が少ない道は、話が速い。速い話は、時に嘘を追い越す。


 夜半を回り、私たちは灯をひとつ落として書庫を出た。廊下は冷え、石は乾いていた。私は歩きながら、自分に言い聞かせる。〈恐れを、規律に。規律を、公正に。公正を、物語に〉。物語は、弱い朝に効く。朝、人は強くない。だから、朝に読む紙に、柔らかい勝利を載せる。


 翌朝、広場の空は薄く青い。職印を押した札が机に並び、人の列がいつもより静かに伸びる。印の受け渡しは儀礼であり、手続きだ。印は権利ではなく、義務の形をしている。胸の前で札を受け取る兵の手はわずかに震え、その震えが誇りに変わる瞬間、彼の背がほんの少し伸びる。その背の高さが、今日の「強さ」の最大値になる。


 私は壇から一歩降り、旗の下で立ち止まる。リュシアンと目が合う。互いに言葉はない。必要がないからだ。糸は繋がった。あとは、引く力を増し、切れない工夫を足し続ける。噂は王都へ、書簡は机へ、古い道は山へ。青い糸は、もうこの砦だけの印ではない。王都の耳、隣国の目、商人の勘――届くべきところへ届きはじめている。


 反応は必ず来る。歓迎か、弾圧か。そのどちらにも、手を用意しておく。歓迎は功績の分配で受け、弾圧は列と紙でいなす。私は胸の内で短い祈りを整え、群衆へと向き直った。


「本日も、数字で動きます。噂で走りません。噂は、外へ。数は、中へ」


 笑いがいくつか、薄く広がる。薄い笑いは、よく持つ。私は最後に旗を見上げた。青い糸が朝の風にわずかに震え、街道の先へと一本の線を描く。線は、昨日より長い。長い線は、まだ細い。細いからこそ、引ける。引きながら太らせる。太れば、切れにくい。切れなければ、旗は旗であり続ける。


 机に戻ると、書庫の扉の影が静かに揺れた。私は羽根ペンを取り、今日の最初の行を書き付ける。


〈王都への糸:噂(橋・配給・笑い)→商人/書簡(功績共有の誘い)→下級役人/古路(青い細道)→商いの予備線〉


〈裁定の脚本:数字→証拠→本人→第三者→判決。最後に“伝統”という言葉を本人の口に〉


〈内側の噂:公開の正しさ/二重鍵と二重筆の安心〉


 行の間に、私は小さく一文を添えた。


 ――復讐の黒は燃やし続ける。だが、灰は青い線の下へ撒く。根が要る。根が伸びれば、旗は風に負けない。


 外で子どもが板を読む声がする。「けい…りょう、ぼう…ぐ、ふそく、ぜろ」。噛み噛みの声が、砦に新しい朝を貼り付けていく。私はその音を背に、印を押す。印の輪郭が、今日を少し固くする。固さは、怖がらなくていい固さ。怖がらない固さが、噂を遠くへ運ぶ。遠くで、やがて誰かがこう言うだろう――


 辺境で悪役令嬢が暴れている。けれど、橋は繋がり、配給は目の前で、旗は一本の青い糸で。人は笑い始めた。


 その噂に、私は線を一本足しておく。笑いは、手続きの明るい表情だと。笑いがあるところでは、数字もまた、まっすぐに並ぶのだと。私はペンを置き、もう一度だけ旗を見た。青い糸は細く、しかし確かに、王都の方角へと伸びていた。

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婚約破棄された悪役令嬢ですが、辺境で冷徹軍師と最強国家を築きます! 林凍 @okitashizuka_

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