第7話 掴む――民の心と決定的証拠、代官の倉を開ける

 朝。市場がいちばん早口になる刻を狙った。川べりの露店に、薄く切った干し肉の匂いと、粉をこぼした布袋の粉塵が混ざる。私は広場の中央、倉庫の厚い扉の前に机を二つ並べた。上に帳簿を開き、秤と計量棒と封蝋と、書き手のための砂を置く。紙の端は少しそり、夜の湿りがまだ抜けきっていない。机の脇に、空の木箱をいくつも積む。見えることは、信じることの前提だ。


「本日、棚卸しを“公開”する」


 私は声を張る前に、息を一度浅くし、視線で周囲の密度を測る。露店の夫婦、粉屋の少年、酒場の女房、槍を肩にのせた若い兵、腰の曲がった老婆――目の数は昨日より多い。目は数と同じで、並べて初めて力を持つ。


「配給は目の前で、数で、証拠で行う。帳簿は開く。秤はここにある。封は今ここで掛け直し、ここで開く」


 代官が、いつもの笑みを貼りつけて現れた。笑いは厚く、頬の筋肉と喧嘩している。彼は形式的な賛辞を述べる。「ご英断に感服」などという柔らかい言葉は、やわらかさのぶんだけ滑る。袖口の中で、指先が鍵を弄ぶ癖は隠せない。金属が布を擦る微かな音。私はその音を、朝の鐘の裏返しのように聞いた。


「棚卸しは砦責任者の職務の一部です。鍵の引き渡しをお願いします」


 私は礼を尽くし、声の角を丸くした。丸い声は人を前に出させる。代官は「伝統では」と言った。伝統という言葉は、便利だ。そこに寄りかかると、今やるべきことから、目が遠ざかる。


「では、“二重鍵”で」


 私は即座に代替案を示す。「あなたの鍵と私の鍵、両方が同時に回らねば開かない封を、今ここで掛け直しましょう」


 観衆の前で、彼は一歩引く。引くときの靴の音は、一段高い。高い音は、決断の軽さを露わにする。私は封蝋を落とし、刻印を押した。青い糸の旗の紋は、蝋の上では黒く沈み、輪郭だけがはっきりする。二本の鍵が同時に入った。回す。中の空気が、古い粉と木の匂いで顔に当たる。乾いた匂いは安心を呼ぶが、今日はその乾きを疑う。


 封を開いた。最上段の袋は、手で触れても硬い。満ちている。下段の袋に手を伸ばす。軽い。布の指先がへこむ。私は秤にかけ、計量棒を置く。棒の刻みは正直だ。刻みの上に嘘を重ねても、数は黙ってはいない。袋が軽い。帳簿の日付と、袋の入替痕は一致しない。袋の縫い目の糸の色。新しい白と、古い黄。黄は去年の収穫の色だ。白は、この春の支給品の色だ。入れ替えは、夜にしか行えない。夜の記録は――紙にある。


「続けて」


 私は倉庫の隅を示した。兵が箱を引き出す。焼き印。雨で薄くなっているが、火金の曲がり癖は変わらない。昨日押収した箱と同じだ。私は手袋越しに箱の縁を撫で、観衆に向けて持ち上げた。


「この印は昨夜、盗賊から押収した箱の印と一致しています」


 私の声は乾いた。乾いた声は、湿った嘘を嫌う。


「つまり――倉と盗賊の間に、往復の道があった」


 空気の温度が変わる。ざわめきは波になり、波はまだ高くないが、方向を持つ。代官は笑って「誤解だ」と言う。笑いは、板の上を転げ落ちるみたいに軽い。彼は部下に顎で合図し、箱を運ばせようとする。そこで、リュシアンが一歩出た。外套の裾に朝の露が残り、靴の先に土の粉が薄くついている。彼は声を低くした。


「記録兵、昨夜の巡回簿を」


 差し出された紙は、雨で波打っている。だが、二重の筆跡は濁らない。見回り兵の筆と、記録兵の筆。二つの手が同じ刻を記す。倉庫北扉、三更二刻。代官の部下の名。開閉回数、三。私は観衆に向かって読み上げた。


「日付、時刻、名前。私は嘘より数字を信じます」


 数字の読み上げは、歌に似ている。音の高低ではなく、刻の上下で旋律ができる。群衆の空気が変わるのが見える。恐れから、怒りへ。怒りから、“味方”の気配へ。老婆が前に出て、震える声で言った。


「先月、孫に配るパンが足りなんだ。代官様は、天候のせいと」


 別の男が続ける。「橋が焼かれた夜、代官所の灯りが、ずっと消えなかった」


 点が、線で結ばれていく。線は地図になる。地図は、人を動かす。私は両手のひらを下に向け、抑える仕草を見せる。煽りは易く、統治は難い。


「裁きは手続きで行います」


 言葉は短く、硬い。硬さは、感情の行き場を“列”に変える。列は、怒りを歩かせる。歩く怒りは、破壊者になりにくい。


 代官が開き直った。声が急に大きい。大きさで欠けを隠す時、人は肩でしゃべる。


「私を誰だと思っている!」


 その瞬間、兵の列の何人かが、わずかに私の側へ足を寄せた。ほんの数歩。だが、決定的な数歩だ。権威の移動は音を立てない。私は机の横に立ち、印璽を手に取る。


「代官殿は一時的に職務を停止。拘束はしません。屋敷での軟禁。裁定は三日後、公開で行う」


 逃げ道を残すのは、混乱を防ぐためだ。追い詰めれば、地下に潜る。地上に留める方が、記録は集まる。代官の顔から笑いが落ちた。落ちた笑いは、足元で形を失くす。彼は息を吸い、吐き、やがて口を閉ざした。沈黙は敗北ではないが、次の手を奪う。


 棚卸しの作業に戻る。秤の皿が上下し、計量棒が音もなく数字を示す。記録兵が二人一組で数字を書き、女房が復唱する。声は、紙の別名だ。倉の鍵は二重に掛け直され、出入りは札に記す。鍵の受け渡しには署名を二つ。署名の下には、押印を二つ。それから、封蝋。封蝋には青い線の紋。二重鍵は手間だが、手間は秩序の筋肉だ。


 兵の俸給簿を開く。滞納分がある。私は一度唇の裏を噛み、順番を決める。まず家族持ちから、分割で返す。配給と俸給の区別を紙で分け、列を別にする。列を別にすると、恥が混ざらない。恥が混ざらなければ、怒りは列に並び直す。


 広場の端に、盗賊から奪い返した医療品と工具を積み上げた。包帯は乾き、瓶は並び、工具は光る。見える場所に積む。積み方の順番は美観ではなく、手に取りやすさ。人は、触れるものを信用する。触れない善意は、長持ちしない。


 私は人々に向かって言う。「戻ってきたものです」


 言葉は短い。短い言葉のほうが、顔を見られる。顔は、数字より説得力を持つ時がある。老婆の口元が少しだけ緩む。粉屋の少年が、工具を指で触れ、すぐに手を引っ込める。引っ込め方が、壊し方ではない。人は、触れてよい場所と触れてはいけない場所の境界を、誰かの背中で覚える。背中は、旗の裏側みたいなものだ。


 昼過ぎ。市場の声は落ち着き、広場の影が少し伸びる。私は机の前に立ち、今日の“数字の物語”を、板に書き出した。


〈塩樽:不足四〉

〈粉袋:入替痕八、日付不一致五〉

〈押収箱:商会印三、焼印の癖一致〉

〈巡回簿:北扉開閉・三更二刻・三回・部下名記録〉

〈俸給滞納:合計十七人、家族持ち優先返済着手〉

〈二重鍵封印:本日より運用〉


 板に釘を打つ音は、朝の喧騒とは別の高低で広場を渡る。音は骨に届く。届いた音が、夕方まで残る。残った音は、夜の会話になる。会話は、明日の行動になる。私は板の下に、青い糸の小さな旗をひらりと添えた。紋章は、ここでは私物でなく、目印だ。


 午後、屋敷に戻る代官に、護衛二人を付ける。扉の鍵は内鍵にし、窓の外に記録兵を立てる。軟禁は、体裁も必要だ。見せかけの優雅さを残すことで、彼の怒りは暴れる場所を失う。暴れない怒りは、紙へ移る。紙に移れば、こちらの言葉で形を与えられる。


 広場は、夕刻に向けて少し静かになった。私は机に腰を下ろし、背もたれに半分だけもたれた。肩の打撲はまだ鈍く痛むが、痛みは紙に移してある。移した痛みは、仕事を続ける燃料になる。リュシアンが近づき、机の端に指先だけ触れた。巻物が捲れないように。風は薄く、紙の端をいじりたがる。


「決定的だ」と彼は言う。「だが、決定的だと思った瞬間がいちばん危ない」


「だから、三日後に裁く」


「公開で。列と声で」


「列は怒りを治める。声は嘘を絞る」


 私たちはそれ以上言葉を使わない。使わないことが、理解の印になることもある。沈黙は、信頼の余白だ。余白がないと、数字ははみ出す。


 夕刻。配給の列は短く、子どもが板を読み上げる。「塩、樽、ふそく、よん。……こっちは、かぎ、ふたつ」噛み噛みの声が、広場に柔らかい影をつくる。読み上げ役の小さな指が、刻みをなぞる。なぞられた刻みは、紙から声へ、声から記憶へ移る。記憶は、明日の朝に強くなる。


 私は椅子にもたれ、ふっと笑った。恐れを敵にしたままでは、支配は続かない。恐れを“信頼”に変えるための時間――今日、私たちはその時間を、初めて掴んだのだ。掴むには手が要る。手のひらに泥が残っていても、構わない。むしろ、その泥が、掴んだものの実在を確かめてくれる。


 窓の外で、青い糸の旗が夕陽に透ける。布の織り目を光が走り、一本の線が街道の先へ伸びていくように見えた。線は細い。細いが、途切れていない。私は目を細め、胸の奥で言葉を整える。


――民の心を、数で支える。証拠の手触りで、物語を立てる。


 夜の支度が始まる前に、私は帳面を閉じず、最後の一行を書き足した。


〈裁定:三日後、午刻。公開。二重鍵の下、倉の前にて。証拠提示順:箱→巡回簿→俸給簿〉


 順番は、説得の背骨だ。背骨があると、怒りは歩ける。歩いた怒りは、家に帰れる。家に帰れた怒りは、眠れる。眠った怒りは、翌朝、別の名前に変わる。私はその別の名前を“信頼”と呼びたい。呼ぶために、明日も紙に向かう。釘を打つ。鍵を回す。声を聞く。泣き声を短くする。数字を並べる。旗を、風に任せる。


 夜。砦の石は冷え、井戸の縁に白い月が欠けた形で浮かんだ。私は外套の襟を立て、もう一度だけ倉庫の扉を見た。封蝋は固まり、刻印の縁が夜の光で浮かび上がる。触れない。触れないで、見ている。見守ることも、仕事だ。背中で、広場の笑い声が短く交じる。笑いは薄いが、確かな温度を持っている。私は胸に手を当て、ゆっくり息を吐いた。


 掴んだのは、証拠だけではない。手触りの希望だ。希望は重い。重いものは、ひとりでは持ち上がらない。だから、列を作る。列は、重さを分配する。分配の技術が、国の最初の技術だ。私は机の上の印璽をそっと指で押し、沈黙の中で旗を見上げた。青い糸は、夜気のなかで細く震え、けれど折れなかった。折れない理由を、明日も増やしていく。

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