第二条『原則という名の亀裂』
『第59条』。
その数字は、俺の脳内で不気味な反響を続けた。全二百箇条の校則は、既に暗唱させられている。校則第59条【消しゴムの使用は、過ちを隠蔽する行為とみなし、原則禁止する】。
――原則?
この二文字が、絶望の闇に差し込んだ一条の光に見えた。絶対であるはずの校則に、なぜ「原則」などという曖昧な言葉が存在する? それは、例外の存在を、システムの不完全さを示唆しているのではないか?
だが、誰がこれを? 目的は何だ? これは罠か、それとも…。
疑念が渦巻く。この学園では、友情は反逆の温床(第78条)、他者への共感は非論理的な感情(第79条)として徹底的に排除される。俺を試しているのか? 密告を誘っているのか?
翌日の「応用物理学」。俺は、わざと計算式を一行書き間違えた。そして、校則第21条に定められた完璧な角度で挙手をした。心臓は、冷静さを装う俺を裏切るかのように、嫌な音を立てて脈打っている。
「教官。生徒番号441、訂正を許可願いたい」
教室中の視線が突き刺さる。そのほとんどは、無感情なガラス玉のようだ。だが、その中に、氷のように冷たい号令寺響子の視線と、もう一つ、どこか観察するような謎の視線を感じた。生徒番号777。常に成績トップを維持する、謎多き模範生。
「消しゴムの使用は禁止されている」教官が吐き捨てる。
「校則第59条には『原則』とあります」俺は続けた。「それは、例外規定の存在を論理的に示唆します。学習における過ちの訂正を許可しないのは、学園の発展(第56条)という目的に対し、著しく非合理的です」
俺は、学園の論理を逆手に取った。感情ではなく、システムが理解できる言語で語りかける。
教室の空気が、凍てつく。校則の解釈など、最大の禁忌(第198条)。
教官は一瞬言葉に詰まり、顔を歪めた。
「…貴様、校則に意見するつもりか」
「事実の確認です」
その時だった。
「――面白い解釈だ、生徒番号441」
凛とした声が、静寂を破った。号令寺響子だ。彼女は席を立ち、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「だが、その解釈の是非を判断するのは貴様ではない。風紀を乱した罪、万死に値する。貴様には罰則が必要だ」
彼女の瞳は、まるで獲物を見つけた蛇のように、俺を捉えて離さない。
「罰則として、貴様には思考浄化室へ同行してもらう。今すぐにだ」
終わった。俺の小さな反逆は、あっけなく潰えた。
連行される俺を、生徒たちは相変わらず無表情で見送る。だが、号令寺響子とすれ違う瞬間、彼女が誰にも聞こえない声で、こう囁いたのを俺は聞き逃さなかった。
『――生き延びろ、転校生。あれは、お前へのテストだ』
そして、もう一人。生徒番号777の顔が、ほんの一瞬だけ、俺の網膜を焼いた。
彼女は完璧な『標準無表情』を維持していた。だが、その瞳の奥、百万分の一秒ほどの刹那、確かに『嗤って』いた。
俺は、この巨大な狂気の渦の中心へと、自ら足を踏み入れてしまったのだ。
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