第一条『瑕疵ある鋼鉄』
鏡の中の『生徒番号441』が、俺と同じ口の形で、感情のない言葉を紡ぐ。
「…生徒番号441が以前持っていた『個性』という概念は、全体の調和を乱す非効率なバグである」
ここは「自己否定訓練室」。校則第180条に基づき、我々は入学以前の記憶、すなわち人間であった頃の脆弱性を、自らの声で否定し続ける。思考を矯正し、純粋な部品へと鋳造されるための儀式だ。
その時だった。隣のブースに立つ『生徒番号238』の肩が、ミリ単位で震えた。統制された呼吸のリズムが乱れ、彼の目から一筋の雫が零れ落ちる。
――校則第93条【涙】。涙は、液状化した自己憐憫である。流すことは許されない。
次の瞬間、彼の背後に音もなく氷の人形が立っていた。風紀委員長、号令寺響子。彼女の視線は、零れ落ちた涙を精密機器のように計測し、断罪する。
「生徒番号238、校則第93条違反。及び、第19条【表情】違反。感情の漏出を確認。罰則規定に基づき、思考浄化室へ連行する」
抵抗も、弁明も、悲鳴すら許されない。彼は無機質なアームで両腕を拘束され、白い壁の向こうへと消えていった。まるで生産ラインから不良品が取り除かれるように、あまりにもあっけなく。
これが、俺が転校してきて七日目の現実だ。
午前四時の起床ラッパ。床を這って移動する廊下。味のないレーションを左右均等に30回咀嚼する食事。ここでは、瞬きの回数から唾液を飲み込むタイミングまで、二百箇条の校則が支配している。思考することすら罪となるこの世界で、俺は必死に順応しようとしていた。目立つな。考えるな。感じろ。――いや、感じるな。ただ、命令された通りに動く歯車になれ。
だが、心の奥底で、まだ死にきれていない「俺」が叫んでいる。
『こんなのは間違っている』と。
その夜、独房と変わらない寮の一室。俺は21時の消灯ラッパと同時に意識を失うふりをしながら(第68条)、息を殺していた。ポケットの中には、父が餞別にくれた、たった一つのお守り。法律事務所のロゴが入ったボールペン。外部情報の持ち込みを禁じる校則第8条違反の、俺だけの秘密だ。これを握りしめる時だけ、俺は『生徒番号441』ではなく、『平和島渉』に戻れる気がした。
もう、限界だ。明日、俺は行動を起こす。この狂ったシステムに、ほんの一矢でも報いるために。たとえ、思考浄化室送りになろうとも。
固く決意した、その時だった。
ドアの下の僅かな隙間から、極小に折り畳まれた紙片が、音もなく滑り込まれた。
心臓が跳ね上がる。心拍計は誤魔化せない。統制呼吸法で必死に鼓動を鎮め、それを手に取る。監視カメラの死角でゆっくりと開くと、そこには美しい規律書体で、ただ一言だけ記されていた。
『第59条』
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