第17話 五穀豊穣の宴について

「いつ誰が、そんなことを言っていたの?」

「……昨日、陛下ご本人から聞いたわ」


(私は何も聞いていませんが!?)


 何をしてくれているのだ、あの兄は!

 前髪で隠れていない顔の部分が、徐々に青くなる彩玉を見て、射賢妃は事情を察したようだ。

 彼女の顔が険しくなっていく。


「いいこと? 彩玉長公主。陛下に恥を掻かせたら絶対に許さないから! あなたの担当は『米』よ!」

「こ、米……に関する芸って、具体的に何をすればいいの?」


 米を炊いたり食べたりするだけで許される宴ではないはずだ。


「芸って……豊穣を祈る曲の演奏とかでいいのかしら?」

「ええ、それでいいんじゃない? あなた、どうせそのくらいしかできないでしょ?」


「瓶徳妃が、恥を掻かせてやると息巻いていたのが気になるけど……」

「……そうねえ。楽器を壊されないよう、せいぜい気をつけることね。まあ、邪魔が入るのは瓶徳妃からだけとは限らないけれど」

「そんなぁ」


「この宴は、陛下が即位してから始まった。だから、陛下に敵対する者たちにとって、格好の暗躍の場にもなる。失敗すれば、陛下の評判を落とすことができるからよ」


 これは四妃との茶会どころではなく、皇帝にとっても大変な行事のようだ。

 怖いから参加したくない。


「絶対に、陛下の治世に泥を塗るわけにはいかないの! 無様に失敗して、皇帝の足を引っ張ったら……私があなたを消すから」

(ひっ……!)


 射賢妃の瞳には、本気の光が宿っていた。


(もう嫌~!)


 四妃との茶会のときにも、目立ちたくない気持ちと必死に戦った。

 それを、今度は、さらに大勢の前で芸を披露しなければならないという。

 微塵子の繊細な心臓は度重なる負荷により、すり切れそうだ。


「そういうことだから、準備を怠るんじゃないわよ」


 射賢妃はサッと身を翻し、梔子宮のほうへ消えていく。


「無茶だわ……」


 長公主として目立たなきゃならないにしても、国の重要人物が集まる場所なんて、微塵子にとっては高い壁すぎる。


(どうしよう)


 とぼとぼと歩いていると、ようやく彩玉の住処である紫陽花宮が見えた。


(やっと戻ってこられたわ。桃姉の言う通り、長公主の一人歩きは気をつけないといけないわね)


 瓶徳妃に射賢妃。四妃のうちの二人に会ってしまった。

 今は、公主時代のように身軽な身ではないのだと思い知らされる。


(今後も、自由行動をやめるつもりはないけど。何か、いい方法を考えないと)


 彩玉は、ずっと母と二人だけで生きてきた。

 大勢に囲まれることが当たり前の環境で育っていないため、長公主としての今の環境を恵まれていると感じる一方で、どうしても息苦しく思えてしまう。


 そんなことを考えながら池を眺めていると、不意に水の中にズブズブと、どこかの侍女が入っていく光景が見えた。

 結構深い場所まで進んでいる。


(えっ、あの人、何やってるの? まさか……)


 手を広げてふらふらと進んでいく侍女の姿に、嫌な予感を覚える。

 後宮暮らしが辛くて、入水自殺を図っているのだろうか。


(確かにそういう人もいるけど、ここではやめてくれないかなぁ)


 彼女のいる場所は、紫陽花宮の裏口から正面に位置している。

 そんなところで人が死んだりしたら、毎朝この池を見るたびに気まずい気持ちになるに決まっている。幽霊でも出てきた日には、もう最悪だ。


 それに今の後宮では、死ぬくらいなら皇帝にに追い出してもらうとか……他に後宮を出る方法があるはずだ。


(私はいい人じゃないし、保身が一番だし、こんな風に他人を気に掛けるのは柄じゃないけど……)


 ため息交じりに、彩玉は池のほとりに歩み寄り、侍女に向かって声をかけた。


「ちょっと、そこの人。何をやっているの?」


 すると、侍女が振り返る。


「ぎゃあ! 簾の前髪の幽霊! ……じゃなくて、人?」


 どうやら、彩玉の前髪に驚いてしまったようだ。

 長公主のことをよく知らない侍女らしい。


(新人かしらね)


 彩玉を人間だと認識した侍女は、安心した様子で話しかけてくる。


「あ、あの、魚を捕っています!」

「……魚?」


 予想外の返答が来た。確かにこの池には鯉がたくさん泳いでいた気がする。


「そんなものを捕まえて、どうする気?」

「食べます!」


 侍女は堂々と答えた。

 そして彼女の手の中では、黒い鯉が鱗をきらめかせながらビチビチと体を動かしていた。

 ……素手での捕獲に成功していたようだ。


 天敵のいない後宮の鯉は鈍くさいけれど、それでも道具なしでの捕獲は難しい。

 彩玉ほどではないだろうけれど、なかなかの捕獲の腕前だ。


(捕まえた鯉を食べるって言うけど……なんで、わざわざ鯉なんて……?)


 味はさておき、鯉は食べることができる。

 彩玉も公主時代にこっそりいただいたクチだ。

 腹を空かせている者にとっては、池の鯉も亀も蛙もご馳走に見える。


(でも、普通の侍女なら鯉なんて捕まえなくても食事が出るはずだわ)


 侍女は足元に気をつけながら、岸辺に近づいてくる。


(どうしたものかしら)


 自分も同じことをした手前、侍女に対して説教なんてできない。

 しかし、最低限の情報は伝えておく。


「後宮の魚を勝手に捕ったら罰されるわよ。誰もいなかったからよかったものの……」


 罰と聞いて怯んだ様子を見せる侍女に向かって、彩玉は言葉を付け足す。


「やるなら人の少ない場所の池を狙うといいわ。東側の池なら、今は皇太子がいないから穴場よ。浅いし、池の水も澄んでいるし、ここより捕まえやすいわ」

「え? は、はい……!」


 彼女は元気に返事をしつつ、岸に置いていた袋の中へしっかり鯉を入れている。


「鯉、好きなの?」

「いいえ、できれば食べたくないです。臭くて美味しくないし。でも、お腹がすいて……やむを得ず」


 何やら、不穏な匂いがする。

 今も後宮では、飢える者がいるのだろうか。


「新人の食事の量が少ないんです……」

「ああ、なるほど」


 彼女は新人で、本当に後宮に入ったばかりなのだろう。

 妃付きなら権力で食事を強奪できるかもしれないが、所属が決まっていないなら、出された食事に文句も言いにくい。


「新人宮女も同じだし、下女や新人宦官はもっと酷い状況だと思います。それで魚を何匹か捕まえて、新人仲間と一緒に焼いて食べようかと思って」


 侍女が嘘を言っているようには見えない。

 実際、彼女は痩せていた。

 五穀豊穣の宴の前に、不吉なことである。


「変ね、侍女に食事が回らないなんて。そんなこと……ないとは言い切れないけれど」


 父の時代には普通にあった。

 兄の時代には改善されているのかと思ったが、そうでもなかったようだ。

 あの冷徹皇帝は、偉そうにしている割に、やるべきことがやれていないと見た。


(でも、お腹が空くのって辛いのよねぇ)


 さらに、侍女なら腹を空かせた状態で、普通に仕事をしなければならない。

 空腹だからといって、粗相は許されないのだ。


(うう……下手に手出しして、目立ちたくないけど……)


 食べ物がらみとなると、過去の辛い自分を思い出して、放っておけない気持ちになってしまう。

 食べ物は、食べ物だけは……死活問題なのだ。

 余計なことに首を突っ込むことはしたくはない。でも……。


(こ、今回だけ……)


 覚悟を決めた彩玉は侍女に告げる。

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