ラストデイ
数か月後。
ついに長年住んだ横浜の土地を離れる日が来た。去年の年末に彩音に話したことが現実になったのだから、半ば策に溺れたと言えた。昨日は引越し業者に家具や自転車の運搬を依頼した。今日は、冷蔵庫と洗濯機を業者に引き取ってもらい、鍵を大家に渡すと彰は最寄り駅に向かった。
昨日は、泰子の家に一泊させてもらった。夜、ベッドの中で、人生の大半が、放蕩が終わったことを悟った。パーティーは終わり、かつての恋人は年老いた。そして、自分もまた老いのとば口にいる。五〇歳を「天命」というそうである。自分の人生についての天命・運命が何であったかがわかるのが五〇ということだそうだ。
それに即して言えば、自分は
彩音が自分の天命を啓示した。つまり、彼女への愛を生きるという天命を。なぜ、泰子やほかの女性ではなかったのか? 彩音と他の女性との違いは、彼女がクラバーであることだった。クラバーであることは思いのほか特異なことなのかもしれない。それは、一つのアティチュードと言える。なぜなら、クラバーであり続けることは、伝統的な人生と両立しないから。いわば、ヒッピーのようなものだ。それこそが自分が彼女と共有しているものである。
彰は新潟までの新幹線の中で、スマートフォンを使って、彩音を題材にした小説ファイルを開いた。小説はラストに近づいていた。彰はおよそ一週間前のGW前の金曜の夜に彼女と会ったときのことをネタにして書いているところだった。彩音と出会ってから、ちょうど一年を迎えるタイミングだった。その日、出発前に最後に会う約束をしたのだった。結ばれる、振られる、あるいはその他、いかようにも書けた。振られるストーリーが当初の予定だった。それが順当であるし、リアリティもある。
スマートフォンとBluetooth接続した携帯型キーボードで、書き進めているうちに、彰は無意味なことをしているという思いが強まるのを感じた。この小説は、そもそも道楽ではなかったか。それなのに、キレイに形にする必要なんてあるのだろうか、と。
彰は小説を閉じて、最後に会ったときに彩音と撮った動画を見た。それは渋谷駅で別れ際に彩音に頼んで、頬にキスしてもらっている動画だった。自分が彼女の夫だったら、この動画に嫉妬すると思えた。
視界がぼやけてきた。不意に涙がこぼれた。あの日の出来事は忘れられない。願ったり叶ったりだった。神泉の立ち飲み屋で飲んだ後、円山町のラブホに行ったのだった。部屋に入るや否や、彩音は「彰くん……」と囁くと、初めて見せるあだっぽい目つきを向けた。初めて味わう舌の感触、一糸まとわぬ姿、露わになった最も甘美な部分、行為の最中の声、柔らかい肌の感触。
ホテルから出たときはこれで、離れ離れになっても彩音を愛し続けることができると思った。今はわからなかった。彼女のことを愛せるかどうかというよりも、これから何日も彼女と会えない日が続くのに耐えられるかどうか。もし、あのとき彩音が自分を受け入れなかったら、こんな思いをすることはなかっただろう。そして、小説も仕上げられたはずだ。
新幹線はまもなく熊谷に着くところだった。彰はグビグビと缶ビールを一気飲みすると、棚から荷物を下ろした。
熊谷で降りたのは初めてだった。時間は午後一時過ぎ。彰はひとまず宿を探すことにした。(了)
AYANE――最高に甘美な文字列 spin @spin
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