A・YA・NE――最高に甘美な文字列

 翌週にクリスマスを控えた土曜日。彰は彩音が出演するナイトイベントに行くために、渋谷の老舗クラブに足を運んだ。前回の飲み以来、彩音とはクラブやDJバーで二度ほど会っていたが、彼女の態度に特に変わりはなかった。一方で、彰はその翌日、久しぶりに出会い系アプリを開いた。


 彩音のことは一度は諦めたが、また会っているうちにむくむくと野心が頭をもたげてきた。なんにせよ、会えるうちはアプローチせずにはいられなかった。久しぶりに開いた出会い系アプリの女性は彩音のバックアップ候補でしかなかった。彼女が最後の恋愛相手ということは大いにあり得たし、そうである以上は、相手から決定的に振られるまでは諦めたくなかった。


 しかし、普通のアプローチでは、彩音を落とせそうになかった。そこで、彰はいよいよ策を巡らすことにした。それは、邪道かもしれないが、ほかに道を思いつかなかった。


 彰がHUBでレッドブルウォッカを摂取してから、クラブ入りしたのは零時近くだった。ソファーが二台ほどある広めのフロアで、そこまで暗くなく、音量も大きすぎず比較的話しやすい空間だった。ロッカーに荷物とコートを入れて、フロアに足を踏み入れると、彩音が出演するイベントでよく会う中年男性が出迎えて言った。


「彩音、いるよ」


 その一言に彰の胸は熱くなった。


 今日の彩音はボルドーのブラウスにベージュのロングスカートという装いだった。曲をミックスするように服もうまくコーディネートしている印象があった。


「今日は来てくれてありがとう! 一杯奢らせて」と彩音。


 お互いに瓶ビールで乾杯した。カウンターで顔見知りの中年男性から挨拶された。恵比寿のDJバーのオーナー兼バーテンダーだった。彼が女性DJをフィーチャーした今日のイベントのオーガナイザーだった。


「今日のイベントは急遽決まったの」と彩音。二人はカウンターでフロアのほうを向いて話していた。


「人があまり入ってないのはそのせいか」


 フロアが広いせいもあるが客はまばらだった。


「特に目玉がないとこんなもんよ。客のほとんどがDJの知り合いという」

「君は俺以外にも何人か集客できるからオーガナイザーにしたら、客が呼べるDJとして重宝されてるんじゃないかな」

「そんなことないよ。本当に客が呼べるDJだったら、おカネもらってるよ」

「そうか」


 彰はDJスキルについてどうこう言えるほどDJについて知識があるわけではなかった。


「今日は元気? 昨日もDJだったでしょ」

「大丈夫。わたし、クラブにいると元気になるから」

「さすが、クラブの女神」

「えっ、何それ!」

「ずっと温めていたフレーズなんだ。あやちゃんほどこのフレーズが似合う人はいないよ」

「嬉しいけど、恐れ多いな」

「君ほどクラブを愛している女性は知らない」

「そうだね。そう言われると、なかなかいないかもね」

「非常にユニークな人だから、伝記でも書きたいと思ってるよ。そのときは、『クラブの女神』というフレーズをタイトルに使いたい」

「伝記って!」


 彩音は破顔した。


「ぼくは書くことが仕事で趣味だから、どうしてもそういう発想になるのかな。とにかく、君はぼくのミューズだよ」

「今日はどうしたの? なんかおかしいよ」

「そんなことはない。何も変なことは言ってない。まだ酔ってもないし。君のおかげで小説を書けてるってことが言いたいんだ」


 彰はそう言うと、彼女の手を取って、手の甲にキスした。


「こそばゆいよ。何にしてもわたしが役に立ってるなら嬉しいよ」

「『役に立ってる』というか、それほどぼくが君に夢中だってことだよ」


 彰は臆面もなく言った。


「ありがとう。わたしそろそろDJの時間だから行くね」


 その反応は物足りなかった。



 彰は彩音のかける曲を聴きながら、もどかしい思いを抱えていた。彼女とフロアで踊っていたいという思いがあったからだ。しかし、そうした思いは独りよがりと言えることはわかっていた。女性としての魅力がなかったら、好きになっていないとしても、彼女は女性であると同時に一人の人間である。DJへの熱い思いが彼女の人生の原動力になっているとしたら、その思いに寄り添うのが愛というものだ。


 彩音が一時間ほどDJをして、フロアに戻るとDJ仲間や友達から声をかけられたり、握手を求められたりした。


「お疲れ」


 彰も人が離れてから彩音に声をかけて、ドリンクのグラスを合わせた。


「さて、肩の荷も降りたことだし、楽しまないと」


 彩音はそう言って、笑いかけた。それこそ彰が聞きたいセリフだった。時間は午前二時過ぎだった。今度は、自分が人生を賭けた行動に出る番だ、と彰は考えた。


 彰は彩音のドリンクが空いたタイミングで、ドリンクを奢ることを申し出た。ジンライムを奢って、カクテル言葉である「色褪せぬ恋」に自分の思いを託そうとしたが、彩音はハイネケンを希望したので、相手の意に沿った。


 彰は彩音とカウンターで乾杯したタイミングで、用意していた手紙を渡した。それは彼女への思いを綴ったラブレターだった。


「クリスマスシーズンにちなんで書いたから読んで」


 手紙は工夫を凝らして折りたたまれていた。折り方はYouTube動画で学習したのだった。


「え~、何? 手紙?」

「うん、君のことを思って書いたんだ。今読んで」


 彰はスマホのライトでリングノートから外した紙一枚に書かれた拙い文字列を照らした。


To 彩音


君と初めて出会った夜

中目黒エートスはパラダイスになった

君の踊る姿に魅せられた

君と交わした言葉、眼差し、心に染み渡った

君の香りかぐわしかった


君からのメッセージにはいつもテンションが上がる

A・YA・NE――最高に甘美な文字列

君と会うたびに天にも上る心地だよ

彩音、愛しい女性、生きる喜び、ぼくの女神


君のこともっと感じたい、そう五感を通して

踊りながら見つめ合いたい

もっと知り合いたい、トークを通して


好きだよ、彩音

いつもやさしくしてくれてありがとう!


From 彰


「恋人気取りでゴメン」


 彰は彩音が読んでいるとき、用意していたセリフを吐いた。


「はい、読み終わったよ」


 彩音はそっけなく言った。


「俺の率直な気持ちだよ。毎日、君のこと思ってる」

「ありがとう」


 そう言って、女性の髪に触れたが、彩音は男の手をはねのけた。相手の反応に彰は落胆した。もし彩音が多少とも嬉しそうなそぶりを見せたなら、畳み掛けることもできたのだが。


「俺のことどう思う?」


 彰は反射的に訊いた。


「……そうだね。嫌いじゃないけど。あなたの気持ちには応えられないよ」

「……理由を訊かせてよ」

「特に好きじゃないからだよ」


 彩音はあっけなく答えた。それは身も蓋もない回答だったが、彰には一筋の光明だった。


「なるほど。じゃあ、もっと好きになったらいいってこと?」

「そうだね。でも、もう出会ってから半年以上経ってるし、これから好きになるなんてないんじゃないかな」


 彩音はとうとう自分に見切りをつけたように見えた。


(手紙が裏目に出たということか。いや、そんなことはない。ここでまで来たら、もう後戻りはできない)


 彰は自分の思いをすべて洗いざらい話しておこうという気持ちになった。


「俺はもう五〇過ぎてるし、恋愛は最後かもしれない。君と出会って好きになったことが本当に嬉しい。あと二〇年かそこらで俺はこの世から消えるかもしれないけど、誰かを愛して死にたいと思ってるんだ。もちろん愛し合えればそれが一番だけど、それが叶わなくても君にはずっと恋人でいて欲しいって思ってて。あっ、『恋人』というのは両思いでなくても言うらしいんだ」


 彩音の顔に疑問符が浮かんだので、慌てて付け加えた。


「つまり、ずっと好きでいたいと思ってて。君が年を重ねても。離れ離れになっても。愛し合うことができなくても……」

「ちょっと意味がわからないよ」


 彼女は彰に胡散臭そうな視線を投げた。


「プラトンの哲学に『イデア』という概念があって、それは永遠普遍の物事の真の姿という意味なんだけど、君のイデアを把握できたなら、俺は一生それを愛し続けることができるんじゃないかって思うんだ。君の真の姿、身体のことだけを言っているんじゃない。まだ、知らないストーリー、プライベートなことを含めて知ることができたら。知ること抜きには深く愛することはできないと思うから」

「結局、わたしと……したいってことでしょ」

「それはしたいよ。だけど、俺は君のことを性的に消費するつもりはない。ただ愛したいんだ。だから、もし君がほかの誰かと愛し合っているなら、そのときはもう身体を求めたりしないよ」


 そう言うと、彩音の目つきが緩んだ。春風が吹いたかのようだった。


「なかなか弁が立つんだね。知らなかったよ。その態度なら、時間がかかるかもしれないけど、好きになるかも」

「それは嬉しいな。だけど、俺にはそんなに時間がないんだ。来年には地元に帰るから」

「……来年のいつ?」


 彩音は眉をひそめた。


「まだはっきりとは。でも、遅くても上半期には」

「そうなんだね。ご両親の介護とか?」

「まあ、そんな感じだね。俺も人の子だから、しょうがないよね」

「そっか。それじゃあ、淋しくなるね」

「淋しくなるよ。でも、離れ離れになっても愛を届けるよ。そうさせて欲しいんだ」


 彩音は相手の目を見つめた。彰が本気で言っているかどうかジャッジしようとしているようだった。それから不意に笑い出した。


「彰さん、恋愛ドラマの見過ぎなんじゃない? よくそんなセリフをしゃあしゃあと吐けるね」

「必要とあれば、ドラマのようなセリフだって吐くよ。必死なんだから。君のDJへの熱意に負けず劣らず俺は君に本気だよ」


 彩音の顔から笑いが消えた。


「……ありがとう。わかったよ」


 彩音はそう言うと彰に顔を近づけてきた。彰が目をつむると、頬にキスしたようだった。


「これは……?」

「前にしてほしいって言ってたでしょ? わたしからの感謝の印だよ」

「感謝の印?」

「そう。ねぇ、もうおしゃべりはこのへんで止めて踊ろうよ。せっかくクラブ来てるのに、踊らないとDJに悪いよ」

「そうだね」


 彰はフロアに流れる電子音楽のビートに身を委ねながら、踊る彩音を見ていた。結局、彼女は自分の言いたかったこと、すなわち、横浜を離れる前に身体の関係を持つことの必要性を理解し、同意したのかどうか判然としなかった。しかし、彩音に確認しても無駄な気がした。


(ああ、なんともどかしい女性だ。しかし、こうした態度こそが男を必死にさせるのかもしれない)

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