チートデイ

脳幹 まこと

紳士淑女の嗜み


 わたしが社交サロン「紳士淑女の会」と関わりを持つことになったのは、夫の経営する会社の重要取引先との付き合いのためだった。

 入会してもうすぐ一カ月になるが、わたしの精神は限界を迎えつつあった。


「あら、沙織さん。本日もまた、お地味なお洋服ですこと」

「そうですわ。たまには私達のようにお贅沢なお洋服を、お着こなしあそばせ?」


 噎せ返るような香水をムンムンにまとわせた奥様方は、事あるたびにネチネチと嫌味を言ってくる。

 先日、少し華やかな服を着ていけば「あらまあ、はしたない! お里がお知れになりますわねぇ?」など言われたのだから、どうしようもない。


 彼女達の機嫌を損ねれば、夫の会社の明日がどうなるか分からない。

 わたしは作り笑顔を顔面に貼り付け、曖昧に会釈を返すことしかできなかった。


.


 そんなある日の定例会、サロンの主催者である壮年の紳士が、ことさら芝居がかった仕草で手を叩いた。


「さて、淑女の皆さん、そして紳士の皆さん。今宵は私が特別な晩餐を用意したんだね。皆で楽しむんだね」


 語尾に必ず「だね」とつける、この会の男性特有の話し方にも、いまだに慣れない。

 立場の低いわたしにとっては実質的な強制参加命令だった。


 連れてこられたのは、都心に佇む超高級レストランの個室。しかし、わたしは首を傾げずにはいられなかった。

「紳士淑女の会」には掟がある。肉食は固く禁止されているのだ。

 曰く「お肉を食らうなど、お汚らわしくお野蛮なお行為」だそうで、これまでの会食では草、草、豆、草といった精進料理のようなメニューばかりを延々と食べさせられてきた。

 これは会食以外でも同様で、わたしは野菜で胃袋を満たすことを強いられている。バレたら何をされるか分かったものではない。


 だが、この店は最高級の熟成肉を出すことで有名なステーキハウスのはずだ。どういうことだろう?


 やがて、目の前に運ばれてきたのは、見事な焼き加減のシャトーブリアンだった。艶やかな肉の断面から、芳醇な香りが立ち上る。

 唾液が口の中にじわりと湧き出すのを感じた。


「あらまあ、お肉なんてお下劣なもの、わたくし達はお食べにはなりませんわ」

「そうですわそうですわ、ホホホ」


 奥様方は甲高い笑い声を上げながらも、その手は淀みなくナイフとフォークを握りしめている。

 彼女達は上品な所作で肉を切り分け、ためらいなく口へと運んだ。

 紳士達もまた「このソースは絶品だね」「実に素晴らしい火入れなんだね」などと呟きながら、猛然と肉を頬張っている。


 ――チートデイか何か?


 郷に入っては郷に従え。わたしもおずおずとナイフを手に取り、一片の肉を口にした。途端に広がる、圧倒的な旨味。

 ここ一カ月の菜食生活で飢えていた身体に、肉の喜びが染み渡っていく。

 泣けるほど美味しい――素直にそう思った。


 皆が夢中で皿を空にした、その時だった。店のボーイが、恭しく人数分の紙袋をテーブルに置いていったのだ。


 何に使うのかと疑問に思っていると、わたしの向かいに座る淑女が、すっと右手のレースの手袋を外し――

 その細く長い中指を、自らの喉の奥深くへと突き入れた。


「こぽォ」


 そして一人、また一人と、わたし以外の全員が同じ行為を始めた。


「おヴえぇっ」

「かはぁぁっ」

「おぐぼぇぇ」


 静かだった個室は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。


 彼らは用意された袋を口元に寄せ、先ほど食べたばかりの高級ステーキを、胃液と共にそこへ戻し始めたのだ。

 吐瀉物が袋を叩く、びちゃびちゃというウェットな音が響く。


 驚くべきことに、淑女は吐く時ですら「おげぇぇぇぇぇぇ」と、頭に「お」を付けている。その謎の気品だけは、最後の最後まで失わないらしい。


 一通り吐き終えて満足したのか、淑女の一人が恍惚の表情で言った。


「でも、これはこれで、またお美味になりますわ。お熟成されておりますもの。もう一度お食べになりましょう」

「そうですわそうですわ! 二度、お美味しくいただけますものね! 最後にお吐きになればよいのですわ!」

「そうだね、これからが本番なんだね」


 彼らはそう言うと、今しがた自分で吐き出したばかりのそれを、再びスプーンですくい、ゆっくりと口に含み始めた。

 恍惚とした表情で、咀嚼し、嚥下していく。


 こみ上げてくる吐き気を、必死に両手で口を覆ってこらえる。

 目の前では、紳士淑女が、自らの吐瀉物を「おソースがお絡みになってお絶品ですわ」「胃酸の酸味が良いアクセントなんだね」などと褒めそやしながら、綺麗に平らげていく。


 わたしは静かに席を立ち、作り笑顔すら忘れた能面のような顔で、出口へと向かった。


 背後から「あら、沙織さん?」「どこへ行くんだね?」という声が聞こえたが、振り返らなかった。


 辞めよう、このサロン。

 夫の明日より、わたしの今日だ。

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