第二十五章|秘密のレシピ

あの朝から、いくつかの季節が過ぎた。

互いに別々の場所で息を潜めながらも、

それでも時折、こうして“夜”を共有するようになっていた。


──秋のローマ。

乾いた風に落ち葉が舞い、石畳を転がる音が静けさを際立たせていた。


その夜、レオナルド・フィオーレは、自宅アパルトメントのキッチンでキャンティの栓を抜いていた。

深いルビー色の液体がグラスに注がれると、チェリーやプラムの豊かな香りが立ち上る。少しばかりのスパイスのニュアンスも感じられ、軽やかでありながら力強い。

それは、どこか二人の関係を象徴するような、若々しくも熱いワインだった。


窓の外には月が浮かび、古都ローマの灯が夜気のなかで滲んでいた。



インターホンが鳴ったのは、そのときだった。


「……来たか」


扉を開けると、黒のニットに身を包んだカルミネ・ロッソが立っていた。

首元にかすかに残る香水と煙草の匂い。その気取らない装いが、むしろ“街の獣”を思わせる。

しなやかで、触れたら噛まれそうな危うさがあった。



「約束通り、“俺だけ”の夜を借りに来た」


「ワインは開けといた。腹は空いてるか?」


「お前の手料理なら、どんなでも食う」


「ハードル上げんじゃねぇよ」


レオは苦笑しながら、カルミネを招き入れた。


一歩、部屋に入る前。カルミネは後ろを振り返り、小さく顎を引いた。


建物の下、街灯の影――。

そこには、見上げるエリオの姿があった。

気配を殺して待機していたはずの“護衛”は、カルミネの合図にわずかに頷くと、再びゆっくりと視線を逸らす。


それを、レオは黙って見ていた。

そして、ふっと苦笑する。

(ただの恋じゃ、付き合いきれない相手だ)


カルミネが室内に入り、レオがドアを閉める直前、軽く声を落とした。


「……道中、変な目はつかなかったか?」


「大丈夫だ。“警戒線”を避けたルートを使った」


レオは小さく息をついた。


「ならいい。……下にも、知ってる顔には見られないようにしてある」


カルミネは振り向かずに微笑んだ。


「……お互い、慎重だな」



小さなキッチン。


ふたりで並んで立つには少し狭いが、その距離感が妙に心地よかった。

カルミネが手早く野菜を刻む音が、リズムを刻むように響く。

その包丁さばきは、まるで舞うように軽やかで、正確だった。


レオは、隣で鍋の湯がぐらぐらと沸く音を聞きながら、ふとその動きに目を止めた。

人参やセロリ、玉ねぎが次々と均等な大きさに揃えられていく様子に、一瞬見惚れる。


「お前、包丁うまいな」


カルミネは、手元を見つめたまま、わずかに口角を上げた。


「人間、どこで何を覚えるかわからないもんだ」


「……その言い方、あまり聞きたくねぇな」


「心配するな。今日は“おとなしい夜”だ」


ふたりは顔を見合わせ、ふっと笑った。


トマトの甘い香りが立ち上り、赤ワインがシューッと音を立ててフライパンに注がれる。

その瞬間、部屋に広がる豊かな香りが、どこか二人の関係を象徴しているようだった。


ただ一緒に、料理をしている――

それだけのことが、どれほどかけがえのないものか。



食事中、カルミネがワインを揺らしながら、ふと言った。


「……パレルモ、最近やけに静かだな」


レオはフォークを止め、無意識に窓の外へ視線を滑らせた。


「それ、情報を引き出すつもりか?」


「まさか。心配してるだけだ」


カルミネはさらりと笑い、ボロネーゼの皿に視線を落とす。


「……大丈夫だ。万が一、お前に手を出す奴がいたら──」


そこで言葉を切ると、フォークでゆっくりとパスタを持ち上げた。

ソースが赤い糸を引き、ぽたりと皿に落ちた。


「俺が……」


「やめろ」


レオが低く制した。


カルミネは肩をすくめる。


「最後まで言ってないだろ?」


「……その手が“何を想定してる”か、だいたい察しがつく。パスタが不味くなる」


カルミネはくすりと笑い、フォークを口に運んだ。


「……じゃあ、ちゃんと美味いうちに食えよ、捜査官」


レオは息をつくように笑いながら、再びフォークを取った。

 


──ほんとにもう、ただの恋人じゃねぇんだよな、こいつは。





食後、窓辺のソファに並んで腰を下ろす。


カルミネは、グラスのワインを揺らしながら、ぼそりと呟いた。


「……こうして、ただ隣で生きられたら、よかったのにな」


レオはグラスを置き、ゆっくりと言った。


「俺も、そう思ってた」


カルミネが視線を逸らす。


「こんなふうに、肩を並べて、何の裏もなく――飯を食って、笑って……そのまま眠れたら」


「お前、今日はずいぶん弱気だな」


「……たまにはな」


レオは、そっとカルミネの肩を抱いた。


静かに、頭を預けるように寄りかかるカルミネ。


誰にも知られず、

何も約束せず、

ただ寄り添う。

 



やがて、カルミネはブランケットを肩にかけ、ソファにゆっくりと体を倒した。

レオの膝を枕にするように、そっと頭を預ける。

いつの間にか自然に、そんな距離になっていた。


レオが苦笑しながらも、その髪を優しく撫でた。

触れなければ二度と戻らない気がした。


「……お前はいずれ、上に行く」


カルミネは仰向けになったまま、ふとレオを見上げる。

吸い込まれそうな、漆黒の瞳。

月明かりを映すその目は、どこか諦めに似た、そして誇らしげな静けさを湛えていた。


「……ああ。そのつもりだ」


レオが答えると、カルミネは薄く笑った。


「そうか。……じゃあ、今のうちに縛っておくかな」


「……今日は、縛られてやるよ」


「ふ、意外と素直だな。……そういう趣味か?」


「は?」


「冗談だよ。こっちはまだ余裕があるってだけさ」


からかうような笑み。


カルミネがふいに、手を伸ばした。

その指先が、レオの頬にそっと触れる。


「……遠くに行くんじゃねぇぞ」


カルミネはレオを見つめたまま、

ゆっくり体勢を変えた。


次の瞬間には、

レオの膝に跨るように腰を落としていた。


見下ろす姿勢。

影の奥で光る瞳。


まるで、美しい悪魔が

甘い誘いを落としてくるようだった。


レオは思わず、

息を呑む。


カルミネは胸元を掴んだまま、

わずかに顔を近づける。


「……俺が欲しいか。」


低く、挑発でも甘えでもない声。

支配と渇きが混ざる、カルミネだけの響き。


レオの喉がひくりと動く。


カルミネはその反応に、

薄く笑った。


「動くな。

 主導権は──俺だ。」


言葉よりも近い息遣い。

ソファの狭さが逃げ道を奪い、

その目がレオを捕えて離さない。


「……こういう夜が、いちばんうまくいくんだよ」


耳元で落とされた声は、

まるで何かの“分量”を確かめるように静かだった。


レオは初めて、夜の深さよりも──目の前の男の深さを怖いと思った。


レオは目を閉じ、

その誘いに身を預ける。


誰にも教えない、

誰にも真似できない、

ふたりだけの──


秘密のレシピ。

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