黄金の君と可愛げのない犬

宵月碧

黄金の君と可愛げのない犬


 ふすっと鳴る荒い鼻息とともに、濡れた舌が猛烈な勢いで寝ている男の顔を舐め回した。はあはあと興奮したような呼吸が降り注ぎ、容赦なく唇をべろべろと舐めてくるそれに、男は嫌でも目を覚ます。


「うぶっ、ちょっと待て……起きるっ、起きるからっ……! 舐めるな!」


 男は眉間に深い皺を寄せ、目を瞑ったまま自分の上にのしかかる毛の塊を押しのけた。寝起きの顔で見上げたそれは、無垢な黒い瞳を輝かせ、長い舌を垂らしながら男を見つめている。


「ちょ、痛えよ、踏むなって! う、くさっ……! お前、口が臭いぞ!」


 ずぶずぶと掛け布団を踏み付け、ついでに寝ている男の身体も踏み付け、太い尻尾を振り回した大型犬がベッドから飛び降りた。


「くそ、顔がべとべとだ」


 身体を起こして枕元に置いていたスマホを見れば、まだ朝の五時前だった。起きるには早すぎる。

 二度寝をしようと再び横になると、ウォン! と太く大きな声で犬が吠える。どうやら起きろと言っているらしい。



 浅井柾あさいまさきがゴールデンレトリバーのおもちを預かってから、はや三日。二日間の仕事休みを犬と過ごし、今日はおもちを飼い主の元に連れて行く日だ。


「お前が女だったら、この熱烈な起こし方も喜んで受け入れただろうに」


 無垢な瞳を向ける犬は、メスですらない。

 浅井は溜め息を吐き出すと、パンツ一枚を身に付けただけの姿でベッドから抜け出した。

 浅井が朝の準備を始めると、待ってましたとばかりにおもちが家の中を歩き回る。終始尻尾を揺らしながら彷徨うろついているので、このあと散歩に連れて行ってもらえることを分かっているようだ。


 軽くシャワーを浴びて髭を剃り、適当にTシャツとジーパンを身に付け、散歩を喜ぶおもちにリードを付けてやる。つやりとした黄金色の頭を撫でると、準備万端のおもちが飛び跳ねた。


「お前はいいなぁ、散歩と飯だけでこんなに喜んでくれんだから」


 つい最近、仕事ばかりで寂しいと女に振られた浅井は、ばしばしと尻尾を脚にぶつけてくるおもちを見下ろした。

 三十歳になっても女の扱いには手を焼き、付き合うたびに「何を考えてるのか分からない」、「一緒にいてつまらない」などと同じようなことを言われて終わりを迎える。あちらから寄ってくるくせに、振られるのはいつも浅井の方だ。


「行くぞ、おもち」


 死んだ両親から引き継いだ古い一軒家を出ると、朝の日課であるジョギングコースを歩いたり走ったりしながらおもちと散歩をする。

 九月の終わりともなればようやく朝は気温も少し下がり、過ごしやすくなってきた。穏やかな風が足早に歩くおもちの毛を靡かせ、垂れた耳が動きに合わせてひょこひょこと揺れている。


 おもちとは職場で何度も顔を合わせたり、時々散歩にも連れて行っていたので、丸二日預かることはまったく苦ではなかった。こうして朝から晩まで一緒に過ごしていると、愛おしさまで込み上げてくる。女に振られたばかりで傷心中だった浅井には最高の癒しだ。


 一時間ほど歩き回り、自宅近くの海へと向かう。人のいない砂浜をおもちとゆっくり歩いていると、前方から一人の男がこちらに向かって手を振っているのが目についた。


「おーい、浅井さぁーん! おもちー!」


 男に名前を呼ばれたおもちは、すぐに男が誰なのか察したように飛び跳ねた。太い声で数回吠え、落ち着きなく動きながら尻尾を勢いよく振っている。おもちは力強く引っ張って男の元に向かおうとしているが、普段から鍛えている浅井には効果がない。


 浅井とおもちの元に近付いてくる若い男は、だらしなくスーツを着崩していた。シャツの襟元は大きく開き、胸ポケットからは丸めたネクタイがはみ出している。


「おもちー、ただいまー! 可愛いなお前はぁ〜!」


 スーツが汚れることも気にせず、男は飛びついてくるおもちを受け止め、わしゃわしゃと顔を撫で回した。男がその場にしゃがみ込むと、全身で喜びをあらわにしていたおもちは体を砂浜に横たえ、腹を見せるようにぱかりと脚を開く。


「撫でろってか、よしよし、いい子だなぁおもち〜」


 おもちの腹を撫でる男を冷めた目で見下ろしていた浅井は、気怠げに片手をジーパンのポケットに突っ込んだ。


「間宮、どの面下げてただいまなんて言ってんだ。おもちを俺一人に任せやがって」


「やだ、先輩。朝帰りしたこと怒ってるんですか? 焼きもち?」


「殺すぞ。まる二日帰ってこなかった奴が、何が朝帰りだ」


「いやぁ〜、だってせっかくの休みだし。連休なんて久々じゃないっすか。ハメ外して遊んじゃった」


 語尾にハートマークでも付いていそうな言い方に、浅井は眉をひそめた。


 この顔だけは無駄にいい男、間宮瑛まみやあきらは浅井の家に居候している。まだ二十五歳と若く、女にだらしがない。いい加減な性格で、浅井を苛立たせることに関してはある種の才能がある。


「見てくださいよこれ。もうマーキングですよ。こんなんボスに見られたらまた蹴られますよ」


 シャツの襟元を捲った間宮の首元は、いくつかの赤い痕がくっきりと残っていた。毎回懲りずに独占欲の強そうな女と遊んでいるので、トラブルも年中行事のようにある。そのたびに浅井に泣きついてくるのだから、とにかく面倒臭い。


「余計な面倒起こすんじゃねーぞ。トラブルのたびに俺をゲイに仕立て上げやがって。次俺をお前の男扱いしたら追い出すからな」


「え〜、そう言わずに。俺、浅井さんになら抱かれてもいいですよ。あ、それとも俺が抱いた方がいいですか?」


「ぶっ殺すぞ」


 低い声で言い放つと、浅井は寝転んでいるおもちのリードを引いた。気持ちよさそうに間宮に撫でてもらっていたおもちは立ち上がり、尻尾を揺らして付いてくる。


「帰るぞ、おもち。今日はお前の主人が帰ってくるから、準備しねぇと」


「げっ、ボスは今日帰ってくるんでしたっけ?」


「お前、そんないい加減でよくボスの護衛が務まると思ってるな。いつか首が飛ぶぞ」


「それは困りますよ〜、浅井さんの相棒は俺しかいないんですから」


「俺は他の奴と組む方がいい」


「ええ、嘘でしょ!」


 大袈裟に驚く間宮を無視して、おもちと慣れた砂浜を歩き出す。風に乗って運ばれる潮の匂いを嗅ぐように、顔を持ち上げたおもちが鼻先をひくつかせた。押しては引いていく波の音を聴きながら、浅井は朝の陽光に目を細めると、落ち着いて横を歩くおもちに視線を落とした。


「三日なんてあっという間だったな。お前がいないと寂しくなりそうだ」


 自分に話しかけているのが分かっているのか、おもちが浅井を見上げる。この愛くるしい生き物と過ごした時間がすでに懐かしい。

 朝晩の散歩、手を加えた食事、夜は一緒のベッドで眠ったのだから、もう恋人のようなものだ。


「やだなぁ、浅井さんには俺がいるじゃないですか。寂しくなんてさせませんよ」


 そう言って間宮は背後から浅井の肩に腕を回すと、爽やかに微笑んだ。


「お前がおもちの代わりになれるとでも思ってんのか?」


「なりましょうとも!」


「おら、お手」


 間宮に手のひらを向ければ、「わん」と言って丸めた手を乗せてくる。この男にプライドというものは存在しないのか。


「犬か、お前は」


「だからおもちの代わりですってー」


 間宮の腕を肩から振り払い、浅井は呆れたように息を吐いた。

 今日はやけに絡みがうざいので、あとで面倒な頼み事をしてくる可能性がある。間宮瑛とはそういう男だった。


 浅井と間宮は、とある女性の護衛として雇われ、そこで初めて出会った。その護衛兼付き人の仕事は基本二人一組のペアで行われるため、仕事中は朝から晩まで一緒にいることが多い。必然的にそれなりの関係を築いていくものだが、同じ家で暮らしているペアは他にいないだろう。

 女に追い出されて困っていると言って、浅井の家に転がり込んできた間宮との暮らしも一年近い。いつになったら出ていくのか、その兆しはまったく見えない。


「でも浅井さん、これから一ヶ月は休みなくボスに付きっきりですから、寂しいとか言ってる暇はありませんよ。『浅井、駅前のケーキを今すぐ買ってきなさい! コーヒーも忘れるんじゃないわよ!』って、毎日のように駆り出されますよ」


「……っく、お前……、それはボスの真似か?」


「そうですよ、似てるでしょう?」


 女性の声色を真似て言う間宮に、思わず笑いが漏れた。浅井が笑えば、なんだなんだと興味津々でおもちが尻尾を振る。


「おもちー、帰ったらご飯食べような。俺たちがよくしてくれたって、ちゃんとボスに伝えるんだぞ」


「お前は何もしてないだろうが」


「まあまあ、俺たちは運命共同体。一心同体ですよ、浅井さん」


「気持ちの悪いこと言うんじゃねえ。肩に腕を回すな、間宮」


 並んで歩く二人の足元で、ご飯と聞いたおもちが尻尾を振り回しながら興奮気味に吠え声を上げると、二人の視線は同時におもちに向けられた。


 舌を出してまるで笑っているかのような黄金の顔を見れば、その愛くるしさに、二人の男は笑みを浮かべずにはいられなかった。



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黄金の君と可愛げのない犬 宵月碧 @harukoya2

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