第3話 不思議な少女

紅茶の芳しい香りが鼻をくすぐった。

真理はまどろみの中でゆっくりと瞼を開ける。


目の前には、整然と並べられたティーセット。

湯気を立てるカップ、砂糖壺、ミルクピッチャー。

そしてその向こう側には、一人の少女がちょこんと座っていた。


「まあ、あなたったら。お茶会の途中で居眠りだなんて……お行儀が悪いわね」


澄んだ声で、少女は軽く真理を窘める。


「え……?」


真理は慌てて身を起こし、周囲を見渡した。

そこにあるのは広大な平原。

見渡すかぎりの草原に、机と椅子がぽつんと置かれているだけ。

空は高く、雲はゆっくりと流れ、しかしその場にはどこか現実離れした静けさが漂っていた。


「ここは……仮想空間? それとも、夢……?」


頭が混乱し、言葉が途切れ途切れになる。


少女はそんな真理を見つめ、ふうと小さくため息をついた。

そして椅子から立ち上がると、裾を摘んで優雅にお辞儀をした。


「はじめまして。わたし、アリスよ」


真理は、いまだ現実感の掴めない周囲を見渡しながら、ぎこちなく口を開いた。


「……す、杉浦真理です。大学生で、えっと……」


自分でも状況が理解できないまま、反射的に名乗ってしまう。

アリスは椅子に腰かけ直し、紅茶を一口飲んでから、好奇心を隠さない瞳で真理を見つめた。


「真理。あなたは、何をしにこの世界に来たの?」


「わたし……」


言葉を探すように、真理は胸の奥に渦巻く思いを吐き出した。


「卒論のテーマで『不思議の国のアリス』を選んだんです。でも、ナンセンスっていう言葉がどうにも実感できなくて……。本を読んでも頭ではわかるけど、心には落ちてこない。教授にも、まだ絞り込みが足りないって言われて……」


声が少し震える。


「だから……もう仮想空間でも夢でも、どっちでもいい。ナンセンスってものを実感できるなら……」


そこまで一気に言い終えると、真理は顔を伏せた。

自分でも半ば投げやりで、でも必死な願いだとわかっていた。


アリスはそんな真理を見つめ、ふふっと小さく笑う。


「なるほど。あなた、まじめなのね」


カップをテーブルに置き、アリスはゆっくりと身を乗り出した。


「じゃあ、案内してあげる。ナンセンスの世界へ」


真理は恐る恐る問いかけた。


「……あの、あなたは本当のアリスなの?」


少女は紅茶のカップを揺らし、瞳を細めて笑った。


「本当の、ね」


言葉を選ぶように、彼女は指先でティースプーンをくるくる回す。


「わたしは、白うさぎを追いかけて穴に落ちたアリス。

 でも同時に、川辺でルイスおじさまに物語を聞かせてもらったアリス・リデル。

 お姉さまと本を読んでいると、眠たくなって夢を見たこともあったし──。

 庭の花壇で、花たちがこっそりおしゃべりしているのを聞いた気もするわ。

 そうそう、ピクニックで持っていった苺タルトの味は、いまでもはっきり覚えているの。

 でも、あの時いっしょにお茶を飲んでいたのは、たしか三月うさぎだったかしら……?」


真理は目を瞬いた。


「え、それって……現実の記憶と物語が、入り混じって……」


少女はそっとカップを置き、微笑んだ。


「そうよ。物語も思い出も、みんなわたし。どれが本当かなんて、どうでもいいの」


「ど、どうでもいいって……」


真理は混乱し、言葉を失う。


けれどアリスは楽しげに肩をすくめ、紅茶の香りに包まれながら一言だけ告げた。


「わたしは、わたし。ね?」

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