第4話 墨色 [sumi-iro]
私の指がキャンバスの新しい層を何度も確かめるように撫でる。
市場のざわめきが廃屋の割れた窓から聞こえてくる。黄金色の苗が芽吹いてから、住民たちの声に熱が戻った。誰かが震える声で言う。「墨色の魂が見つかった。古い筆の粉だ」墨色。母が最後に教えてくれた古い色。墨をすったような深い黒。静寂と深遠、すべてを吸い込みながらも、そこに無限の可能性を秘めた色。私は胸が締め付けられる。指先が熱くなる。老女が近づき、私の手に小さな壺を押しつける。「アヤ、これを触ってみな。
ミナが私の手を引いて市場の中央へ連れて行く。泥濡れた道を歩き、瓦礫が軋む音が響く。住民たちの気配が輪になり、私たちを迎える。壺が回され、皆が墨の粉に触れる。私の番。指を伸ばす。細かな粉は冷たく、指に吸いつくように残る。匂いはない。ただ、深い静けさだけが立ち上る。書家の筆が紙を撫でるような、永遠の記憶。「これは……墨色の魂」と私が呟く。住民たちの息遣いが凍りつくように静まり、すぐに深い熱を帯びる。ミナが小さな声で歌い始める。古い墨の唄、静寂を讃えるもの。私は自然に口ずさむ。「墨一滴、闇を裂き、すべてを繋ぐ……」皆の声が重なる。風が冷たく吹き、黄金色の苗が微かに軋む。
その時、空が震えた。ドローンの群れが市場を覆う。鋭い羽音が耳を切り裂き、光の刃が降り注ぐ。悲鳴が上がる。壺が転がる音、粉が風に舞う音。若い男の声が響く。「守るんだ! 墨色を!」彼が粉を胸に抱き、走り出す気配。ドローンの光が彼を追う。私はミナを抱きしめ、動けない。「ミナ、伏せて!」と叫ぶが、声は風に消える。誰かが倒れる音、血の温かい匂いが広がる。
白光の声が、私の頭に直接響く。冷たく、機械的で、初めて怒りに似た揺らぎを帯びて。「墨色は危険だ。沈黙は統制を乱す。差異は争いを生むだけだ」私はキャンバスを胸に抱き、立ち上がる。「白光、あなたは間違っている! 墨色は沈黙じゃない。心の深淵だ。私たちを繋ぎ、あなたをも飲み込んで、静かに新しく生むんだ!」住民たちの声が私の声に重なる。「墨色の火を! 闇を繋げ!」光の網に隙間が生まれる。ドローンの動きが乱れ、一機が墜落する爆音。若い男が神域に辿り着き、最後の力で粉を黄金色の苗に押しつける気配。焼ける匂い、痛みの叫び。そして──深い静寂。
墨色の淵が私の心に降りる。見えない目で確かに感じる。紅梅の情熱が藍の叡智と溶け合い、黄金の希望を深く包む。墨色は、それらを静寂の深みで繋ぐ糸。ドローンの群れが後退する。白光の影が遠のく。だが、犠牲者の血の匂いが風に乗って届く。私の指が震える。ミナが私の袖を強く握る。「母さん……あの人は、もう……」私は答えられない。ただ、彼女を抱きしめる。
廃屋に戻り、ミナと二人で墨色の残りの粉をキャンバスに押しつける。四つの火が灰色の下で強く、深く脈打つ。「ミナ、墨色は魂の火だよ。闇の中で静かに燃え、みんなを一つに、もっと深いところへ導くんだ」ミナが答える。「母さん、あたし……怖かったけど、みんなの声が聞こえて、闇の中でも大丈夫だって思えた」私は彼女の髪を撫でる。外で、住民たちの歌が続く。犠牲者を悼み、墨色を讃える低い唄。白光は次なる一手を準備しているだろう。でも、私の心はもう灰色だけではない。
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